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Jazz and Far Beyond

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InterviewsNo. 292

Interview #250 イクエ・モリ

Ikue Mori イクエ・モリ 森郁恵
ドラムス、ドラムマシーン、ラップトップ・エレクトロニクス、作曲、映像制作。
1953年、東京生まれ。1977年、NYに移住。アート・リンゼイの参加するDNAでドラマーとしてデビュー。1999年の award for Prix Ars Electronics Digital Music 以降、受賞多数。
https://ikuemori.com/home.html

Interviewed by Kenny Inaoka via Google Document, July 2022
Photos taken by Kenny Inaoka at PitInn, Tokyo, June 19, 2022

Part 1:
NYのシーンが100% 戻ったとは言えないが、何とか押し進めてはいるようだ

JazzTokyo:  6月19日に新宿のPitInnで「シャボテン幻想」と題されたイクエさんと巻上公一さん、田村夏樹さん、藤井郷子さんのカルテットを聴く機会がありました。イクエさんのラップトップと巻上さんのテルミンがエレクトロニクス、田村さんのトランペットと藤井さんのピアノがアコースティックと興味のある編成でした。イクエさんと巻上さんは同じようにサウンドスケイプを創ることができるわけですが、逆にやりにくいということはありませんでしたか?

Ikue: 巻上さんは多彩な方なのでエレクトロニクスの音だけに反応してる訳ではないですし、全く違う世界にも導いてくれるので楽しいです。

JT: 2ndセットでやや全体的に緊張感が落ちたように聴こえたのですが、インターミッションを挟むことでテンションが下がるというようなことはありませんか?

Ikue: あります。ただそれで、普段とは違った音とか演奏が生まれることもあります。私個人としてはインターミッションなしに一気に思い切りに!という方が好きですが。

JT: 大阪の公演ではドラムセットを叩かれたと耳にしましたが、最近でもドラムを叩かれることはあるのですか?

Ikue: 滅多にありません。YoshimiOさんと一緒にやる時ほんの一部に使うだけです。彼女とは数年前から彼女のtwin drum projectで一緒に叩いてましたので。

JT: コロナ禍の数年はとくにNYではロックアウトもありましたが、どのように数年を過ごされていましたか?

Ikue: その直前までツアーが続いていたので逆に家にいられたお陰でたくさんのアルバム制作や映像制作ができました。

JT: そんな中で藤井郷子+田村夏樹ペアと3人でアルバム『Prickly Pear Cactus』(Libra)を制作されました。これはデータをやり取りしながら双方がオーバーダビングを繰り返すという手法だと思いますが、即興演奏と比較していかがでしたか?

Ikue: リモート・スタジオ演奏では時間をかけて色々吟味したり、もっと音を重ねたりという作業がいつでも出来てライブ演奏ではできない曲も出来るので私は好きです。

JT: イクエさんは、2016年にもワダダ・レオ・スミス(tp)を交えたカルテット盤『アスピレーション』(Libra) で田村=藤井ペアと共演されていますが、そもそも彼らと共演するきっかけは何だったのでしょうか?

Ikue: 郷子さんがNYのストーン・レジデンシーをされた時に演奏に誘われました。最初はDUOだけでしたが、のちに夏樹さんとも一緒に演奏するようになりました。パンデミック前に彼らとフランスのミュージシャンとのコラボのグループ KAZEにゲストで参加して録音、ツアーなども一緒にしています。

JT: 2020年の『KAZE & Ikue Mori / Sand Storm』(CIRCUM / LIBRA)ですね。 音楽的に彼らのどこに魅力を感じられますか?

Ikue: まず驚かされるのは郷子さんのパワーとエネルギーですが、2人の音楽の許容範囲の広さとオープンネス、ユーモア、ダイナミクス、お互いに聴き合えて即興も作品制作も出来るところです。

音楽的な交流だけでなく一緒にいて楽しいのは一番です。

JT: 今月の20,21日にはノルウェーのモルデ・ジャズ・フェスでジョン・ゾーンの Electric Masadaに参加されます。これは、イクエさんの他にも電子(電気)楽器の奏者が参加されるのですか?

Ikue: ところが、空港まで入ったのですが、ご存知のようにSASが破産してパイロットのストライキや悪天候、メカニカルの不具合が重なって、オスロよりもっと遠いモルデまで行き着くのも帰って来るのも困難になって私も ジョンさんも諦めて帰ってきました。ジョンの他のミュージシャンの殆どはなんとか到着して私が参加するはずだったBAGATELLSや他のコンサートも ジョン抜きで成功したようです。今日予定されているE. MASADAは緊急に既にモルデに来ているミュージシャンだけで構成されているのでオリジナルのメンバーは殆ど入っていません。

JT: 8月にはNYダウンタウン・シーンのボス的存在ティム・バーンとStoneで演奏予定ですね。コロナ禍解禁ですっかりシーンが戻ってきましたか?

Ikue: Timとはもう10年以上演奏していませんが、今回はベーシストのBrandon Lopesのストーン・レジデンシーに誘われました。

シーンが100% 戻ったとは言えませんが、何とか押し進めてはいるようです。

Part 2:
この音楽コミュニティが無かったらこれほど長く自分の世界を拡張していくことは出来なかった

JazzTokyo: 1977年に渡米されますが、単独でしたか?NY訪問は何か目的がありましたか?

Ikue: フリクションのレックと一緒でした。全くの観光目的でNYのバンドが観れたら良いなくらいの気持ちで行きました。

JT: NYがすっかり気に入られたようですが、NYのどこに惹かれましたか?

Ikue: 全てが新しい体験でエキサイティングでしたが、DNAに誘われてバンド活動を始めてなかったら移住まで考えてなかったと思います

JT: 一度帰国されて改めて渡米されたわけですね?その時は移住の覚悟でしたか?

Ikue:  レックが1年後に帰国した時、私は残ると決めてそれから 6年帰国できませんでした。

JT: 僕らが初めてミュージシャンとしてのIkue Moriの名前を知ったのは『DNA』という当時のNo Wave系のレコードでした。メンバーのひとりにアート・リンゼイがいますが、DNA結成の経緯からお話いただけますか?

Ikue: まずレックが CBGBでLydia Lunch、James Chanceが新しく始めようとしてるバンド に誘われてバンドが練習を始めたスペースに彼らの友達でやっぱりバンドを作りたかった若者が何人かいてジャム・セッションが始まって、お前も何かやれと言われてドラムを選んだのが最初の出会いです。彼らはジェイムス以外はみんな楽器を持つのも初めての他の分野のアーティスト達だったので私もそれほど臆せず参加できました。

JT: 同じ頃にブライアン・イーノがプロデュースしたアルバム『No NewYork』がアイランド・レーベルからリリースされ話題となりましたが、このアルバムにもDNAの演奏が4曲収録されています。DNAは結成後すぐにNo Waveシーンの主要バンドのひとつとして存在したのですね。

Ikue: その頃一緒に知り合ったのがNoNYに参加してるMARSの4人で、Jamesが作った彼のバンドとDNAそしてLydiaのバンドがメンバーは変わったけど基本的にNoWaveの始まりだと思います。勿論その頃には同じような経歴のアーティストが作ったオリジナルバンドも沢山いました。

JT: それから数年後にジョン・ゾーンのTzadikレーベルから『Locus Solus』というジョン・ゾーンとウェイン・ホーウィッツのコ・リーダー名義のアルバムがリリースされますが、このアルバムではドラム・マシーンを演奏されています。ドラム・セットからドラム・マシーンにスイッチされた理由を教えていただけますか?

Ikue: 6年ぶりに帰った時、レックに小さいCASIOのドラムマシーンを貰ってプログラムするうちに楽しくなって、ドラムを練習するスペースも無かったので色々実験を始めてドラムマシーンを楽器のように使えないか模索してました。そのうち90年代にはドラムマシーンが3つに増えてeffectsを駆使してミキサーで混ぜてインプロ演奏を続けていました

JT: さらに2000年に入った頃からラップトップにスイッチされますが、身体を使わずに頭脳に切り替えられた理由は何だったのでしょう?

Ikue: ドラムマシーンを使い始めた頃から切り替えが始まってました。最初はドラムセットにドラムマシーンを加えていたのですが段々とフォーカスがシフトされていって最終的にドラムマシーンだけになったのですが、1999年のアース・エレクトロニクスで、Megoの創立者のPeter Raburg、Fennesz等と知り合って、彼らがラップトップを楽器のように使って音を出してるのに触発されて私も出来ないかとラップトップの音楽プログラムを学び始めました。その頃キム・ゴードンのバンドでJim O’RourkeやDJ Oliveと一緒に参加していて彼らにもこの切り替えの際大変お世話になりました。

JT: ラップトップの場合は、事前にプログラミングされた音響や音像を使うことが多いのでしょうか?あるいは演奏の場で即興的に即応することが多いのでしょうか?

Ikue: どちらも使います。状況に応じてライブで即座に反応するために事前にプログラムしておいた音源やサウンドやフレーズを出してそこから音楽的に変化させていくということが多いです。

JT: 近年では映画や委嘱のための作曲や演奏も多いようですが具体的な作品をご紹介いただけますか?

Ikue: 90年代にAbigail Childという映像作家にB-SIDEという映画の音楽を頼まれたのが初めの作品です。その後 Maya Derenの映像のライブサウンド・トラックの演奏をロンドンのテート・モダーンで依頼されたりしましたが、だんだん自分で映像も作りたくなって”Bhima Swarga” ”KIBYOUSHI"というアニメーションのDVDを創作し、現在も映像制作は活動の要になってます。最近はJoan Jonasの新しい作品のパーフォーマンスにも作曲、演奏で参加してます。

JT: 1999年の​​Prix Ars Electronics Digital Music​​ Awardの受賞を皮切りに、多くの賞やグラントを獲得されていますが、すでにこの分野での第一人者のひとりとして国際的に認知されています。移住されて半世紀近くになりますが、振り返ってどのような感慨をお持ちでしょうか?

Ikue: まず多くの出会いが私の人生に影響し、多くの友人、知人からサポートしてもらったことが1番の感慨です。この音楽コミュニティーが無かったらこんなに長く自分の世界を拡張していくことは出来なかったとも思います。

Part 3
この音楽コミュニティの特に女性アーティストたちを少しでもサポートできたらと願ってはいる

Jazz Tokyo: お生まれはどちらですか?

Ikue: 東京の中野です

JT: 音楽的な環境に恵まれた家庭でしたか?

Ikue: 普通のサラリーマンの家庭で、特に音楽的な訳ではなかったですが色々な文化体験や稽古事には熱心でした。

JT: ご両親に音楽のレッスンを受けるように勧められことはありましたか?

Ikue: うちには足踏みオルガンがあってピアノ教室に少し通ってました。

JT: 最初に耳を傾けた音楽はいつ頃どんな音楽でしたか?

Ikue: 小学生の頃バレーも習っていたので <白鳥の湖>とかにハマってました

JT: 最初に手にした楽器はいつ頃どんな楽器でしたか?

Ikue: どういう訳か家にあった足踏みオルガンです。

JT: 学校で音楽サークルやクラブに所属していましたか?

Ikue: 音楽サークルとかには所属してませんでしたが鼓笛隊で鉄琴を弾いたことを覚えてます

JT: ラジオから流れてくる音楽に興味を持ちましたか?

Ikue: 10代の後半はFENを聴いてテープに録音したりしてました

JT: 学校での音楽の成績はどうでしたか?

Ikue: 普通です

JT: 初めて生で接した音楽はいつ頃どんな音楽でしたか?

Ikue: 初めて自分で行ったコンサートはドノバンでした

JT: その音楽を聴いて自分でも演奏してみたい気持が沸きましたか?

Ikue: 演奏する側になることは夢にも思いませんでした

JT: 最後に、イクエさんの夢を語ってください。

Ikue: 夢というのはないですが、現実的に頭も体も健やかに、今続けている創作活動がいつまでも続けられ、今までお世話になったこの音楽コミュニティーの特に女性のアーティストたちを少しでもサポートできたらとは願ってます。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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