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InterviewsNo. 301

Interview #259 岡本勝壽(仙台ジャズ物語)

岡本勝壽(おかもとかつじゅ)
1953年 東京大田区生まれ。仙台育ち。
幼少時にエノケン(榎本健一)、ジャズ三人娘(美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)や彼女たちをバックで鼓舞するジャズ・バンドの演奏に魅かれる。
1970年、ジャズピアノの高僧セロニアス・モンクの生音に触れる。
東北地方(仙台・山形・岩手・福島・秋田)、東京で開催の「ジャズ公演」に足繁く通い「ジャズの巨人達」の生演奏に触れる。昭和時代(1960年代〜1980年代)
は、いわゆる「ジャズ・ジャイアンツ」が健在で、「ため息がでるような眩く、迫力ある演奏が繰り広げられた」。
現在、介護のかたわら「近代仙台研究会」に所属。
オーディオ仲間の会「仙台良音俱楽部」でジャズ・レコード鑑賞会(現在、コロナで休止中)とジャズ・ライヴを企画・開催。
「楽都仙台と日本のジャズ史展」(メディアテーク1回、藤崎3回開催)同展実行委員会委員長。
寄稿:
ドキュメンタリー映像DVD作品「楽都仙台と日本のジャズ史」企画・監修
ジャズ批評誌(Vol. 107)「チェットベイカー特集号」に寄稿(近刊)。
「仙台ジャズ物語」2023年3月31日(金港堂書店)刊行。

Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌 2023年4月 via Google Document


Jazz Tokyo:『仙台ジャズ物語〜楽都仙台と日本のジャズ史』(金港堂)の出版おめでとうございます。すぐに重版となったようですね。

岡本:有難うございます。初版の部数を少な目に抑えたことが大きな原因です。笑い話ですが、家内に部数と定価をいくらにするか相談しました。「ジャズの本でしょう。そんなに売れっこない。値段が高かったら買わないし」と超現実的な見立てでした。版元(金港堂)が決まるまでにも紆余曲折があったのです。ご存知のように本の世界でも「流行り、廃り」があります。金港堂は、仙台の老舗書店ですが、郷土史の出版にも力を入れています。実店舗(4店舗)を構えている強みもありました。通常は、半年か1年のサイクルで撤去される運命の書籍ですが「お店がつぶれない限りは店頭販売させていただきます」という有難いお言葉をいただきました。打合せで事務所に伺った際、壁面に掲げられていた金港堂の社是ともいえる「岡田徹詩集」の言葉に感銘を受けました。

JT:その詩には、どのようなことが書かれていたのでしょうか。

岡本:商売とはというタイトルでしたが感動のあまりメモを取らせていただきました。
「商売とは銭儲けの方便ではない。一人のお客様の喜びのために誠実を尽くし一人のお客様の生活をまもるために利害を忘れる。人の心の美しさを出しつくす業(なりわい)。あなたの今日の仕事はたった一人でもよい。心の中で有難うといって下さるお客という名の友人をつくること。あなたのこの職業に・・。」という言葉でした。それで出版をお願いしようと決めたのです。

JT:客商売の鑑のような言葉ですね。サブタイトルに「楽都仙台と日本のジャズ史」とありますが、「学都仙台」が「楽都仙台」とも呼ばれるようになったのは、伊達政宗による仙台開府400周年を記念した2001年(平成13年)以来と聞き及びましたが。

岡本:調査して分かったことなのですが「杜の都仙台」は、「学都仙台」のあとに出来た標語です。そのあとに「楽都仙台」という標語が2001年に作られました。仙台市(市民文化事業団を含む)が主催している音楽関連事業の充実を示す標語です。仙台市は、行政主導の音楽事業とは別に、市民手づくりの音楽イベントが共存している街です。もともと仙台は、演劇が盛んな土地でもあります。最盛期には80を超える劇団があり、仙台演劇鑑賞会(旧労演)は、ピーク時には、約9千人の会員数を誇りました。1980年代には「劇都仙台」と呼ばれました。仙台という街の発展と「演芸文化」には、深い繋がりがあったのです。明治から大正時代にかけて「芝居劇剣会、手品(和妻)、講談、落語」など演芸専用の芝居小屋が、仙台には8つくらいありました。1,500人収容できる小屋があったそうです。仙台の街が発展する礎(いしずえ)を築いたとされる山家豊三郎について、幻の名著『東一番丁物語(柴田量平著)』などを元に「ジャズ史展」で紹介しました。山家豊三郎は、東一番丁にある屋敷を開放されました。山家明神という神社があったそうです。その境内でお祭りや見世物として芸人を招き、飲食などのお店を設けて賑わいのあるまちづくりを推し進めたのです。『東一番丁物語』復刊の編者が、同級生で人気歌手の稲垣潤一氏だった事にも驚きました。

JT:稲垣潤一というのはドラムを叩きながら歌う<クリスマスキャロル>で知られる歌手ですね。彼にはそういう側面もあったのですか。ところで、岡本さんは、もともと仙台のご出身ですか?

岡本:彼(稲垣潤一)は、仙台で文化貢献をされていたのです。私は、生まれは、東京都大田区(大森)です。大田区に天勝が暮らしたことがあったそうです。小学校に入る少し前まで横浜で過ごし、母方の実家がある仙台に一家で引っ越しました。30代半ばに都内に転勤するまで仙台市民でした。

JT:仙台におけるジャズの歴史を紐解き、まとめてみようと決心されたのはいつ頃、どういうきっかけでしたか?

岡本:川内の図書館に勤務していた20歳代の頃、職場の上司だったCさんから「ルイ・アームストロング楽団が、進駐軍が駐留していた時代に仙台で演奏したんだよ」と聞かされたのです。詳しいことを調べたいと思いました。月日が流れ、東北大震災後に地元の力になれないものかと仙台のジャズフェス(定禅寺ストリート・ジャズフェスティバル)でボランティア活動に参加しました。その時に、楽都仙台と呼ばれるようになる以前のジャズの出来事が「たな晒し」になっていることを知らされました。誰かがやらなければと思いました。

JT:それから出版までにはどれくらいの時間がかかりましたか?

岡本:出版までには10年かかりました。資料収集と整理に時間を費やしました。幸いなことはコンサートのつど購入していたパンフレットやチラシ(フライヤー)、チケットの半券は無くさないように自宅に保管していたのです。ダブったチラシを「ディスクユニオン・ジャズ東京」に持ち込んでお金にし、そのお金を資金にユニオンさんで別のチラシを購入しました。ユニオンの店員さん達は、レコード、CDではなく「紙もの」ばかり購入する変なオヤジがいる、と思われたでしょうね。「仙台ジャズ物語」に登場する諏訪君の入れ知恵です。ユニオンに持ち込めば、高く買い取ってもらえる、と言うのです。高くなかったけど(笑)足しになりました。ディスクユニオン・ジャズ東京さんにこの場をお借りしてお礼を申し上げます。

JT:いちばん苦労されたところはどんなところでしょう?

岡本:「介護」の傍らの作業なので、図書館などで調査するにも人と会うにも時間的な制限がありました。調べたい時期に「コロナ」で図書館の休館日が長く続き、困りました。付録として「年表」を作成しましたが、根気のいる作業でした。改めて「スイングジャーナル」誌は、凄い雑誌だったな、と思いました。

JT:当時を知っていて直接取材ができた関係者というのは、高見秀司さんと稲垣次郎さんのおふたりですか?

岡本:2013年か2014年頃に仙台在住の鷹野あつしさんと知り合いました。たまたま、仙台市内のとあるマンション前で野球帽を被り草むしりしていたおじさん(=鷹野さん)に声をかけたところ、ジャズの話題になり「稲垣次郎さんとは古くからの友人だよ」と稲垣さんをご紹介いただいたのです。伝言を言付かり、2016年だったか、銀座「SWING」で前田憲男さんとウィンドブレーカーズの演奏を聴きに出向いた際に稲垣さんにお会いしました。2019年10月、「せんだいメディアテーク」で開催した「楽都仙台と日本のジャズ史(資料で探る仙台と日本のジャズ史)展」の会場に市内在住の菊池栄次郎夫妻がお見えになり「進駐軍の慰問で来仙していたルイ・アームストロング楽団の演奏を最前列で聞いた」というお話を伺いました。後日改めて(菊地さんの)ご近所の居酒屋でお会いした時に高見秀司さんと「ほそやのサンド」細谷正志さんのことをお聞きしました。菊池さんが細谷正志さんのご子息(細谷正弘さん)に橋渡ししてくださり、高見さんにお会いすることが出来たのです。高見さんが住んでいる「神町」(山形)には7,8回程足を運び、お話を伺いました。労音の事務局で働いていた松村文夫さん、1950年代からジャズの演奏会場に足を運ばれた木村政武夫妻。小学校高学年の頃、市内の進駐軍病院ロビーでサッチモを見たというご夫妻などが「ジャズ史展」会場に見えられました。外山喜雄さんの友人で都内に在住の宮城健さんからは、篠田次郎さんを紹介していただき、文京区のご自宅に伺ってルイ・アームストロング楽団仙台慰問演奏のことを取材させていただきました。篠田さんは、日本における吟醸酒研究の第一人者の方です。盛岡で、照井顕さんの配慮で穐吉敏子さんに短時間でしたが、お会いしてお話を聞くことが出来ました。福島のジャズ喫茶『ぱすたん』を経営された敏子ママから依頼され、阿部薫やマル・ウオルドロンなどの映像の撮影と録音を担当された久納さんにもジャズ史展でお会いすることができました。ジャズ史展での主な目的が「潜伏キリシタン」のように探さないでくださいと過ごされている「ジャズ・ファン」を見つけて話をお聞きすることでした。木村政武さんは、お会いした1週間後に亡くなられたと奥様からお聞きしました。

約70年ぶりの再会を果たした
高見秀司氏と菊池栄次郎氏 2020年9月@展示会

JT:地元仙台だけではなく東京にまで足を伸ばされて取材されたのですね。それにしても100万都市である仙台の「ジャズ史展」にそれだけ多くのオールド・ファンが駆けつけるというのは驚きです。高見さんは米軍キャンプにバンドを仕込む仕事をされていたのですね。

岡本:高見さんからお聞きしたのですが「終戦後、仙台に戻ったが働きたくても働けない時代だった。ラジオからジャズの演奏が流れてきて、ジャズでご飯が食べられる時代がきたと友人から聞かされて。この仕事(マネジメント)に人生を賭けてみようと決意し、仙台で進駐軍下士官のサージャント・バネーケンと運命的に出会い、神町に出向いたことがきっかけとなり、幸運にもショー・ビジネスのパスを入手された」というのです。多い時には、6つのバンドを手配されていたそうです。

JT:稲垣次郎さんは戦後に仙台でジャズを演奏されていたのですね。2021年に日本ジャズ音楽協会の「ジャズ大賞」を受賞されたときに授賞式で久しぶりに元気な姿をお見かけしました。

岡本:稲垣さんは、高校を中退し、仙台でバンドマンのお仕事をスタートされたそうです。稲垣さんは素敵な方でした。一流の方に共通することかなと思うのですが、決して偉ぶらない方です。「稲垣さんが若い頃は、相当おモテになられたでしょう」と尋ねたところ「僕なんか、若い時は、ギラギラしていた方だから女性が寄り付かなかったよ」と冗談半分?に言われました。受賞のことは、オールアートの石塚さんからもお聞きしていました。

JT:僕(稲岡)はこのとき web-magazine JazzTokyoの編集長として、日経ラジオの番組プロデューサー小西啓一とともに「会長賞」をいただきました。岡本さんもメディア側のひとりとして充分受賞に値する活動をされています。とくに仙台のジャズの歴史を1冊の資料にまとめ上げた功績は大きいと思います。僕からも協会に情報を入れておきましょう。(笑)

岡本:本当に有難うございます。常々、稲岡さんの著書や評論を拝見しており、提灯記事やお世辞などは、一切通用しない方だという印象が(稲岡さんに対して)ありました。嬉しいお言葉です。

松旭斎天勝一座(大正時代)

JT:仙台にジャズが根付くきっかけになったのがマジシャンの松旭斎天勝というのもユニークですね。彼女のことは日本のジャズの発祥の地と言われる神戸や横浜のジャズの歴史にも登場します。

岡本:私の住んでいる建物のベランダから「広瀬川」を眺めることができます。天勝は、15歳の時に広瀬川で入水自殺を図り、救助されています。仲間の「嫉妬」が原因で「濡れ衣」を着せられてしまい広瀬川に飛び込んだようです。二瓶さんという釣り好きが天勝を助けたそうです。宿に送り届けられ事実が判明。天勝に濡れ衣を被せた女性は一座を去ることになります。天勝自身の著書にも記されていました。天勝を題材にした芝居が行われていますが、入水自殺を図る場面がありました。二瓶さんが居なかったら宮澤賢治の「岩手軽便鉄道7月ジャズ」という詩も誕生しなかったのでは、と思います。神戸、横浜のジャズの歴史についても然りです。

JT:宮沢賢治とジャズについてはのちほど伺うとして、当時 Jazzは「ジャヅ」と表記されていたようですが、この表記はどの文献で見られますか?

岡本:天勝は、師匠の天一一座の座員だった頃と天勝一座を旗揚げした時代に欧米でマジシャンとして興行を行っています。一度目のアメリカとヨーロッパ巡業は、足かけ4年に及んでいたようです。日露戦争でバルチック艦隊を撃破するかという時期に帰国しています。疫病も流行していた時代のようです。それにしても明治時代の4年が海外(アメリカとヨーロッパ)の巡業生活です。15歳の天勝は、19歳まで、どんな世界を目にしていたのだろうか、と興味が湧きました。天勝が二度目となるアメリカ巡業の時(大正13年~同14年)に「JAZZ」演奏を目の当たりにして「興行に JAZZ を持ち込めば左団扇になる」と天勝自身が述べるのです。JAZZ については、ジアツ、ジャヅ、ジャズ、ジャス、ヂヤヅと表記されていることが当時の新聞等の記事から確認出来ます。

JT:「ジャズ」という表記が一般的になったのはいつ頃でしょうか?

岡本:皆さんがご存じのように1917年にオリジナル・デキシー・ジャス・バンドというグループがレコーディングを行い、発表した年の数年先なのでは、と思います。

JT:米軍キャンプ向けの仕事をしていた高見さんの他に同業の曲直瀬(まなせ)さんご夫妻が登場しますが、渡辺プロダクションの渡辺美佐さん(ベースの渡辺晋と結婚し渡辺姓になる)のご両親ですね。僕はトリオレコード時代、美佐さんの妹さんの信子さんとご主人の桑島滉さんにお世話になりました。ずっとカリフォルニアにお住まいで。桑島さんご夫妻は坂本九の<スキヤキ>を全米ナンバーワンに押し上げた功労者です。

岡本:信子氏が坂本久(九)さんのマネージャーをされていたことは、何かの本で知っておりましたが<スキヤキ(上を向いて歩こう)>をビルボード誌1位に押し上げた功労者であることは知りませんでした。美佐さんは、バンドのスカウト活動をされていたのでしたね。映画「嵐を呼ぶ男」のヒロイン役のモデルは、美佐さんと言われています。阿部薫のお母様が坂本九さんの実姉なのは知る人ぞ知ることです。

JT:坂本九<スキヤキ>全米#1については2022年12月にNHKが「アナザー・ストーリー」を再放送し、その中で信子さんが詳細を語っておられました。僕は何度か会議に参加するため、当時渡辺音楽出版の社長を務められていた美佐さんの広尾のご自宅に伺ったことがあります。自宅で行われた阿部薫の葬儀に坂本九名義の大きな花輪が届いていたのを目にしました。奇縁ですね。1953年のルイ・アームストロングの米軍慰問公演もエポック・メイキングな出来事でしたね。日本側もトランペットの伏見哲夫を中心にセクステットを組んで対抗した。こういうことがジャズの発展には大きいのですよね。

岡本:まさに「対抗意識」だったそうです。花京院のOC(オフィサーズクラブ)将校のカノ・クラーク少佐から「ルイ・アームストロング楽団に負けない位のスペシャルな(前座)バンドを組んでくれ」という依頼があり、仙台のバンドマン達も意気に感じて演奏されたと聞いています。
「母校(東北高校)の後輩、伏見哲夫には、予定していた仕事をキャンセルさせて演奏してもらったけど、これ(ギャラ)が高くてね。おかげで大赤字だったよ」と高見さんが大笑いしながら話されました。

JT:横浜・横須賀も米軍キャンプがあったことがジャズの興隆に大きく寄与しています。

岡本:第二次大戦後に傷ついた日本人の心を癒したのがジャズ音楽です。私の両親が出会った場所が横須賀と聞きました。横浜は、仙台に引っ越しするまでの幼少期に暮らしていましたので、親しみを感じている街です。曲直瀬花子、久雄ご夫妻が、仙台を拠点に「オリエンタル芸能」を立ち上げ、ご一家が、日本の「ショー・ビジネス」、「エンターテインメント」の世界を確立させる原動力(原点)だったことは、まぎれもない事実です。もっと誇ってもよい出来事と感じます。

JT:曲直瀬花子、久雄ご夫妻こそ先ほど出ました渡辺美佐さん信子さんご姉妹のご両親ですね。花子さんは津田塾大卒で英語が堪能だけでなく国際的な教養も持っておられようです。もうひとつ興味を引いたのが「宮沢賢治、仙台でジャズに出会う!?」ですね。これは、詩人でジャズ・ファンでもあった奥成達さんの著書『宮沢賢治、ジャズに出会う』(2009 白水社)で広く知られることになりましたね

岡本:不思議なめぐり合わせでした。奥成さんの著書を購入し、読んだ時は、仙台との結びつきは不明でした。2016年だったか「新宿PIT INN」で奥成さんを偲ぶライヴ・イベントがありました。奥成さんゆかりの山下洋輔さん、坂田明さんや詩人の白石かずこさん、髙橋睦郎さん、実弟で編集者の奥成繁さんも出演されました。その時、最も印象に残ったのが西松布咏さんの三味線と唄でした。まさしく圧巻の演奏でした。後日、神楽坂にある小料理屋で行われた布咏さんの弾き語りライヴのお誘いがあり、そこに繁さんも見えられて二次会のお誘いがありました。新宿の隠れ家にご一緒させていただいたのです。益々「宮澤賢治、ジャズに出会う」のことが頭から離れなくなりました。

JT:賢治 (1896:明治29年〜1933:昭和8年)は「セロ弾きのゴーシュ」があるように音楽好きであったのですが、ジャズを聞いていたというのは意外でした。

岡本:賢治のジャズ詩と仙台との関連性についてですが、 2019年のジャズ史展に見えられた「近代仙台研究会」会員の方に入会を薦められました。会の事務局長である斎藤広通さんから「仙臺文化」(代表者の渡辺慎也氏が死去され廃刊)という機関誌に女性だけのジャズ・バンドのちらしが掲載されていたという助言をいただき、書店を駆けずり回って入手しました。驚いたのは「アズマ女子ジャズ管弦団」と共に見開き頁に松旭齊天勝一座の仙台歌舞伎座興業のちらしも掲載されていたことです。キャプションには、大正15年9月となっていました。どういうことだと思い、明治4年から大正15年までの地元新聞(河北新報紙)の記事などを調べたのです。河北新報は、データベース化されたのが平成に入ってからなので、市内の図書館に保管されている新聞やマイクロフィルムを発行年月日で1ページ毎に探す作業でした。
市民図書館にはマイクロフィルム機器が1台しかなく、一人1時間という閲覧時間の制約がありました。コロナ禍で順番待ちしたこと、利用時間待ちの方に配慮しながら確認作業を行いました。天勝の記事を発見した時は、興奮しましたね。2021年開催のジャズ史展では「松旭齊天勝と仙台」と題してパネル展示し、「近代仙台」誌にも寄稿(掲載)しました。

JT:史実の検証には本当に時間と労力、それに根気が必要になりますね。ところで、僕は、2020年にNadja21レーベルから『阿部薫/完全版東北セッションズ 1971』をリリースしたのですが、これは後に「ユリイカ」「カイエ」の編集長を務める小野好恵が阿部薫の初めての演奏旅行を組んだ時のドキュメンタリーです。小野によると阿部の第一声は仙台駅前のヤマハ楽器だったそうです。その後、阿部は東北大学でも演奏していますが、僕はこの頃の阿部は絶頂期のひとつと認識しています。

岡本:仙台駅前のヤマハ楽器のことは、初耳です。1971年は、モダンジャズを中心に聞いていたのです。ジャズ喫茶でフリージャズ・新主流ジャズに力を入れていたお店は、仙台市内に3軒ほどありましたが「JAZZ&NOW」のオープンは1972年頃。「AVANT」は、1971年暮れだったと記憶しています。阿部薫の絶頂期を目撃していないのです。個人的に乗り遅れた、と自覚しています。阿部薫は、「太く、短く生きた」ジャズ・プレーヤーだったと思います。お母様が「薫、早かったわねえ」と亡くなられた時に言われたのだそうです。どんなお気持ちだったのか、察するに余りあるのです。

JT:阿部薫のキャリアは10年足らずですからね。岡本さんは、2020年に開催した仙台のジャズ展から阿部をフィーチャーされていますね。

岡本:2020年に五海ゆうじさんのご遺族から写真をお借りして展示しました。写真展の話を阿部薫のお母様(坂本喜久代さん)にお話ししたところ、とても喜ばれました。五海さんとは、「PSF モダンミュージック」代表だった生悦住英夫さんとのご縁があった繫がりです。五海さんは、横浜駅前で写真教室をされていました。満を持して開催したのが、南(達雄)さんの写真展(2021年)でした。仙台ともご縁があった阿部薫の存在を市民に伝えたかったからです。南さんが撮影された写真に、強烈なインパクトを感じていました。五海さん、生悦住さんも亡くなられました。闘病中のお見舞いは、サービス精神が旺盛な生悦住さんの体力を奪いますので控えました。何か困ったことがあれば連絡してね、と電話で伝えました。お母様(坂本喜久代氏)も「静かにしておいてあげたら良いのにね」と話されていました。今だからお話しできることですけど顔を見せて見舞金を置いて立ち去るくらいでないと友人としては失格だな、と思います。

JT:五海さんには僕が『阿部薫/スタジオ・セッション 1976.3.12』を録音した際、撮影をお願いしました。南さんの写真は非常に貴重で、僕も『東北セッションズ」をリリースする際、ジャケットとブックレット用に使わせていただきました。僕らの伊香保の展示会(高木元輝と阿部薫)では、当時小野の手伝いをした仲間が所有していた阿部の尺八サックスも展示しました。岡本さんは阿部が使っていたアルトサックスを保管されているそうですね。

岡本:東北新幹線が不通になっていた時でした。「自宅(川崎)に来てくださらない」とお母様からお電話がありました。当初は、4月始めにお伺いする予定でした。オールアート石塚孝夫さんから「暖かくなったら出ておいで」と言われていたことを思い出してアポを取りました。お昼過ぎに川崎にお伺いし、夜に石塚さんと食事する予定でしたが「1週間先にしてほしい」とお母様から連絡をいただき、急遽、切符(在来線乗り継ぎ)を取り直しました。石塚さんに1週間後にお伺いしますねと連絡しました。初めに約束していた日の翌日に石塚さんが、亡くなられたのです。運命なのだ、と思いました。石塚社長とは、1970年代から一人のジャズ・ファンとしてお見掛けしていたので、石塚さんの著書『MEMORY’S JAZZ CONCERT 60YEARS』の制作に協力してほしいと連絡を受けた時は、これでようやくジャズ・ファンとして石塚さんに恩返しができるんだなと、凄く嬉しかったですね。(私を)石塚さんに紹介してくださったのは、中平穂積さんです。前置きが長くなりました。楽器は、川崎のご自宅仏間に、お母様が大事に保管されていました。お母様が毎日(遺影と楽器に向かって)お経をあげていたのです。団地の桜がきれいに咲き誇っていた日にお会いしたのです。「岡本さん、ちっとも変わってない。嬉しいわ。ビールで乾杯しましょう!」とお元気でした。アパートが取り壊されること。施設に入居すること。楽器を「これぞと思う演奏家がいたら差し上げてください。誰かいる?」という提案でした。楽器(アルト・サックス)を活かすことにしました。お母様も同意されました。ハモニカを差し上げたいプレーヤーがいることをお伝えすると「そうなの。岡本さんが言う方だからいいわ」と言われました。予め、お母様には、纐纈雅代さんから電話があると思うので出ていただけますか?とお願いしていました。纐纈さんにも電話してほしいと伝えました。実は、大分以前のことですが、サブさんと雅代さんと3人で川崎にお伺いする予定でした。「今回は、写真撮影に集中したいので、岡本さんと2人だけでお会いしましょう」とサブさんから提案があり、纐纈さんとの約束を果たせないままだったのです。「女性ですが、フリーキーで、凄い努力家のサックス奏者がいる」とお母様には話していました。「薫が、誰にも触らせなかったハモニカなのよ。でも、いいわ」と言ってくださいました。纐纈さんとお母様が電話でお話をされました。その時に、纐纈さんが映画に協力した方だと理解されました。薫さんのお母様は、穏やかなように見えますが、頭脳が明晰で、芯の通った、スジを曲げない方なのです。嘘も下心も見抜かれます。マチ子さん(阿部薫氏の妹氏)からもお電話があり、楽器のことなどについて話しました。楽器(アルトサックス)については、大切に活用したいと思います。

坂本喜久代(阿部薫母) 岡本勝壽

JT:オールアートの石塚さんとはディー・ディー・ブリッジウォーターを紹介してもらったり、僕がアニタ・オデイを紹介してあげたり、原盤制作にあたって長い付き合いがありました。ところで、ドキュメンタリー・フィルムもあるようですが、これは市販されているのですか

岡本:「楽都仙台と日本のジャズ史」というタイトルのDVD作品です。「企画・監修」を依頼されました。藤崎が制作しましたが、仙台市の外郭団体(仙台市市民文化事業団)に「藤崎」が、助成金を申請して認められた補助金(50万円)を活用しているため、非売品なのです。
制作費はもっとかかっていると思います。国立国会図書館、仙台市の市民図書館、大学図書館、ご協力いただいた関係者元にお送りしたと聞いています。200部程度制作されたと思います。インターネットでもタイトルを入力するとご覧いただけます。DVDには、補足写真が加わっています。

JT:最近の仙台のレコード店、ジャズ喫茶の状況はどうでしょうか?

岡本:仙台市内のレコード店は、危機的状況なのかも知れません。2022年8月、銀座「山野楽器」仙台店が閉店しました。2023年1月にも老舗中古レコード店「J&B仙台泉店」が完全閉店しています。仙台市の中古レコードショップ「DISK NOTE」は、店主の河内周二さんがご高齢で「いつ辞めてもおかしくないんだからね」と私を脅かします。職業柄、持病である「腰痛」をかかえており、心配しています。
「ジャズ喫茶」カウントの朴沢さんは、後継者を望まれていないようです。新しいジャズ喫茶が、県内(「パラゴニアン(多賀城市)」「カフェ・コロポックル(白鳥に飛来地として知られる伊豆沼)」に誕生していることが救いでしょうか。名取市のジャズ喫茶「パブロ」は、先代の意思を汲み取り、若い店長が「コーヒー&セッション・パブロ」として頑張られています。個人的には「カウント」「ジャズタイム・ケリー」「キジトラ珈琲舎」「ジャズ・ビレバン」がお気に入りのジャズ喫茶です。仙台で新しいジャズ喫茶を始めるにしても賃料が高いのが現実的な問題です。

JT:今後も仙台でジャズ展を継続していかれル予定ですか?

岡本:「ジャズ史展」は、3回続けられたら一区切りにしたいと思っていました。1992年、東京の「銀座松屋」で開催された「栄光のジャズ展」、岩浪洋三先生が中心になり企画された「ジャズ 100年展(1998年 大丸ミュージアム)」も1回だけの開催です。「3回も続いたのだからたいしたものだよ」とジャズ関係者からお褒めの言葉をいただきました。2019年のメディアテークを含めて4回続けることが出来ました。皆様に感謝するしかありません。
昨年は、お母様の意思を引き継ぎ「阿部薫の楽器(アルトサックス)」を展示し、多くの市民にご覧いただきました。地元仙台で、50年以上活動されているビッグ・バンド関係者による資料の展示、マジシャンズクラブせんだいのご協力による「マジック(手品)ショー」、ジャズ喫茶のマッチ箱コレクターである松浦成宏さんにもご協力いただきました。嬉しい出来事は、菅原光博さんの写真展とトーク・ショー(司会;郷土史研究家 千葉富士男氏)を開催できたことです。定禅寺ストリートジャズフェスティバルのポスター展、「DISK NOTE」河内社長の協力で「中古レコード市」も実施しました。NHK連続テレビ小説「カムカムエブリボディ」を記念し、三浦功大さんの写真を展示しました。功大氏は、写真家でジャズ喫茶マスターとして登場するトムさんのモデルとされる登米出身の写真家です。実弟で芸術家の三浦永年氏が貴重な写真を提供してくださったのです。NHKディレクターさんから「カムカム・・」のポスターが届まけられたので、展示させていただきました。
外山喜雄さんからは、サッチモの貴重な資料を送っていただき展示しました。
佐藤修日本ジャズ音楽協会理事長(現会長)は、日本有数のコレクションを保有されていますが、佐藤さんの版画作品を特別展示しました。会期中、メキシコ国境の街でルイ・アームストロングの公演を聞かれたという杉村惇(洋画家)の姪にあたる方から、サッチモとの記念写真とその時サインしてもらったという「ハンカチーフ」をお預かりしたので、展示しました。阿部薫の相棒だったドラムス奏者豊住芳三郎氏(サブさん)が、(阿部薫)弔いのため、会場を訪れてドラムを叩かれました。仙台のブルージャイアント熊谷駿氏、“才能の塊”秩父英里さんにも協力いただけました。嬉しい出来事でした。
年々、ご協力していただく方が増えております。貴重な売り場スペースをお金にならないと思われる「JAZZ」のために無償で貸してくださる「藤崎」の懐の深さに感謝しています。魅力的な「企画」を続けることが一番だと思います。藤崎の意向もあるわけですが、環境的に可能ならば続けてみたいと思います。

JT:トリオレコード時代に神戸の「ニューオリンズ・ラスカルズ」のLPをリリースしました。1961年に結成され1963年来日のジョージ・ルイスとジャム・セッションを敢行しています。アルバムのリリースはラジオ関西の末広(光夫)ディレクターの尽力でした。横浜は「ちぐさ」の吉田衛さん、ジャズ評論家の瀬川昌久さんらが中心になってジャズを支えてこられました。横浜ジャズ・プロムナードの柴田浩一さんが『日本のジャズは横浜から始まった』を執筆されました。神戸と横浜は港町でアメリカから来航する客船を通じてジャズが持ち込まれたと言われています。横浜はさらに近くに米軍キャンプを控えている。仙台はマジシャンの松旭斎天勝がアメリカからジャズ・バンドを呼び寄せ興行を行ったのですね。

岡本:飛行機などなかった時代に「横浜」が日本の玄関だったのです。横浜、神戸から海外の文化が持ち込まれていたことも事実です。「楽都仙台」が自慢出来ることは、天勝一座が、東京、横浜の次に仙台でジャズ演奏を含めた興行を行っていたことです。もう一つは、終戦後の仙台で、日本の「ショー・ビジネス」のパイオニアでもある曲直瀬花子さん、曲直瀬久雄さんの「オリエンタル芸能」の活動拠点が仙台だったことです。あと一つ付け加えるなら仙台の「ジャス」もです(笑)

JT:岡本さんのこの「仙台ジャズ物語」はサブタイトルに「楽都仙台と日本のジャズ史」とあるように、楽都仙台の歴史は日本のジャズ史に通じるとの自負があります。これからは、神戸と横浜に限らず仙台を含めた三都が「日本のジャズの始発点」を巡って鍔迫り合いを演じるものと思われます。その活動を通して日本のジャズ史がさらに明らかになっていくことを期待したいですね。

岡本:ジャズ業界は、人材不足のような気がしています。エディターとライターの充実。ジャズ喫茶の後継者問題。プレーヤーに関しても白黒(プロとアマチュア)の境界線が不確かなようです。いわゆる客を呼べる次世代の「タレント」が見当たらない(少ない)という問題もあります。個々には頑張っているが、残念な状況です。幸いなことに仙台は、若い力が育ってきているように感じています。これから先、世界に誇れる日本独自の「ジャズ文化」をどうやって保護・継承するのかが問われると思います。「ちぐさのジャズ・ミュージアム」「群馬のワールド・ジャズ・ミュージアム21」「盛岡の穐吉敏子ジャズ・ミュージアム」「慶応大学アートセンター」「北海道東川町に建設予定のミュージアム」などが力を合わせなければならない時代が来ているように感じます。行政をどうやって巻き込むことができるかも課題です。

JT:その通りですね。行政の力を借りる必要が大いにあると思います。日本ジャズ音楽協会の協力も期待したいところですね。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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