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R.I.P. ペリー・ロビンソンNo. 249

Tribute to Perry Robinson (1938-2018) by 須藤伸義

text by Nobu Suto  須藤伸義

2018年12月3日(月曜日)、筆者と同じサンディエゴ在住のピーター・キューンreeds から連絡があり、前日に、彼の師匠でもあるペリー・ロビンソンcl が、亡くなったと教えてくれた。

ペリーは、今年の初めに心臓のバイパス手術をした後、体調を崩しがちで、最近でも11月28日(水曜日)まで入院していたらしい。一人暮らしだった彼が、自宅に帰って最初の週末に逝ってしまった、という事になる。しかし「自由気ままに」ジャズ人生を謳歌した彼らしい最後と言えなくもない。実際、その数日前に電話で話したピーターによれば、次に演奏できる機会を、ペリーは、本当に希望を持って待っていたという事だ。

筆者がペリーの事を最初に意識したのは、まだ大学院生だった90年代後半に、チャーリー・ヘイデンbの傑作『Liberation Music Orchestra』(Impulse!:1969年作品)を聴いた時だった。このアルバムは、ドン・チェリーtp、ガトー・バルビエリts、カーラ・ブレイp/comp、デューイー・レッドマンts、ポール・モチアンds、アンドルュー・シリルds 他、錚々たる面子が参加している作品だ。しかし、何故か演奏自体ではそこまで目立っているわけではないペリー・ロビンソンの名前が強く印象に残った。

その後、ペリーが参加した、ヘンリー・グライムスbの『The Call』(ESP:1966年作品)、カーラ・ブレイの『Escalator Over The Hill』(JCOA/ECM:1971年作品)やグンター・ヘンペルreeds/vibの『Challenge of the Now』(Birth:2002年作品)、ポール・ブレイpのプロデュースのもとで、バダル・ロイtablaとナナ・ヴァスコンセロスperと制作した『クンダリーニ』(IAI:1978年作品)等を聴き、いつか共演してみたいと思っていた。

その夢は、筆者のアルバム『Hommage An Klaus Kinski』(Soul Note:2007年作品)に参加して貰った事で現実になった。その後もアンドレア・チェンタッツォper/ペリー/筆者での『Soul in the Mist』 (Ictus:2007年作品)制作および同トリオでのアメリカ東海岸ツアー、筆者がバルチモアで組んでいたピアノ・トリオ(TRIO RICOCHET)でのコンサートに何回かゲストで参加して貰った。共演以外でも、一時期は1か月間隔で電話で話をするなどして、親しく付き合わせてもらっていた。

一般的にペリー・ロビンソンと言えば、スウィング時代の花形楽器だったクラリネットを、フリー・ジャズ的表現に持ち込んだ “前衛クラリネット奏者” だろう。実際、ESPレーベルが1965年に発表した『The Call』以降、“革新的” ジャズを代表するアルバム群、アーチー・シェップtsの『Mama To Tight』(Impulse!:1966年作品)、ポール・ブレイの『Synthesizer Show』(Polydor:1971年作品)に順次参加。

だが、父親(アール・ロビンソン)がハリウッドの有名作曲家だったペリーは、伝統的な音楽にも精通しており、デイヴ・ブルーベックp が息子たちと結成した2世代バンドや、有名フォーク・シンガーのピート・シーガーや、ビートニク世代を代表する詩人=アレン・ギンズバーグのアルバムにも参加している。こうした事実からも、彼が、如何に他のミュージシャンから信頼・重宝されて来たか、窺(うかが)い知る事ができる。

その一方で、ペリーは、生涯、過小評価に甘んじていたミュージシャンだろう。演奏家としての評判も “サイドマン” としてのものが主で、自身のリーダー作は、1961年のデビュー作で、ケニー・バロンp/ヘンリー・グライムス/ポール・モチアン参加の『Funk Dumpling』(Savoy)以降、前述した1978年の『Kundalini』まで発表されていない。その後は、自身のクァルテット及びトリオを率い、アルバムを数年置きに発表していたが。

とくに重要なリーダー・プロジェクトは、1984年から続いていたエド・シュラーb とアーンスト・ビアーds が参加しているプロジェクトだった。当初は、サイモン・ナバトフ他のピアニストを加えてのクァルテット編成だったが、2000年以降よりトリオを中心に活動していた。しかし、アメリカでの活動よりヨーロッパ、とくにドイツでの活動が多く、West Wind やJazzwerkstatt 等のレーベルより作品を発表していた。

ポール・モチアン/エド・シューラーも参加した、アナット・フォルトp のECMデビュー作『A Long Story』(2007年作品)で、ペリーのプレイに初めて接した本誌読者もいると思う。総じていえば、生涯、彼の音楽性に見合った評価や活躍の場を享受していたとは、言えなかったと思う。

もっともこれは、彼の “ビートニク” 的な性格も、災いしていた気がする。これは、彼が「フレンドリー過ぎて、リーダーとしての自己顕示欲に欠けて」いたのが一因だったと思う。「フレンドリー」と言うより「フリー・スピリット」と言った方が適切かもしれない。名声欲や物欲といったものにはほとんど興味が無く、「ただ音楽を純粋に演奏し世界を気ままに、スピリチュアルに旅をしていたい」というのが、ペリーの希望であり信条であったと思う。2002年に刊行された、彼の伝記のタイトル『ザ・トラベラー』のタイトル通り、音楽に捧げた人生を自由気ままに生きて、生き抜いた人だった。

筆者が、最後にペリーと共演できたのは2015年6月。ピーター・キューンと共に『ペリーをサンディエゴ及びロスアンジェルスに呼ぼう』という話になり、ペリーが住んでいたニュージャージー州より招待した。アンドレア・チェンタッツォとのデュオ(コンサート/レコーディング)、ピーターとのデュオ(レコーディング)、筆者とマザーズ・オブ・インベンション等で活躍しているクリス・ガルシアperとのトリオ(レコーディング)、本誌読者にも馴染みがあるであろうアレックス・クラインds/元プログレ・フュージョングループ「Shadowfax」のG.E.スティンソンgとのプロジェクト(コンサート/レコーディング)等を企画した。ピーター及び筆者も参加のアレックスとのコンサートは、ロスアンジェルス・タイムスによりその年の「ベスト・コンサート」に選出されたのだ。

その後、筆者の音楽以外の仕事が多忙になったせいもあり、それらのレコーディングは、どれも、いまだ作品としては発表できていない。また、ペリーとも疎遠になってしまい、この2-3年、電話で話す機会さえ逃してしまった事を大変後悔している。いつになるか分からないが、その2015年の録音や、それ以前の音源も、アルバムとして発表し、トリビュートできればと思っている。

最後に不思議な話を一つ:ペリーが逝ってしまった12月2日、筆者の妻が、部屋の中で「風が吹いた」とおかしな事を言う。窓は全部閉まっていたし、温風器はついていなかった。筆者は何も感じなかったので「気のせいだよ」と言った。彼女がそんな事を言ったのは初めてだし、彼女自身、自分に霊感というものは絶対無いと思っている。しかし、確かに「風」を感じたと言う。その時は、それで終わったのだが、翌日ピーターから電話があった後、もしかしたら「ペリーが訪ねてきたのか?」という事になった。その話をピーターにしたら、彼も、そしてグンター・ハンペルも、ペリーの気配を同じ日に、まだ彼が死んでしまったと聞く前に、感じたらしい。きっと、今もペリーは、自由気ままに世界中、旅を続けているんだろう。

Perry Robinson: http://www.myspace.com/perryrobinson

須藤伸義

須藤伸義 Nobuyoshi Suto ピアニスト/心理学博士。群馬県前橋市出身。ピアニストとして、Soul Note(イタリア)/ICTUS (イタリア)/Konnex(ドイツ)の各レーベルより、リーダー作品を発表。ペーリー・ロビンソンcl、アンドレア・チェンタッツォcomp/per、アレックス・クラインdrs、バダル・ロイtabla他と共演。学者としての専門は、脳神経学。現在スクリプス研究所(米サンディエゴ)助教授で、研究室を主宰。薬物中毒を主とするトピックで、研究活動を行なっている。

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