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R.I.P. ヤン・エリック・コングスハウクNo. 260

ヤン・エリックのこと

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

ECMとの長い付き合い(1972年〜。最初の訪問は1974年、ミュンヘン市内の民家のようなGleichmannstr.にあったオフィス。JAPOのコーナーがあった)のなかでヤン・エリック・コングハウクと会ったのはたった3回に過ぎない。ヤン・エリックは、ECMのオーナー・プロデューサーのマンフレート・アイヒャーと一歳違いで、ということはマンフレートと同い年の僕も一歳違いということになる(ちなみに、マンフレートは僕より3ヶ月遅れて生まれた)。しかし、ヤン・エリックの音(マンフレートとふたりで創りあげたいわゆる”ECMサウンド”)は、オスロのアルネ・ベンディクセン、タレント・スタジオの頃から耳に馴染んでいるので、ずいぶん長い付き合いのような気がする。その後、ECMとの共同出資でレインボウ・スタジオを作り、レインボウがECMのハウス・スタジオになってからは、NY録音以外はほとんどレインボウでヤン・エリックがフル活動していた。レインボウ以外で録音したマスターがレインボウに持ち込まれ、ミックスをレインボウで行うというケースも多かった。これは、音のリファレンスには耳に馴染んだモニターを使う必要があるからで、やむを得ない場合は耳に馴染んだ音源(CDなど)を携行し、それを再生することでリファレンスを調整していた。

僕が初めてヤン・エリックに会ったのは、1979年4月、キース・ジャレットのヨーロピアン・カルテットのライヴ・レコーディングの来日時だった。北欧の人らしくがたいが大きく朴訥な印象で、口数が少なく黙々と自分に任された仕事をこなしていた。このときはアイヒャーも来日していたが、1976年には菅野沖彦がキースのソロ『サンベア・コンサート』を録音した実績があるにもかかわらずオスロからヤン・エリックを呼び寄せた。この時の録音は、のちに『パーソナル・マウンテンズ』(1989)、『スリーパー』(2012) としてリリースされた。ヤン・エリックが日本の土を踏んだのは、僕の知る限り後にも先にもこのときが唯一だ。1987年にマンフレートが来日し、サントリー・ホールでキースのソロを録音した時には1979年にヤン・エリックをサポートした及川公生が担当、のちに『ダーク・インタヴァル』としてリリースされた。

僕が初めてオスロのレインボウ・スタジオにヤン・エリックを訪ねたのは80年代に入ってからで古いスタジオの時代。スタジオを案内してもらい、別れ際に自分のCDを手渡された。そのとき初めて彼が余技でギターを弾き、バンド(カルテットだったか)で演奏していることを知った。口数の少ない朴訥だがフランクな人間の印象だった。バンドの演奏はECMの音楽や音とはかなりかけ離れたいわゆるメインストリームに近いフュージョン寄りの演奏だったと思う。

3度目は、2003年。初めてマンフレートにスタジオに招かれたとき。フランセス=マリー・ウィッティ(cello)とポール・グリフィス(poetry reading)の録音中(『There Is Still Time』ECM1882)。ECMのレコーディングはほとんどクローズド・セッション(部外者出入り禁止)だが、これは録音に集中するためで、ノウハウの模倣を恐れたビル・ラズウェルのクローズド・セッションとはその目的が異なる。この時は新しいスタジオでスペースに余裕もあり、気持ちも和んだ。ヤン・エリックはアシスタントも使わずまったくひとりですべてをこなしていた。もっとも、ハードディスク録音になってからは、大きなテープリールの掛け替えやデッキの操作の必要もなく、アコースティック録音の場合はほとんどの操作は手元でこなせるということもあるだろうが。*この時の詳細は『Esquire Japan』誌に「オスロの虹」として寄稿、現在、ブログmusicircusに再録されている。http://musicircus.on.coocan.jp/ecm/e_com/006.htm

1982年、ネイティヴ・サンのマネージャーだった清野哲生がピアニストのイサオササキのピアノ・ソロをヤン・エリックに録ってもらいたいと言い出し、取り次ぐことになった。幸いにも快く引き受けてくれ、タレント・スタジオでの録音が無事終了、『ムイ・ビエン』というタイトルでリリースされた。おそらく、ヤン・エリックが手がけた日本人初めての録音ではなかったか。今年、スペースシャワーからオリジナル・ジャケットで久しぶりに再発され、そのみずみずしいサウンドに感激を新たにしたものだ。

ここ何年かはレインボウを離れ、スイスやフランスのスタジオでの録音が多くなり、若いエンジニアのキレの良い音に耳が開くことが多くなってきたが、これはやはりヤン・エリックの体調の問題とも関連していたのではないだろうか。サウンドが音楽に優先することはなく、新しい音楽はミュージシャンが創り出してくれるのだから。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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