#06 秋宵十話〜高雄飛、黒沢綾、エマ・アルカヤ
秋宵十話
2019年10月9日(水)19:30 大塚 All in Fun
高 雄飛 Yuhi Taka: Piano, Voice, guitar) 金沢
黒沢 綾 Aya Kurosawa (Voice, Piano, keyboard-harmoica) 群馬
エマ・アルカヤ Emma Arcaya (Flute, Alto flute) 沖縄
Aurora (黒沢 綾)
Sonora (Andrés Beeuwsaert)
Lagoa da Conceição (André Mehmari)
大渡橋 (作詞 萩原朔太郎、作曲 高 雄飛)
広瀬川 (作詞 萩原朔太郎、作曲 高 雄飛)
Wind Sound (高 雄飛)
Vocalise (Sergei Rachmaninoff)
一つのメルヘン(作詞 中原中也 作曲 高 雄飛)
Doce de Coco (Jacob do Bandolim)
室生犀星メドレー (作曲 高 雄飛)
〜月夜〜秋の終わりに〜小景異情〜
赤とんぼ (編曲 高 雄飛)
Tristeza (Haroldo Lobo / Niltinho)
金沢発の才能と将来性に溢れた若き才能〜高 雄飛〜と仲間たちの紡ぐ音物語
2019年に初めて聴いた内外ミュージシャンの中で最も度肝を抜かれた特別な存在が、1995年生まれで、金沢在住の若き才能、ピアニスト高 雄飛(たか・ゆうひ)。
4月9日、吉祥寺ストリングスで高と、群馬在住のヴォイス、ピアノの黒沢 綾で『春宵十話』公演を行い好評で、秋に沖縄在住のエマ・アルカヤを加えて、音物語りを紡いだのが『秋宵十話』だ。高を紹介する形となった黒沢 綾はヴォイスのピッチの正確さと声質、創り出すサウンドで筆者が継続して注目している逸材で、栗林すみれと伊東佑季との「ひゅむたん」を2018年のベスト国内パフォーマンスにも選んでおり、2019年には、福盛進也、栗林すみれとのトリオでも素晴らしいライブを聴かせてくれている。J.Jazz Netのパーソナリティとして、シャイ・マエストロやカミラ・メサなど最先端のミュージシャンとインタビューの機会を多く持つことにも注目だ。フルートのエマ・アルカヤは、フィリピン出身のピアニスト、ピノ・アルカヤ(1944〜2009年)を父に、ヴォーカルの中村瑠美子を母に、那覇市の「PINO’S PLACE」を拠点に県内外で活躍し、高との共演の機会も多い。
<Aurora>は、アメリカに赴任した”彼”を飛行機で太平洋を越えてたびたび訪ねていた”彼女”、その結婚式で”彼”の依頼で黒沢がサプライズで用意した珠玉の曲で、その歌詞、曲とも筆者の琴線に触れまくりで『黒沢 綾/Twill』 に収められている。黒沢が自身の弾き語りでもよく演奏するが、高のピアノにかかるとさらに成層圏と降下中に見えるアメリカの街並みへのイメージが脹らんでいく。
いくつかのカヴァー曲も取り上げるが、アンドレ・メマーリをはじめ、いずれも南米出身の知る人ぞ知るスーパーミュージシャンの名曲揃いだ。筆者が南米を旅しながらこの記事を書いていて、単にリオやブエノスアイレスという一部の都会のイメージだけではない、その大地の気の遠くなる広さと自然と人から生まれる絶妙な響きについて考えていたところだが、この三人はそのニュアンスを自然に奏でることができることに驚かされる。特にエマのフルート、アルトフルートは、ショーロやフォルクローレにつながる感性を確かに持っているように思われる。かつてのスペインから西はアンデスへ、東はフィリピンへ、という道がつながるのだろうか?あるいは沖縄の持つ音楽の力?(本人には笑われそうだが)。また”ジャズ・フルーティスト”的な枠に縛られず、またサックスプレーヤーによる持ち換えにときにありがちな残念な感覚もなく、楽しみな存在だ。
高はまだ24歳ながら、近代詩の世界をサウンド化することに情熱を賭けている。公演前にこのコンセプトを黒沢からきいて正直全く期待していなかった。巨匠の詩のパワーに負けてしまうか、自身の表現形態やイディオムに詩を押し込もうとして生命を失ってしまうか、そんな例は数多い。金沢生まれの詩人・室生犀星に特に力を注ぐ一方、今回は黒沢が群馬在住であることから、「秋宵十話」では前橋生まれの詩人・萩原朔太郎の世界にも挑む。高は柔らかで伸びやかな感性で、巨匠の詩を包み込み、情景を脹らませる。自らの色を押し付けることなく。その先に高にしか描けない特別な世界がある。水や空気のように透明でありながら自由に形を変えながら包み込み入り込み、そして最も大切な存在である感覚だろうか?
アンコールでは、<赤とんぼ>をアレンジしたバージョンを演奏した後、ダブルアンコールとなり、ギターの弾き語りで<Tristeza>を歌い、黒沢の鍵盤ハーモニカと、エマのフルートが寄り添った。
高のピアノは力強さと繊細さを併せ持ち、正確で均質に演奏ができるし、ヴォーカルは柔らかいが遠くへ魂を届けることができる強さと深さを持つ。クラシックのベーシックもおさえているようであり、幅広い引き出しを持ちながら、ジャズや各ジャンルのイディオムに拘束されることなくオリジナルの音楽を作り出すのが凄いところだ。
アメリカやヨーロッパでは各地に住むミュージシャンがバンドやツアーごとに集まることが多いが、日本では東京とその周辺在住が圧倒的に多い。この3人が東京以外の自然や街、人に囲まれながらの感性を持ち寄ったことは大きいと思う。また距離感から言えば、韓国、台湾、中国との当たり前な人的交流がないことも、日本の音楽が小じんまり孤立していく危機につながる(大友良英や福盛進也の取り組みが評価されるところだ)。”器用”とも言える高に東京に移り、たくさん仕事をオファーすることは可能だと思うがそれも少し違う気がする。金沢にいながら映像作品に音楽を提供するような仕事もしながら、余裕を持った演奏活動とか。。。とはいえ、知名度がないのはもったいなく。もしもこの文章がミュージシャンの目に触れることがあれば、ぜひ共演してみて欲しいし、映像・広告関係者にも聴いて欲しいと思う。このトリオも2020年春夏に向けて再演を期待したいし、末長い活動を楽しみにしたい。