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R.I.P. デヴィッド・ダーリングNo. 275

「デヴィッド・ダーリングとPWC の1+4+1」 淡中隆史

text by Takashi Tannaka 淡中隆史

はじめに

2021年1月8日デヴィッド・ダーリングはコネティカット州のちいさな町ゴーシェン(Goshen)で亡くなった。

ダーリングの音楽、生き方はシンプルに一直線でポール・ウィンター・コンソートゆかりの人々の中、ひときわ美しい。

そのダーリングを語るときはどうしても1967年に出発したとされるポール・ウィンター・コンソート(PWC)から始めることになる。ダーリングもポール・ウィンターもまだ26〜28才、アルバム 『Paul Winter Consort』(A&M 1968)が出発点だ。PWCの分裂、その後1970年から現在までのウィンターとPWC、オレゴンとダーリングについて話を進めたい。

ポール・ウィンター・コンソート

ここでいう「PWC」とは、もう少し正確にいえば「第一期PWC」(PWC 1)のことだ。ダーリングがゲスト参加したといわれるウィンターの『Callings』(Living Music 1980)(*1)の後、1980年代には「第二期PWC」(PWC 2)が存続していて、息の長い活動は現在に至る。2015年にはニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディバイン大聖堂(聖ヨハネ大聖堂)で行われたウィンターの「夏至コンサート」にはポール・マキャンドレスが参加していた。

PWC 1のメンバーは当時のクレジットによるとポール・ウィンター(sax)、ラルフ・タウナー(classical guitar,12string)、コリン・ウォルコット(tabla,conga,etc)、グレン・ムーア(bass)、ポール・マキャンドレス(oboe,English horn)にデヴィッド・ダーリング(cello)を加えた6人、ということになる。タウナー作の美しい<Icarus>で「主旋律を弾いているチェリスト」というのが1975年頃の私のダーリングに対する最初の記憶で「PWCに参加していたクラシック系ミュージシャン」であり、それ以上のものではなかった。

デヴィッド・ダーリングとPWC、オレゴン

「ダーリングはいかにして個性的音楽家となりしか」

と、彼の20代前半までのプロフィールを繰ってみる。インディアナ州立大学を卒業後、PWCへの参加までは(多楽器の演奏体験を除き)アメリカのローカル・オーケストラのチェリストだったこと、ナッシュビルでのレコーディング経験などがわかる。しかし、それ以外に後の個性的な音楽家の誕生につながる原点を見つけることはできない。

ダーリングにとってPWC時代にウィンター、そうして4人のエキセントリックな音楽の開拓者たち(後の「オレゴン」)から受けた影響は決定的だった。彼らの音楽的出自は半端でない。リーダーのウィンターがジャズやボサノバ時代のブラジル音楽をベースに出発したのに比べても、タウナーはウィーンでカール・シャイトからギターでバロック音楽と古楽を、ウォルコットはラヴィ・シャンカールとアラ・ラカからインド音楽を直伝で伝えられていて底の深さが違う。(*2)マキャンドレスはクラシック出身で現代音楽志向が強く、ムーアはポール・ブレイのシンセサイザー・ショーやアネット・ピーコックなどとの共演で知られ、アヴァンギャルドに通じていた。そして、彼らは合計20種類以上の楽器に精通したマルチプレイヤーたちでもあった。1967年の時点で揃いもそろってここまでユニークで、尖った原点を背負ったグループは他にありえない。バンドの中ではクラシック〜民族音楽(*3)のオリジンにまで至る特殊な世界観が、坩堝のように溶け溢れていたのに違いない。

結果として「過激派」4人の相互作用による連帯マジックが沸点を超えて、クーデタを促したようだ(首謀者はウォルコットか)。穏健なダーリングの視座から見れば、かつての盟友たち脱藩浪士四人組が自分だけをさしおいて、元祖楽観主義の藩主を見捨て先鋭的な結社を作って出ていってしまった、ということになる。(*4)

第一期PWC 6人の「1+4+1」という分裂と再構成の構図が見えてくる。

どうする、デヴィッド

ダーリングのオレゴンへの不参加(?)から半世紀にわたる一人旅が始まる。しかし、その後1979年からはECM、マンフレート・アイヒャーとの出会いが待っている。1979〜98年まで20年ほどのECM期の軌跡は決定的で、後の2021年までのニューエイジ・ミュージック期に成されたことはこのときの蓄積を元とした純粋培養、あるいはさらなる実験やポップ化でしかない、と思う。

オレゴン

1970年オレゴンの実質的ファースト・アルバム “Our First Record”の音源が完成した(*5)。1972年に『Music of Another Present Era』(Vanguard 日本タイトル『北の星』)、1973年11月(録音は72年)にはラルフ・タウナー/グレン・ムーア名義(と、いいつつ4人とも参加)の『Trios/Solos』(ECM 1025 日本でのタイトル『ブルージョ』)と3作が相前後して制作、リリースされた。(*6)このように誕生に至る経緯があまりにも錯綜しているので、「オレゴン」の端緒はどこにあるのかわかりにくい。

1973年以降はヴァンガードで8枚のアルバムを発表、以降はエレクトラに移籍、後にECMを始めとするヨーロッパのレーベル時代でのリリースを重ねていく。そうして「オレゴン」は1984年まで時代から超越したユニークネスを持ち続けた。

ECM期の1984年11月8日、ベルリン〜エッセン間のアウトバーンでウォルコットの不幸な事故死を経た後、現在までも活動が続いている。しかし、その30数年は核心を喪失したことの確認になった。

ウォルコット亡き後、しばらくはインド出身のトリロク・グルトゥ(*7)が参加していた。なるほど、グルトゥは多元的な意味での打楽器の名手だ。しかし「架空の辺境=シャングリラ」を夢見させてくれるのがオレゴンというものならば、わざわざ「本物の辺境」から名人を呼んできて後釜に据えるというのは主旨に反する(?)ことになりはしないか。爾来、私は実在する「オレゴン」より、タウナーやダーリングの活動の中に“ウォルコット後の「オレゴン」”を探すようになった。その後、「オレゴン」は1999年、モスクワで大編成オーケストラを擁して制作した2枚組の大作『Oregon in Moscow』(Intuition 2000)など14枚のアルバムをリリース、2020年現在、タウナー、マキャンドレスは継続、ムーアに代わったパオリーノ・ダッラ・ポルタ(b)とドラマーのマーク・ウォーカー(ds)(*8)をメンバーとして活動が続く。

その後のポール・ウィンター

PWC分裂後、ポール・ウィンターは自身のレーベル「リビングミュージック」(Living Music)で様々な道を追求した。彼の音楽はなぜか社会性を強めていって、鯨と共演する、国連御用達のエコロジカルでオーガニックな象徴となった。それと共に「カレッジ・ジャズ(スーパー古語)から国連へのグラミー賞音楽家」という奇妙な名誉履歴までがついてまわることになる。同じ頃にも活動したセシル・テイラー、オーネット・コールマン、ギル・エヴァンスたち、すなわち大学にも国連にも大聖堂にも行かず、ザトウクジラと戯れたわけでもない音楽家たちが真のレジェントであり続けているのに、である。そして、後には門下の「オレゴン」が “ニューエイジ・ミュージックの先駆者” と呼ばれるというあらぬ嫌疑を受ける原因をつくった。そもそも、一見してアンチコマーシャルにみえるコマーシャリズムほどアヤしいものはない。これはグリーンピース(Greenpeace)、パタゴニア(*9)、果てはグレタ・トゥーンベリにまで続く問題のはじまりのひとつかもしれない。

それでも現在の耳で聞くウィンターの『Callings』や『Sun Singer』(Living Music 1983)が圧倒的に美しい、のは何故だろうか。

余談

(超余談ですが)、20年ほど前にNYのスタジオでセッションが終わった時の会話

「今日はこれから近所のバードランドで『オレゴン』を聴きにいくので先に帰るね」と話していたら、まだブースにいたジャズのミュージシャン(硬派です)にツツヌケだったらしく、「あ、オレゴン、知ってる知ってる。あんたぁ、ああいうの好きなんだ、マニアックなのきくもんだね」との声がスピーカーから返ってきた。(おめぇに話してないよ)、そこまで耐えます、が、さらに「アップタウンのキャシードラルでやってるポール・ウィンターの仲間か、わはははは」と追撃されては大憤慨。そこには「ふうん、国連様御用達のニューエイジ・ミュージックか、グリーンピースと一緒の」みたいな、あからさまなニュアンスが含まれていた。さすがNYの連中の口の利き方は辛辣でエゲツない。反骨精神は面白い、けれど。LAら辺なら「あ、いいですね。ああいうオルガニックな音楽はワタクシも好きですワ」くらい無難に落とするところだ。血相かえて「ニ、ニホンじゃあ滅多に聴けないんだよ」and「オレゴンとポール・ウィンターを一緒にすな」と逆襲したけれども。まったく、もう、アメリカ人というのは...。そんなことだから、オレゴンもダーリングもヨーロッパのレーベルで仕事をすることになったのだ。

ダーリングとECM

photo by Byron Smith/ECM

ダーリングのECM期(1979〜1998)にはリーダーアルバムが4作、デュオ作、参加作を含めると9作品がある。タウナーの『Old Friends,New Friends』(ECM 1153 1979)を初めとして、早くも同年にマンフレート・アイヒャーのプロデュースでダーリング自身のパーカッション、ヴォイスまでを駆使した完全なソロ・レコーディング作『Journal October』(ECM 1161 1979)が生まれた。ダーリングの引き出しを全開にさせた、未だ実験的な色合いを持つプロダクションだ。次いでユニット『Gallery』(ECM 1206 1981)への参加を経て、第二作 『Cycles』(ECM 1219 1982)ではウォルコットと再会する。“1980年代ECM” を代表するアルバムのひとつ。46分間、アイヒャーがイメージする “もうひとつの「オレゴン」” が現れる。いったい他の誰がスティーヴ・キューン(*10)、ヤン・ガルバレク、アリルド・アンデルセン、オスカル・カストロ・ネヴェスまでをダーリングと出会わせて、本人も想像できない世界に誘うことができるだろうか。キャスティングとプロデュースのマジックは同時期の「Codona」(コリン・ウォルコット、ドン・チェリー、ナナ・ヴァスコンセロス)、「Magico」(ヤン・ガルバレク、エグベルト・ジスモンティ、チャーリー・ヘイデン)に匹敵する“マジコ”だ。

チェロと8弦エレクトリック・チェロでテリエ・リピダルと相対した 『Eos』(ECM 1263 1983)の後、9年間のインターバルを経て『Cello』 (ECM 1464 1992)に至る。ジャン・リュック・ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』、ヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまで』といった映画のサウンドトラックが契機となってできた音楽。アコースティック、エレクトリックのチェロのみで作られた映像的な作品で、実際にアイヒャーが共作者として2曲にクレジットされている。ダーリングにとってはアイヒャー、ゴダール、ヴェンダースという純ヨーロッパ的な土壌に存した音楽体験となった。このような発想はアメリカではありえない。

「自己との対話」である多重録音によるダーリング/アイヒャーの制作は『Dark Wood』(ECM 1519 1995)で頂点に達する。アコースティックのチェロのみが使われたソロアルバムで、前作に比べて「組曲」として構想され、作曲性が高い。ここで、すでに「ひとり録音→宅録」の手法は完成、後年のニューエイジ・ミュージック時代への道が開かれる。

自身が作家、詩人でもあるケティル・ビヨルンスタとのいくつかの作品の中で『The River』(ECM 1593 1996)と『Epigraphs』(ECM 1684 1998)は玄妙な趣を持っている。16〜17世紀イングランドの作曲家ウィリアム・バードとオルランド・ギボンズの作品は異化され、立ち現れてきては奇妙な感覚を呼び起こす。ビヨルンスタの心の中にはグレン・グールド『バード&ギボンズ作品集 / A Consort Of Musicke Bye William Byrde & Orlando Gibbons』(CBS Rec 1967~71)の記憶と反映があったのではないか。

再びアメリカ時代

『Dark Wood』に2年先立つ1993年には『Gratitude』(Curve Blue)と 『The Tao of Cello』(Relaxation)が相次いでリリースされた。ダーリングのECM以後を引き継ぐかたちでアメリカのレーベルでのニューエイジ・ミュージックの系譜が始まる。ヨーロッパ時代はやがて終わり再びアメリカに向けた音楽が作られるターニングポイントの年だ。以降アメリカで2019年までリーダー・アルバムだけで15枚がリリースされる。しかし、これらは明らかにECM期の『Cello』、『Dark Wood』などを原型としている。鳥のさえずり、木々のざわめき、水の流れなどの自然音をむしろ主格に据えてダーリングのチェロ、エレクトリック・チェロ、弦楽合奏やピアノが寄り添い共生する構図は師匠ウィンターゆずりの「自然性善説」の別バージョンだ。2010年ダーリングは『Prayer for Compassion』(Curve Blue 2009)でとうとうグラミーの「ベスト・ニューエイジ・アルバム賞」を受賞する。

やったね、デヴィッド

こうして第一期PWC5人の「1+3+1」は40年も続いた。

一連のナチュラル〜リラクゼーション系のラインナップの中で『Mudanin Kata/David Darling & The Wulu Bunun』 (Riverboat 2004)だけが不思議に突出している。ダーリングと台湾の少数先住民族ブヌン(Bunun)族の伝統的な8声ハーモニー合唱とのコラボレーション作。方法論としてはウィンターがPWC 2で南ロシアの伝統唱法の合唱団「ディミトリー・プロコフスキ・シンガーズ」と実践した『Earthbeat』(Living Music 1987)と同じなのだが、受ける印象が全く違う。ウィンターがクジラや合唱団と、スティーヴ・ティベッツがネパールでチベット仏教の尼僧チョイン・ドロルマと「共演」した驚異の作品『チョ/ CHO』(Hunnibal 1997)(*11)などとも似ているようでいて、コラボレートのあり方そのものが異なっているからだ。

コラボレーションを可能にするためにウィンターはクジラを人格化できたし、ティベッツはフィールドレコーディング状態のサンプリング素材を自分の世界へ同化しつつ自らもチベット化する、という奥義を持っていた(ティベッツなら並の人間より宇宙人とのほうが共演しやすいだろう)。こんな芸当ができるのは特異なイマジネーションのみならず、一筋縄ではいかないテクニックを持っているからだ。対してダーリングは聖スランシスコのように自然と交流できた。しかし、自然はあくまでも自然にすぎない。相手がナマの人間とあっては「並置」にとどまり、環境音のように背景に「配置」することはできない。

アメリカという国でデヴィッド・ダーリングとは亡きのち、これからも「コネティカットの片田舎でひとりコツコツ音楽の畑を耕していた変わり者のおじいさん→ほんとはグラミーを受賞したオールドエイジ・ミュージックのすごいひとだったらしいよ」と、いったふうに語り継がれるはずだ。

そうなったところで少しもかまいはしない。どころが、そんな評価こそ、彼にふさわしいと思う。

私たちはこれからも『Dark Wood』や『Cycles』をきいて彼を憶うことができるから。

だからダーリンの墓は小日向の養源寺に、(もとい)

これからもデヴィッド・ダーリングの音楽はポール・ウィンター・コンソートゆかりの人々の中でひときわ美しく響くことだろう。

*注

*1 トリオレコードより発売時の『Gallery』(ECM 1206 / PAP-25528)、黒田恭一氏のライナーによる。『Callings』輸入盤のアルバムのクレジットにダーリングの名はなく、PWC 2のチェリストであるユージン・フリーゼン(Eugene Friesen)のみ表記。

*2 タウナーはウェザー・リポート『I Sing the Body Electric』(CBS 1972)、ウォルコットは同年マイルスの『On the Corner』(CBS 1972)に参加。

*3 1970年代のアルバムのライナーなどでの「オレゴン」について “フォーク(ミュージック)の要素を持つ” といった表記が多い。ある意味でそれは正しい。“民族音楽” はあっても、まだワールド・ミューッジックもニューエイジ・ミュージックも概念ごとなかった。

*4 このあたりのダーリングの心境描写(?)はオレゴニストである筆者の勝手な憶測。

「オレゴン」の最初のバンド名は「Music of Another Present Era」=「もうひとつの現代世界にある(べき)音楽」。意気軒昂なネーミングだ。

*5 レコーディングではウォルコットがリーダーシップをとって制作したが発売予定のレコード会社「Increase Records」の倒産でリリースできず、音源は1980年Vanguardより発売。その時点で10年前を振り返り「オレゴン」の名で『我々の最初の記録』と題されたのだろうか。日本国内のリマスタリングCD発売は2004年(MTCJ-2550 PJL)。

*6 “「オレゴン」のスタートはECM作がきっかけ” は間違いで、“ヴァンガードとの契約抵触を避けるためというより...”との『ECM catalog』ECM 1025での《稲岡説》 が真説。

*7「オレゴン」の後にジョン・マクラフリンとも共演。1987年以降はドイツのレーベルCMPで彼の作品を聴くことができる。

*8 素晴らしい「ドラマー」。2008年9月29日のオレゴンの初来日時(ビルボードライブ東京)のステージで「なんでオレゴンが日本に来るのに30年もかかったのだ」と叫んでいた(そう言われても困ります)。翌2009年NYクリントンスタジオで筆者と再会。彼自身が長年の「オレゴンファン」なのだと力説(そのわりに、バンドの「フュージョン化」に貢献していませんか?)。『Oregon in Moscow』、『Live at Yoshi’s』(Intuition 2002)では参加して間もないころのフレッシュな演奏が聴ける。

*9 “アルゼンチン南部の地名” ではない。ナチュラル系の服飾ブランド名。日本にもストア多数。

*10 キューンのドローン奏法など、他のアルバムで聞くことはできない演奏が多い。

*11 続編として『Selwa』(Six Degrees Records 2004)がある。こちらは「奥の手」出し過ぎで過剰か。

淡中 隆史

淡中隆史Tannaka Takashi 慶応義塾大学 法学部政治学科卒業。1975年キングレコード株式会社〜(株)ポリスターを経てスペースシャワーミュージック〜2017まで主に邦楽、洋楽の制作を担当、1000枚あまりのリリースにかかわる。2000年以降はジャズ〜ワールドミュージックを中心に菊地雅章、アストル・ピアソラ、ヨーロッパのピアノジャズ・シリーズ、川嶋哲郎、蓮沼フィル、スガダイロー×夢枕獏などを制作。

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