追悼:チック・コリア by pianist 須藤伸義
text by Nobu Suto 須藤伸義
チックの訃報を知ったのは、CNNの速報記事だった。その他のアメリカの主要メディアも揃って報道していて、彼の影響力の大きさを実感した。チックは、コロナ・ロックダウン以降、YouTubeでホームコンサート等を実況中継していたし、健康に気を使っていて元気な印象があったので喪失感と共に「死んじゃったんだ」と言う意外性を覚えた。
筆者のJazzとの出会いはチックだった。群馬の高校生だった頃、音楽の先生宅にお邪魔したときに、フェンダー・ローズの上に名曲〈クリスタル・サイレンス〉の譜面が置いてあった。そして先生が、チックとゲイリー・バートンとの同名アルバム(1973年作品)を聞かせてくれたのが最初に聞いたジャズだしECMだったと思う。透明感のある美しい音楽だと感じたが、当時プログレッシブ・ロック、特に構成のしっかりしたシンフォニック・ロックにのめり込んでいた筆者は、ジャズをいま一歩理解できず、チック及びジャズを意識的に聴くようになったのは、渡米した後の大学時代だった。
高校・大学を通じてプログレバンドでキーボードを弾いていた筆者は、自分のテクニックにそこそこ満足していた。そんな折り、サンフランシスコ近郊でレコード屋をしていた友人に第一期リターン・トゥ・フォーエヴァー(RTF)のセカンド『ライト・アズ・ア・フェザー』(Polydor:1973年作品)を聴かせてもらい〈スペイン〉に衝撃を受けた。哀愁を帯びたメロディが、力強くも爽快なリズムで空を舞っている。何という自然で自由な躍動感だろう。そこには、今だ聴いた事の無い音空間が拡がっていた。
直ぐに、有名なカモメジャケのファースト(ECM:1971年作品)を購入し〈クリスタル・サイレンス〉に再会した。その勢いでRTFを中心にチック関連のアルバムを次々に揃えていったが、ギタリストを加えた第2期以降のRTF作品は、プログレとの共通点が多いにも拘わらず、そこまでのめり込めなかった。しかしゲイリー・バートンとのデュオや『ピアノ・インプロビゼーションズ』等の作品は多いに感心し、キース・ジャレットの作品と共に、筆者がECMにのめりこむ切っ掛けになった。
そして、最初に本場ニューヨークで体験したジャズもチックだった。1997年の暮れ、大学院進学のため移り住んでいたシカゴに、高校時代から自身のプログレバンドのドラムを演っていた友人が訪ねて来たので、ナイアガラ/モントリオール/ニューヨークを巡る旅に出かけた。その折りにBlue Note NY出演中のチックの新バンド=オリジンのライブを観ることができた。その時の演奏は翌1998年『Live at Blue Note』としてチック自身のStretchレコードから発表された。まだジャズは勉強途中だったのでそこまで強い印象は残っていないのだが、このアルバムを聴くと当時の事が懐かしく思い出される。
年が明けて1998年の3月、今度はデュオ作『Native Sense』(Stretch:1997年作)プロモーションのため、チックがゲイリー・バートンと共にシカゴにやって来た。当時の記事を読むと、House of Bluesで公演したとあるが、記憶ではクラッシックのホールだったような...(トシのせいか?)。このコンビの作品には、全部耳を通していたこともあり、曲を知らなかったオリジンのライブより素直に楽しめた憶えがある。
ただ、2000年以降のチックは、いま一歩饒舌過ぎ軽い印象が強く、いつの間にか彼の新作を買わなくなってしまった。2008年に第2期RTFが再結成した時、当時住んでいたバルチモアでも公演したのだが、Jazz Tokyo用のインタビューを申しこもうか悩んだ末、結局実行しなかった。チックは、2015年に今も住んでいるサンディエゴにハービー・ハンコックとのデュオで来訪しているのだが、その時もチケットを買わなかった。
しかし、チックの音楽は、筆者のJazzの基本で、いつも心の中で鳴っていたのも事実。今回の訃報を耳にして、往年の作品をECMを中心にしばらくぶりに聴き直しているが、懐かしさと共に新たな発見/感動を与えてくれているのは、彼の才能の普遍性を証明しているだろう。聴かず嫌いだった最近の作品も購入してみようと思う。
彼のホームページに紹介されたチック最後のメッセージを読むと、彼の音楽に対する情熱・人柄の良さ・人間性の高さが偲ばれる。筆者も彼のように旅立ちたいものだと思った。2021年2月27日