残された音を聴きながら
text & iPhoto by Kazue Yokoi 横井一江
即興演奏をするサックス奏者で独学の人は少なくない。とはいえ、何らかのバックグラウンドは大抵あるものだ。それはブラスバンド体験だったり、ジャズ研だったりする。だが、橋本孝之の場合は、そういう寄る辺を持たず、自らの感性や美意識の赴くまま、音具としての楽器に向き合っていたように私には見える。その奏法を見ると音楽教育とかメソッドとは無縁だったのだろうと想像がつく。それは強さでもあり、脆さでもある。自ら切り拓いてきたサウンドが持つ強度、橋本が発する音にはそれがあった。阿部薫を知る人が、橋本にその姿を重ね合わせるのは想像がつく。確かに音の佇まいに似通ったものを感じたことがあるからだ。それ以上に、阿部薫を引き合いに出すならば、その音との向き合い方、サウンドを探求する姿勢に類似性があるのではないかと思う。だが、決定的に違うのは、阿部にはエリック・ドルフィーという「父親殺し」の対象が見えることだ。橋本の場合にはそれは見えない。徹頭徹尾演奏家として生きた阿部とは生きた時代も違うし、橋本にはビジネスマンとしての側面もあった。そこにはアンビバレンツはなかったのか。橋本のギターとアルトサックスそれぞれの楽器との会話=チャットが収録された最近作『CHAT ME』(NOMAT)、楽音を排したノイズから立ち上がるサウンドに、コロナ禍が続く中で擦り切れそうになっている今この時代の感受性が共振しているように思えた。ご冥福をお祈りします。
下記は、橋本と親交のあった剛田武によるDJイベント「盤魔殿」(2020年1月29日)でのショット。
橋本孝之、阿部薫