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R.I.P. 坂本龍一No. 301

『ディスアポイントメントーハテルマ』の季節
竹田賢一のライナーノートに呼応する形で by 土取利行

text by Toshiyuki Tsuchitori  土取利行

北へ

極北の音楽家、1978年12月12日、32歳で急逝した音楽評論家、間章は、いつしかギタリスト、デレク・ベイリーをこのように形容し、デレクに代表されるフリー・インプロヴィゼーションを、来たるべき音楽として「北」に位置させるようになっていた。いみじくも竹田賢一の草稿にあるように[*] 、当時の私は「南」をルーツとする音楽に強く引かれていたのだが、70年代初頭から78年までの短くも濃密な間章との共同作業を通して、その音楽軸を北へ北へとシフトさせ、「南」「北」の音の狭間を行き交うようになっていった。

『オリジネーション』

70年代初頭、トランペット奏者近藤等則と上京し、フリー・ジャズを演奏していた頃、西荻のアケタの店に出演中の私たちを間章とサックス奏者の高木元輝が訪ねてきた。日本の音楽状況を変えるための方法を模索していた間は、新たな演奏集団を作る計画を立てていて、私たちにそのメンバーの一員になるように呼びかけた。彼の熱意ある誘いを拒む理由は何もなかった。この日以来、間章は時間のゆるす限り私たちのコンサートに顔を見せるようになった。75年8月に録音した『ディスアポイントメントーハテルマ』にさきがけ、同年4月に私は渋谷メアリージェーンにおける高木元輝とのライブレコーディングをファーストアルバム『オリジネーション』としてリリースした。間はこのライブ録音にも足を運び、ライナーノーツを書いてくれた。『オリジネーション』は小島幸雄が創設したばかりのALMレコードに委託したいわば私の自費製作アルバムである。小島とは70年代初頭、近藤等則 (tp) とピットイン・ニュージャズホールで演奏していたとき参加してきた当時国立音大生の梅津和時 (as) との縁で知り合った。彼らが同大学生だったことから付き合いが始まり、卒業後小島は音楽家ではなく、現代音楽のレーベルを中心とするレコード会社を設立した。近藤譲の『線の音楽』をリリースし、会社をスタートして間もない彼に、このファーストアルバムの録音、レコード製作を引き受けてもらった。こうした流れの中、竹田賢一のライナーノーツに記載されている坂本龍一との邂逅があり、小島の録音によるALMレコード盤『ディスアポイントメントーハテルマ』が誕生したのである。

EEU

同75年には竹田が詳述しているように、坂本龍一にピーター・ブルック劇団所属の俳優、ヨシ・笈田から欧米で上演するパーフォーマンス音楽の依頼があった。しかし坂本はこれには参加せず、結果的に私が彼のバトンをうけることになった。当時は間の呼びかけで、近藤等則や高木元輝 (ts) たちと母胎作りをしてきた即興音楽集団 EEU (Evolution Ensemble Unity) 結成記念コンサートの計画もあり、このグループから離れて行くことがかなり気掛かりだった。が、間は素晴らしい即興演奏家のいるニューヨークやパリで腕を磨けるこの好機を逃すてはないと旅立ちを勧めてくれただけでなく、私が日本を離れる前にEEUのファースト・コンサートを開催しようと計画を早めてもくれた (ポスターには間の配慮で土取利行渡米記念という文字が記されていた)。コンサートのメンバーは私の他、近藤等則、高木元輝、豊住芳三郎 (ds)、徳弘崇 (b)、青山タワーホールでの開催だった。こうして出国日も決まり、慌ただしい日々を送る中、『ディスアポイントメントーハテルマ』​​のレコーディングが行われたのだが、二人のジョイント・プレイの録音は結局時間的リミットが生じ、後はプロデューサーに任せ、坂本のソロ録音が追加された形になった。

渡米、渡仏

76年からニューヨークに落ち着くようになった私は、思いがけない出会いで超人的ドラマー、ミルフォード・グレイブスとの付き合いが始まった。60年代彼がピアニストのドン・プーレンと残したレコード『NONMO』を聴いて以来、いわゆるジャズを超越した彼のドラミングに傾倒していった私にとっては、当時日本のマスコミにはほとんど登場せず、幻のドラマーといわれていた彼に会えただけでもニューヨークに来た甲斐があったと思ったが、その後毎週ジャマイカクインーズのミルフォード宅にアフリカ武術を習いにいくたびに、音楽だけでなく武道、東洋医学、食物、哲学など、共通する話題で交流を深め、彼が全人的な音楽家であることを知るにつれ、間章に知らせるべきだと思うようになった。私の知らせを受けて、同年初めて間はニューヨークを訪れた。彼がミルフォードと出会ったときの感動は、当時のジャズマガジンに記載されており、翌77年、間は日本の音楽状況を変えるためのムーブメントの一環として、私を含むEEU+阿部薫の参加したミルフォード・グレイブスの初来日コンサートを実現させた(このメンバーでの国内録音が『メディテーション・アマング・アス』としてリリースされている)。なおこれに関連する話題として、ミルフォード来日に先駆け、間章に続いて竹田賢一もまた初めてニューヨークを訪れて彼と出会い、ジャズマガジンに二人のミルフォード論が掲載されたことも付記しておこう。紙面の都合上多くを語れないが、さらに76年は私が初めてピーター・ブルック劇団に参加した年で、以後この演劇界の巨匠とのコラボレーションは現在にいたるまで続いている。これまでのジャズや即興音楽の世界とは全く異なる演劇世界で音楽の仕事を継続できたのは、この劇団が様々な国の文化背景を異にする役者たちからなる、世界でも稀なインターナショナル・シアターであることと、ブルックならではの演劇が成立するまでの長い調査研究、リハーサル、そして異国の舞台、観客というすべては異質の文化要素からなる総合的なワークに興味を持ち続けてきたからである。

EEUとYMO

77年、間章は近藤、高木、そして新たに参加した吉田盛雄からなるEEUを引き連れ、パリを訪れた。劇場名は忘れたが、そこで彼はスティーブ・レイシー、デレク・ベイリーとEEU、そしてこの時パリに滞在していた吉沢元治と私が参加してのコンサートをプロデュース。その翌年にはデレクを初めて日本に招聘し、このパリで共演した日本の音楽家たちとのコンサートを実現させた(この公演メンバーでの録音が『インプロヴィゼーション』として録音される)。75年の『ディスアポイントメントーハテルマ』録音以来、竹田賢一との付き合いは断続的であれ続いていたが、坂本龍一とは音信不通のままだった。そして風のうわさで、彼がいつしかポピュラー音楽の世界や、YMOというグループで活動しているということは聴いていたが、海外でその音楽に触れる機会はまったくなかった。しかし、1979年、偶然にも、かつて私たちが間章のプロデュースでレイシーやデレクとのコンサートを開催したパリの同劇場で、渡辺香津美や矢野顕子の加わったYMOが来演するということを聴き知り、コンサートに足を運んだ。ここで演奏終了後の坂本龍一と再会したが、互いに交わす言葉は少なかった。

スティーヴ・レイシー・クインテット(スティーヴ・ポッツ、イレーヌ・アエビ、ケント・カーター、オリバー・ジョンソン。
EEU (高木元輝、近藤等則、吉田盛男)
デレク・ベイリー、吉澤元治、土取利行。
1977年パリにて。(間章プロデュース)

再び北、そして冬

そして2003年12月12日、新潟、間章の母上が経営していたマンハイムが閉店になるということで、映画監督の青山真治がここで間章をテーマにしたドキュメント・フィルムを上映し、間と行動を共にしてきた音楽家たちのコンサートを企てた。マンハイムは60年代から70年代を通して間章が様々な音楽家と活動を繰り広げてきた重要拠点だった。かつてこの場でプレイした阿部薫や吉沢元治は、すでに他界していず、出演依頼は高木元輝、近藤等則、豊住芳三郎と私の四人であった。しかし、新幹線で東京から新潟へ向かう途、高木元輝が昨日急逝したとの訃報が入った。新潟駅に着いた私たちを見舞ったのは不穏な雪、それは間章の墓を参詣し、演奏を始める直前まで激しく降り続け、あたかも間、高木両氏の声なき声のように聞こえた。既に異なる道を歩む私たち三人が邂逅し演奏するのは実に数十年ぶりのこと、齢80歳になる母上を前に、EEU結成当時のような過激な演奏を繰り広げたが、このような三人での演奏もこれが最後かもしれない。なお演奏の合間に上映されたドキュメント・フィルムではインタビュー形式で様々な人物が間章について語っていた。その中に竹田賢一やかつての学習団のメンバーの姿もあった。

季節の転換

あまりにも多くのことが展開した70年代、間章の死を契機に彼のもとに集まっていた個々の者たちは、80年代に入り独自の道を歩みだしていた。私もまた76年以来参加してきたピーター・ブルック劇団の超大作『マハーバーラタ』も音楽監督としてアジア各地を巡り歩き、『銅鐸』『サヌカイト』『縄文鼓』といった日本先史時代の音の探求へと向かっていった。この草稿はとりわけ間章のことに終始しているきらいがあると思われるかもしれない。しかし彼の存在は『ディスアポイントメントーハテルマ』に関わった私はもちろんのこと、坂本龍一や竹田賢一の70年代を振り返って見ても大きな意味を持つものと考え、あえて記すことにした。
February 2005 at Berlin
*『ディスアポイントメントーハテルマ』ライナーノート(キングレコード/2005年初出)


土取利行 つちとりとしゆき
1950年、香川県生まれ。
ピーター・ブルック劇団音楽監督・演奏家、縄文鼓・銅鐸・サヌカイト奏者。
幼少の頃より祭り太鼓を叩き、十代で大阪でモダンジャズを始める。1972年、近藤等則と上京、 東京でフリージャズ・グループを結成、活動を始める。1976年、ピーター・ブルックに招かれ、渡米、以来、同劇団と行動を共にする。
M.グレイヴス、D.ベイリー等と共演。添田唖蝉坊・知道演歌。故・桃山晴衣(大叔父に吉住慈恭、四世・宮薗千寿唯一の内弟子。孤高の三味線弾唄い・語り奏者。「梁塵秘抄」を現代に蘇らせた)と二人の拠点、「立光学舎」(りゅうこうがくしゃ)。
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