ジャック・ディジョネット追悼―中学生が受けた衝撃 by 細川周平
text by Shuhei Hosokawa 細川周平
ジャック・ディジョネット逝去のニュースには驚かされた。正直なところ、彼を忘れていたことに驚かされた。訃報がなければ彼を思い出すことはあまりなく、出会いの衝撃以来半世紀が過ぎ去ったことに愕然とした。
彼のライブをただ一度聴いたのは1970年3月30日、四大ジャズ・ドラム・合戦だった(於京都会館)。ジョージ大塚、メル・ルイス、ロイ・ヘインズ、そしてジャック・ディジョネットが順に、長いソロを聴かせてから後半はコンボを呼び出すセットを組んだ後、全員揃いのジャムセッションで締めた。高校入学式を翌週に控え、万博見物を目的に春休み関西旅行中うまく日程が合った。その日の日記をこう書き出している。
ジャック・デジョネット。今はその名を聞くだけでエネルギーがでてきそうだ。マイルスの耳は確かだった。他の3人とは群抜に違う。ものすごくダイナミック、エネルギッシュ。とにかく迫力のあるドラミングだ。シンバルの打ち方がちがう。体全体でドラムスにぶつかってる―そんな感じだ。俺は彼をチャールズ・ロイドの「フォレスト・フラワー」「ソンブレロ・サム」で知り、そのごくシンプルなドラミングに対して大した評価をしてなかった。そしてマイルスのコンボに参加ということをきいて急に名前を思い出した。今までトニー・ウィリアムス・オンリーだった俺の考えを一転させた。まだ20数歳。トニーは「60年代の生んだ最高のドラマー」といソノてルヲはいってたが、70年代はジャックの年かもしれない。
相当おませな告白文で、ほほえましい以上に呆れかえる。なまいきそのものだ。FMがテレビから流れない音楽の窓で、特定番組をテープレコーダーにエアチェックして聴き返すのがジャズ少年の日課だった。ラジオを通して中3の年にジャズの洗礼を受け、そこだけ大学生化・成人化し背伸びした。学校に話し相手はなく、よく日記に感動を書き込んだ。
それを読み返し、ジャズ入門一年生の聴きぶりが思い出される。ライブ会場では大人の仲間入りした気分だった。家で聴くのとは根本から違う。特にドラムスは音量が違うし、プレイヤーのアクションが目に新鮮だった。ロイ・ヘインズは「最も安定している」、メル・ルイスは「期待以下」、ジョージ大塚は「ノリが足りない」と冷たい評価のなか、ジャック独りに心奪われた。アフロ風のファッションが、それまでに馴染んでいたニューロックを連想させてかっこよかった。日記にはチケットが挟まっていたので、思い出としてつけておこう。
ジャズ雑誌の言うまま、マイルス・デイヴィスを崇拝していたので、その抜擢を受けることは最高の勲章と信じ、文中のトニー・ウィリアムス絶賛もその一端だった。70年代は60年代と何もかも違い、新時代が万博から始まる―そんなジャーナリズムの大見得を中学生なりに受け止め、マイルス・バンドのドラマー交代を時代転換の前兆であるかのように考えた。京都ライブで、マイルス最新バンドを先行試聴した気になっていた。
翌月、待望の最新盤『ビッチェズ・ブリュー』から一曲を聴いたが、マイルスのエレクトリック大疾走であっても、京都の演奏を想起させることはなかった。それよりも60年代マイルス&ウェイン・ショーター・クインテットを別に展開したアルバムで、ジャックのプレイは光っていた。京都に通じる爆発力を、たとえばミロスラフ・ヴィトウスがリーダーの『限りなき探求』に収録されている「フリーダム・ジャズ・ダンス」に感じた。
日記でいうチャールズ・ロイドはよく聴いていた。「シンプルなドラミング」に満足していないのは、叩きまくりを好んでいたからだろうが、今では単にハイハットとシンバルでビートを刻むだけでなく、ソロに絡んで遊ぶ「フォレスト・フラワー」の洗練が心地よい。ビル・エヴァンス・トリオに加わるモントルー・ライブ(1968年)は高校時代に初めて知った。今はそのうち「ナーディス」の緩急自在のドラムソロから、京都を偲びたい。
訃報から即座にライブの日付まで思い出されたのだから、思春期の高潮は一回限り、人生の別枠取り置きだ。キャリアを通して振り返る追悼文はほかの寄稿者に任せ、ここでは中学生が一夜のライブで受けた衝撃を恥ずかしげもなくさらして、稀有なドラマーに弔意を表したい。
ジョージ大塚, ロイ・ヘインズ, メル・ルイス, チャールス・ロイド, 四大ジャズ・ドラム・合戦


