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悠々自適 悠雅彦No. 271

#96 宮澤縱一著『傷痕』に寄せる黒沼ユリ子さんの思い

text by Masahiko Yuh  悠 雅彦

宮澤縱一著
傷魂~忘れられない従軍の体験

はしがき

一 奴隷船か、地獄船か( 応召より輸送船の遭難まで )
二 崩壊への道( 比島へ、マニラ上陸ーーセブ島~ーミンダナオ島、最初の空襲から山中へ逃げるまで )
三 受傷ーー自決~ー捕虜
附 現世の餓鬼道

追記
「傷魂」に思う 黒沼ユリ子

「黒沼ユリ子様・恵存」と直筆のサインが残る本書を、一体いつ宮澤先生から頂戴したのかの記憶が、私にはありません。それはおそらく相当に昔のことで、私が次なるコンサートで独奏する曲の練習の方を何よりも優先していた少女時代のことではなかったかしらとさえ思えるのです。その時は〈はしがき〉に目を通しただけで、残りはいつかゆっくりとと考えて、本を閉じてしまったのでしょう。
それから数十年を経た昨年(2019年)になって、断捨離中の書棚から、いかにも時代を感じさせる古ぼけた表紙の本書を発見しました。なんとも先生には失礼千万で申し訳なく、また同時に、自分はこの間の時間を何ともったいないことをして来てしまっていたかに恥じ入るばかりです……。「常に優しい声で激励してくださっていた宮澤先生が、まさかこのように過酷で悲惨な、そして馬鹿げた戦争体験をされておられた方とは、コレまで夢にも私には想像できないことでした.このかけ替えのない文字と行間に詰められた貴重な思いを、後世の日本人に残してくださったことには、感謝以外の言葉を私には何も見つけられません。
人類が創り出した戦争と呼ばれる蛮行と、そのために不可欠な軍隊という上下関係の絶対服従社会の存在という愚かな歴史を、二度と繰り返さないために、本書が持つ否定不可能な説得力は計り知れません。一人でも多くの読者を探し出して、本書に共感と感謝を示す日本人を増やすことこそが、戦地から栄養失調で帰国早々の1946年に早くも「忘れな いうちに」と、ペンを走らせた先生の勇気とエネルギーへの称賛の証しとなるのではないでしょうか。
宮澤先生が音楽評論家の一人として、戦後の日本で大活躍された功績は周知のことですが、本書を残されたことこそが「宮澤縦一」の名を不朽にしていると確信するのは、決して私一人ではないはずです(原文のまま。一部割愛しました。文責•悠 雅彦)。
令和2年5月12日  黒沼ユリ子(ヴァイオリニスト)

もし私が宮澤縦一という方を寸部も存じ上げなかったら、氏が従軍体験を回顧して執筆した本書に巡り合うことも、仮にお会いしたことがあってもこうして本書を題材にして一筆することも、恐らくはなかったといって間違いない。私が同氏を曲がりなりにも存じ上げているのは1970年代に入ってまもなく、当時日本の音楽執筆者が手を取り合って結成した<音楽執筆協議会>に、野口久光氏や油井正一氏(両者ともすでに故人)らジャズ・ポピュラー界の大御所たちの推薦を得て入会したとき、入会時に手渡された執筆者名簿に氏の名前が記載されていたか、あるいはその折りに同会の役員としてその名が披露されたかのいずれかで、その名を記憶していたからだろう。何しろ宮澤縦一氏といえば、私が油井氏らの推薦を得て入会したほぼ同じころ日本のオペラ界の発展に尽力した功が認められて紫綬褒章を受賞した方であり、私にとってはいわば雲の上の人というべき大先輩だったからだ。ことにオペラの専門家として1968年に放送文化賞を授けられ、「ビゼーとカルメン」、「プッチーニのすべて」、「蝶々夫人」等々著書も多数にわたっていることをことを知れば、宮澤縱一という執筆者がオペラに関しては氏の右に出るものはないとの定評を確固たるものにしていたことは間違いない。
前置きがいささか長くなったが、実はここからが今回の本題となる。
さて、本題のこの『傷魂』(しょうこん)。本書は、日本が大敗北した第二次世界大戦で、フィリピンに従軍した日本のある一等兵が、爆撃で傷つき、治療を得られる何らの機会ないままフィリピンの密林に置き去りにされ、もはや死しかないという直前に米軍の手で奇跡的に救われて生還することができた顛末を克明に綴ったものだ。その著者こそ実は宮澤縱一氏なのである。本題の下に小さく<忘れられない従軍の体験>とあり、氏から目をかけられた日本を代表するヴァイオリニストの黒沼ユリ子氏が、今日の若い人びとの必読書の触れ込みで「かけ替えのない文字と行間に詰められた貴重な思いを、後世の日本人に残してくださったことには、感謝以外の言葉を私には何も見つけられません」と推薦の言葉を送っている。
本書が出版されたのは、すなわち本の形で初めて世に出たのは昭和21年(1946年)11月のことだという。64年も前のことだ。大阪新聞社東京出版局発行であり、したがって本書はその初版本の復刻版ということになる。それを勘案しての処置であろうが、現在(当時)の若い人たちにも読みやすいように、元の文を極力活かしながら、分かりやすい表現に変えたところがある、との断り書きがある。だが、個人的な本心をいえば元の原文通りに発売し、ふさわしい表現と思われない文章には注をつけて現代に即した解釈や処理を施すべきではなかったかと思うが、いかがであろうか。すなわち、紹介者の私が勝手に引用して誤解を招くことは許されない。そのため引用は原文に即したものに限ることにした。
氏ははしがきでこう書いた。「私は今も、よくまあ無事に還れたものだと自分ながら感心することがたびたびある。九死に一生という言葉があるが、私は比島(フィリピン諸島)でこの九死に一生を体験した。”無事に帰ったら、この苦しみだって良い思い出さ”と語り合った戦友たちは恨みを遺して、彼の地の土と化してしまった。死別してしまった今、私は再び戦友たちとあの恐怖の思い出を語り合えないのを心から悲しく思っている。赤紙1枚で駆り出され、鉄拳と悪罵の下でさんざんに酷使され、そのあげくが、陸空海の猛攻撃の前にほとんど裸身に等しい姿で晒され、真に筆舌に尽くしがたい労苦の数々をを味わい、身の不幸を嘆いた激戦地の敗残兵たちのあの深刻な苦悶も、あの痛切な叫びも、今もって何一つとして日本の国には正しく伝えられていない」。
さらに続けた。「私は生還者の義務として、思い出してもゾッとするあの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、たとえ筆は拙くとも、ただ有りのままに世に広く発表したいと……」。
その悪夢のような出来事の数々。「米機が頭上に来ると防空壕に飛び込み、飛び去るとノコノコ這い出ては、時には水溜りに入って雷魚を獲ったりして暮らした」。「蛇や蛙を旨い旨いと舌鼓売って食べるようになった」。「こうした山籠もりのうちに昭和19年も過ぎ、私たちは文字通り四面楚歌のうちに昭和20年の元旦を迎えた。大晦日といっても、百八煩悩の鐘も聞けず、みそかそばも喰えぬ南方では、正月といっても蚊にさされ、蝿に悩まされ、体は汗ばみ………」。「私が、<元旦やなじみの米機の落とし弾丸(だま)/お年玉の笑い的表現>とはいかがといったら、名句(迷句)だよと大笑いに」。
「マニラで60キロもあった戦友が、九貫八百匁(約37キロ)に痩せ衰えて、だるそうに水牛を曳いていた姿は痛々しいものだった。芋をかじり、粥をすすって、昼夜兼行の重労働に励む無理が、こんなにも健康状態を低下させてしまった」。
「私たちは夜を徹して水牛を曳き、車を押し、膝まで没するぬかるみやツルツル滑る道を重荷にあえぎながらタモガン目指して北上した…このころはもう、中指ほどの芋一、二本が兵隊たちの一食分だった。兵隊たちは空腹を紛らわすために次第に悪食を覚えていった。蛙、蛇、鼠の塩焼きなどは上の部に属する料理だった……銀トカゲを喰って嘔吐した者もいた。死んだ水牛を掘りだして、その肉を喰って三日三晩も下痢をした者もいた。オタマジャクシやカタツムリまでが試食されだした……現地人の畑を荒らし、野菜類を盗み取って喰うものも増えてきた………米機の降下する落下傘ニュースが喜んで読まれ、色刷りの美しい宣伝ビラが喜んで読まれたが、そうした宣伝ビラの中にはなかなかの傑作があって、今も印象に残るものが少なくない。<水戸黄門曰く、死す可き時に死し、生く可き時に生くるが真の武士である。諸君、死を早まってはいけない。諸君が死んでもそれは、犬死である>、などはそのよき1例といってよいだろう」
米軍のビラには<諸君が頼みとする三八式歩兵銃は、確かに優秀な新兵器であるが、しかしそれは四十年前、それが造られた当時のこと。今それで銃爆撃の大爆弾にどうして対抗できよう>とあった。さらには<諸君は何を好き好んでそんな動物的な生活を営むのか。虫を食べ、草をかじらなくても、我が方に来れば、贅沢はさせられないが食事も人間並みのものを食べさせるし、柔らかい寝台にも寝かせる>、というものもあった。
投降勧告ビラで傑出していたのは、なんといっても投降日の通知ビラであった。何月何日を投降日とし、この日は絶対に攻撃を加えないから、このビラを持って我が方に来い。生命は保証する、との意味を記したビラであった。ビラを眺めながら兵隊たちはコソコソ話し合った。
<どうせ死ぬ命じゃないか。もう一度、人間並の食べ物が食べられりゃ結構だよ。飯でもパンでももう一度喰って、それで死にゃ本望さ>、と。
だが、とうとう最後の時が来た.宮澤氏と同僚の鈴木が足の怪我で歩けなくなったのだ。2人をおいて全員が引き上げたあと米軍兵士たちは2人を車に乗せ病院へ運んだ。<私も鈴木も本当に救われたのであった。まったく夢のようであった>。助かるはずのない二人が、現実に助けられた。<雑念はサラリとすっ飛んで、私は米兵たちに対する感謝でいっぱいになって、ただサンキュー、サンキューを繰り返していた。車はその場から病院に直行した。動物的生活から人間的生活へ、奴隷から自由人に!。こうして私はまた再び還元したのであった>。(2020年9月24日記)

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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