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Monthly EditorialEinen Moment bitte! 横井一江No. 273

#22 リアルとストリーミングのはざまで
〜コロナ禍の2020年を振り返って

text by Kazue Yokoi  横井一江

 

昨2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年だった。いや、まだ翻弄され続けているので、過去形ではなく現在形の問題である。単にウイルスによる感染症の問題だけではなく、社会の歪みがより増幅されて現出化し、メディアやSNSを通して伝えられた年でもあった。そしてまた、さまざまな分断、亀裂が社会の中で起こっているのが日常の中でひしひしと伝わってくる。エッセンシャル・ワーカーという言葉が使われれるようになったが、感染リスクの高い状況下で仕事をする彼ら彼女らがいる一方、コロナウイルスの感染から逃れるためにリモートワークにシフトした会社員も多くいた。それ以前に職を失ったり、自宅待機を余儀なくされたりと家計的に厳しい状況に置かれた人も少なくないだろう。リモートワークに転じた者にしてもそのような形態で働くのが苦痛な人もいたりと、余程恵まれた人でない限り、息苦しさや生きづらさを皆どこかに抱え込んでしまったように思える。生活困難者はより困難に、社会そのものがガタガタと揺れて、軋む音が聞こえるようだ。歴史を遡れば、『日本書紀』に書かれている時代からさまざまな疫病が流行り、多くの人々が亡くなっている。しかしながら、医学は進歩したけれども、無為無策で政局しか考えられない為政者といい、人間というものは存外進歩していないのかもしれない。

音楽業界は最も翻弄された業種のひとつだろう。新型コロナウイルスのクラスターの発生場所としてまずライヴハウスが槍玉に上がった。そして、緊急事態宣言が出たことによってライヴを行うヴェニューは営業自粛、コンサートも中止に追い込まれ、それに呼応するように無観客ライヴ・ストリーミングが急増したことは周知のとおりである。ストリーミング自体は以前からあり、私は十数年前からよく海外のラジオ番組やフェスティヴァルの中継をこれで聞いたり、観たりしていた。ARTEの音楽中継はコロナ以前から音楽ファンの間では知られていたように思う。だが、コロナ以前と大きく変わったことがある。これまでの音楽ライヴ・ストリーミングは大抵放送局などによるものだった。音楽配信となると、音質、映像のクォリティがどうしても問われる。そのような問題もクリアして、多くのライヴ・ヴェニューあるいはミュージシャン自らが有料ライヴ・ストリーミングを次々とスタートさせたことには驚かされた。それを可能にするサービスが増え、課金も可能なプラットフォームがそれを容易にしたといえる。また、その背景にはYouTubeなどで配信を行う個人が増えてきたこと、企業も既にストリーミングをオウンドメディアの中で利用する事例が増えてきたことなどが考えられる。観客を入れての演奏が出来なくなった時、その代替策としてストリーミングという選択肢を選んだことは間違いない。確かに代替策であった。だが、これだけストリーミングが当たり前のように普及し、観客を入れてのライヴ+配信ということが行われるようになった現在、音楽ストリーミング自体をコンテンツ・ビジネスとして捉えるほうが妥当であり、今後もそれ自体がひとつのサービスとして定着していくのではないだろうか。

これまで音楽の楽しみ方は、コンサートやライヴで直に音楽に触れることと、CD等の制作された録音物を聴く/観ることの2つに大別できた。ダウンロード・アルバムは「モノ」ではないが、データを所有することができるので録音物と考えていいだろう。ストリーミングはその何れにも属さない。なぜならば、実体験ではないし、その録音/録画を楽しめるが所有は出来ない。全てがリアルではないからだ。しかし、海外はもちろん国内でも他地域に行くことが躊躇されるような現在、皮肉にも自分が住んでいるエリア以外で行われるライヴを気軽に観られるようになったのは大きなメリットである。ライヴそのものはローカルのからの発信であるが、国内のみならず海外在住者も含めて同時に視聴可能であるだけに、コロナ禍が去った後でもこの3つ目の視聴/聴取形態である音楽ストリーミングを人々は利用し続けると私は考える。そうなるとこれまでのフィジカルなCD等の音楽作品制作にもなんらかの付加価値で差別化するなどのことがさらに進むのかも知れない。ダウンロードも利用される続けるだろう。国際線の減便により海外からの商品の輸入や配送に遅れが出ている状況では、こちらのほうがよい場合もあるし、ダウンロードのみのリリースもあるからだ。音楽ファンにとっては選択肢があることは悪いことではない。

では、コンサートやライヴにわざわざ足を運ぶことはもはや大した意味を持たないのだろうか。私自身、昨年はライヴに出かける回数がめっきり減った。しばらくぶりで年末に出かけた林栄一 MAZURU ORCHESTRA のステージを観ながら、ライヴには完成された作品としてのCDを聴くこととは全く別の体験であるということを痛感した。ライヴでは裏切られることもあるが、それはそれでよし。この感覚はストリーミングでは味わえない。おそらく可聴域以外の周波数や場の空気を全身で感じているということがあるのだろう。それだけではなく、実際のライヴが明日へ繋がる音楽活動そのものであるだけに、その現場にいる昂揚感もきっとあるに違いない。多くのミュージシャンにとって観客の前で演奏するという行為あってこその音楽活動だ。ジャズや即興音楽はライヴ・ミュージックである。観客の反応がダイレクトに伝わることが演奏にも少なからす影響を及ぼすなど、その場にいる観客は目撃者であるだけでなく共犯者たり得るのである。欧米と違い、現在も人数制限はもちろん様々な感染症対策を行いつつも各ヴェニューが営業しているのが幸いである。それも再び緊急事態宣言が出たら、自粛を余儀なくされるに違いない。そうならないことを祈るのみである。

海外との人の行き来が途絶えた影響も見過ごせない。単に海外ミュージシャンによるライヴを観ることが出来なくなっただけではなく、国境を超えての交流やセッションが当たり前となっていた特に即興音楽シーンへの影響は大きい。だが、却ってローカルの音楽シーンの大切さを改めて認識するよい機会となったことも確かだ。ミュージシャンには演奏をしたいという欲求を以前よりも強く感じる。音楽の聴取形態が変わったとしても、そのベースとなるミュージシャンのリアルな音楽活動なくしては音楽は成立し得ない。まだ先は見通せないが、コロナ禍が収束する時期がくることを願うのみである。それまで生き延びられるように必要な支援策をとってほしいところだ。補正予算による文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」は申請方法がわかりづらく、運用が悪すぎた。これについて書くと長くなりそうなのでここでは割愛するが…。

付け加えるならば、世の中の大部分は「不要不急」なことがらで成り立っている。経済の大きな部分をこの「不要不急」が占めているだけではなく、「不要不急」の中にこそ豊かさや文化があるのだ。「不急」はさておき「不要」なものなど本当は存在しない。音楽もそのひとつであるだけでなく、他の芸術と同じく時として人はそれによって救われたり、生きる元気をもらったりしているのだ。

 

上の画像:『肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵)

参考:アマビエの図の翻刻(京都大学付属図書館のWebsiteによる)

肥後国海中江毎夜光物出ル 所之役人行
見るニ づの如之者現ス 私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也 當年より六ヶ年之間 諸国豊作也 併
病流行 早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得と
申て海中へ入けり 右ハ写シ役人より江戸江
申来ル写也
弘化三年四月中旬

 

 

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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