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BooksNo. 331

#144 ヴォルフガング・サンドナー『キース・ジャレットの真実』

Text by Akira Saito 齊藤聡

書名:キース・ジャレットの真実
著者:ヴォルフガング・サンドナー
訳者:稲岡邦彌
版元:DU BOOKS
初版:2025年 10月 7日
判型:A5
頁数:352ページ
定価:3,080円 (税込)

これまでに出されたキース・ジャレットの評伝としては、イアン・カーによる『キース・ジャレット 人と音楽』(音楽の友社、1992年)がよく知られている。それと比較した本書の特徴は、キース本人の発言がゴールではない点だ。この希代のアーティストに対し、著者のヴォルフガング・サンドナーは一歩引いたところから評価しているように思える。そういうことだったのかと驚き、納得した箇所がいくつもあった。

マイルス・デイヴィスのグループに参加した時期のキースについて判断を保留している者は少なくないだろう。たとえば『Live Evil』(1971年)にはキースを含めハービー・ハンコック、チック・コリアなど何人もの鍵盤奏者が参加しており、聴き手は眩暈を覚える地点にとどまるのではないか。著者はキースが参加した曲を挙げ、簡潔な評とともにときほぐしてみせる。なにより重要な点は、マイルスが新人を起用して鍛えたというわけではなかったという指摘だろう。すなわちチャーリー・パーカーとマイルスとの関係とはまるで異なり、著者曰く「覇を競い合うアーティスト同士として出会った」のだ。

マイルスが研究したキースの演奏は、チャールス・ロイドのグループにおけるものだった。ロイドの『Forest Flower』(1967年)を聴けば誰もがわかるように、その演奏はジャズピアノの歴史からも大きく逸脱している。さらにいえば、著者のいう「対等な楽器奏者による集団即興へと昇華され、ほとんど破裂寸前だった」というありようは、まさにマイルスとの共演においても、また後年のスタンダーズ・トリオにも脈々と引き継がれていることがわかる。「点」ではなく「線」や「面」でアーティストをとらえる評伝ならではだ。

そのころのキースのピアノは絢爛豪華であり、そこに才能の迸りがあったということができるだろう。だが、キース自身は『The Köln Concert』(1975年)について「不要な音が多過ぎる」と振り返っているという。これもまた本書の重要な指摘である。なぜならば、スタンダーズ・トリオにおけるキースのピアノもまた過剰さを棄てるほうへと向かっていったからだ。マイルス追悼作『Bye Bye Blackbird』(1993年)がリリースされたとき、日本では(おそらく他国でも)そのシンプルさに拍子抜けしたように受け止める向きが多かった一方で、菊地雅章はキースの変化を恐れない姿に感動するとまで発言していた記憶がある。

こういった「線」や「面」から何を受け取り、どうキースの作品を聴いてゆくべきなのか。少なくとも、仮に「点」としてのアルバムであっても、常套句的な回路をもって聴いていては限られたものしか受け取ることができないだろう。著者はソロピアノの『Facing You』(1972年)とアメリカン・カルテットの『Back Hand』(1975年)で同曲<Vapallia>が演奏されていることを指摘する。思いがけぬ「点」と「点」との間の架橋だ。

錆びついた耳を活性化させ、なんども聴いたはずのアルバムから新たな音を見出すことは歓び以外のなにものでもない。本書がすぐれた評伝であることの証左だ。

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。linktr.ee/akirasaito

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