リーダー作としては二枚め、自らが率いるピアノ・トリオによる作品としては最初のアルバムとなる『Billows of Blue』にも、その声の特異性が刻みつけられている。本誌『Jazz Tokyo』の前号に掲載された蓮見令麻自身による本盤の解説記事(3)では、このアルバムに至るまでの影響源として、たとえばウィントン・ケリー、ボビー・ティモンズ、ソニー・クラークといったモダン・ジャズの巨匠から、メアリー・ルー・ウィリアムスとアリス・コルトレーンという女流ピアニスト、あるいはセシル・テイラー、ポール・ブレイといった「フリー」な演奏家たち、さらにはタイショーン・ソーリーという同時代的な名前などの固有名詞が挙げられているのだが、とりわけそこで特権的な地位が与えられているアーティストとして菊地雅章がいる。「人は、美しすぎるものを前にすると手を触れることもできなくなることが時としてあると思うが、私はこの理由でプーさん(註:菊地雅章のこと)の音楽を今はほとんど聴かない」とまで言われるほどに彼女にとって菊地の音楽は特別なものとして語られているのである。もちろんピアノの奏法とインタープレイの在り方において深く影響を受けているだろうことは本盤に聴かれるとおりなのだが、ここではそれ以上に、菊地雅章もまた特異な声を持つピアニストだったということに着目してみたい。晩年の作品『Masabumi Kikuchi Ben Street Thomas Morgan Kresten Osgood』においてもっとも強烈に刻まれた菊地の声はメロディーを予期した「うたい損ね」や興に乗って漏れ出る単なる嗚咽ではなく、遥か彼方から闖入してくる「不気味なもの」としてそれはそこにあるのだった。そして蓮見令麻のうたう声はメロディーを伴う明確に意識化されたヴォーカリゼーションであり、菊地が発した声とは表面上はおよそ異なる響きでありながらも、演奏の外側から演奏に介入し音楽体験に変容をもたらすという意味において異物としての声の衝突をなしており、その強度においては同様の「不気味さ」がある。それはピアノの旋律をなぞるときでさえ「うたい損ね」ではなく損なわれることのない「うた」そのものなのだ。そしてもしかしたらこの声の特異性においても、彼女は「プーさん」の音楽から「美しすぎるもの」を感じ取っていたのかもしれない。