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CD/DVD DisksNo. 229

#1407『Rema Hasumi 蓮見令麻 / Billows of Blue』

text by Narushi Hosoda 細田成嗣

Ruweh 004

Rema Hasumi  (piano, voice)
Masa Kamaguchi  (acoustic bass)
Randy Peterson  (drums)

  1. Vers Libre I
  2. Still or Again
  3. Nocturnal
  4. Vapors of Voices
  5. Keep My Water Still
  6. In The Mists of March
  7. Billows of Blue
  8. Vers Libre II

Recorded June 2016 at Oktaven Audio
Engineered by Ryan Streber
Mixed by Pete Rende
Mastered by Luis Bacque


声の特異性、あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」という戦略

1983年に福岡県久留米市で生まれ、高校卒業後に渡米し、現在はニューヨークを拠点に活動するピアニスト/文筆家の蓮見令麻は、かつて「フリージャズ」と「フリー・インプロヴィゼーション」という二つの言葉から想起されるイメージの「決定的な違い」について、それを音の聴覚的な感触と演奏者の態度の二つの側面から区分けしたことがある(1)。「フリー・インプロヴィゼーション」の前者の側面は「直線的な移動を目的とせず、キャンバスに絵の具を落とすような図形的な動きを持ち、静止や方向転換への躊躇がない」ことであり、後者の側面は「ディストピア的社会において抵抗の対象または意義を失った新しい世代のつづる自由即興なのであり、政治性よりも個人の内省が核にある」ことだと書き記していた。少なくとも60年代の後半にヨーロッパで出来した自由な即興演奏を求める試みが西洋近代に対する内在的な批判を含んでいたことを思い起こすならば、それをイデオロギーとは無縁のものとして捉えるわけにはいかないのだが、しかしこうした言葉の区分けを客観的に定義されたジャンルの特徴として受け取るのではなく、「フリー・インプロヴィゼーション」を自らの活動領野と見定めたひとりのプレイヤーとしての蓮見令麻が、それをどのようなものとして捉え実践しているのかが示されたものと考えるならば納得がいく。とりわけ「直線的な移動を目的とせず、キャンバスに絵の具を落とすような図形的な動きを持ち、静止や方向転換への躊躇がない」という音の表現などは、フリー・インプロヴィゼーション一般というよりも、個別の即興者としての彼女の音楽をことのほか具体的に述べたものだと言うことができるだろう。

2015年にリリースされた蓮見令麻のファースト・アルバム『UTAZATA(歌沙汰)』は、日本の伝統的な音楽をテーマに取り上げながらも、あくまで「フリー・インプロヴィゼーション」を基盤とすることによって、そこであらためて「日本的なるもの」を再構築していくというコンセプチュアルな試みだった。ここで先の彼女の考えを敷衍してみると、それは大文字の歴史/物語に対する抵抗としてあるのではなく、あくまでも極めて個人的な内省と遡行から生み出された表現なのだと言える。そこに日本の伝統的な音楽が取り入れられたのは他でもなく、彼女が日本を出自に持ち、そのことを嫌が応にも意識せざるをえない異国の地で音楽を奏でていたからだった。そしてこうしたアイデンティティの確立の狭間で思考したもうひとりのピアニストとして、たとえばノルウェーのオスロにわたった田中鮎美を引き合いに出してみることもできる。彼女もまた自身のアルバムに「日本的なるもの」を取り入れている。しかし田中鮎美のそれがあくまで西洋の立場に立ったピアノ演奏という外部の眼差しから「日本的なるもの」を再構築していこうとする(2)のに対して、蓮見令麻のそれはむしろ日本の伝統的な音楽の内部に入り込みながら、その「伝統」を辿り直すことによって「日本的なるもの」を体現していくという違いがある。「東遊」や「筑前今様」などを特有のヴォーカリゼーションでうたい聴かせていくその音楽は、同じように「日本的なるもの」を取り入れていても、田中鮎美の実践とは対照的な方位へと向かおうとしているようにみえる。そしてその差異がもっとも際立つのはやはり辿り直す「うた」の部分であり、「うた」をうたうその声の特異性があらわれるところにおいてだろう。

リーダー作としては二枚め、自らが率いるピアノ・トリオによる作品としては最初のアルバムとなる『Billows of Blue』にも、その声の特異性が刻みつけられている。本誌『Jazz Tokyo』の前号に掲載された蓮見令麻自身による本盤の解説記事(3)では、このアルバムに至るまでの影響源として、たとえばウィントン・ケリー、ボビー・ティモンズ、ソニー・クラークといったモダン・ジャズの巨匠から、メアリー・ルー・ウィリアムスとアリス・コルトレーンという女流ピアニスト、あるいはセシル・テイラー、ポール・ブレイといった「フリー」な演奏家たち、さらにはタイショーン・ソーリーという同時代的な名前などの固有名詞が挙げられているのだが、とりわけそこで特権的な地位が与えられているアーティストとして菊地雅章がいる。「人は、美しすぎるものを前にすると手を触れることもできなくなることが時としてあると思うが、私はこの理由でプーさん(註:菊地雅章のこと)の音楽を今はほとんど聴かない」とまで言われるほどに彼女にとって菊地の音楽は特別なものとして語られているのである。もちろんピアノの奏法とインタープレイの在り方において深く影響を受けているだろうことは本盤に聴かれるとおりなのだが、ここではそれ以上に、菊地雅章もまた特異な声を持つピアニストだったということに着目してみたい。晩年の作品『Masabumi Kikuchi Ben Street Thomas Morgan Kresten Osgood』においてもっとも強烈に刻まれた菊地の声はメロディーを予期した「うたい損ね」や興に乗って漏れ出る単なる嗚咽ではなく、遥か彼方から闖入してくる「不気味なもの」としてそれはそこにあるのだった。そして蓮見令麻のうたう声はメロディーを伴う明確に意識化されたヴォーカリゼーションであり、菊地が発した声とは表面上はおよそ異なる響きでありながらも、演奏の外側から演奏に介入し音楽体験に変容をもたらすという意味において異物としての声の衝突をなしており、その強度においては同様の「不気味さ」がある。それはピアノの旋律をなぞるときでさえ「うたい損ね」ではなく損なわれることのない「うた」そのものなのだ。そしてもしかしたらこの声の特異性においても、彼女は「プーさん」の音楽から「美しすぎるもの」を感じ取っていたのかもしれない。

(1)https://jazztokyo.org/jazz-right-now/new-york-jazz-right-now/post-9749/

(2)https://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-4146/

(3)https://jazztokyo.org/jazz-right-now/new-york-jazz-right-now/post-14300/

細田成嗣

細田成嗣 Narushi Hosoda 1989年生まれ。ライター/音楽批評。2013年より執筆活動を開始。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。2018年より「ポスト・インプロヴィゼーションの地平を探る」と題したイベント・シリーズを企画/開催。

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