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CD/DVD DisksNo. 278

#2092 『池田篤/スパイラル〜Solo Live at 岡本太郎記念館』

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃

DAYS OF DELIGHT DOD-012

池田 篤 (alto saxophone, soprano saxophone on 3, 5)

1. I Remember You
2. Toitata
3. Blues Five Spot
4. Impressions
5. Flame Of Peace
6. She Likes To Dance
7. Star Eyes
8. Old Folks

2020年2月1日東京・南青山・岡本太郎記念館・第2展示室でのライヴ録音


ある晩、馴染みのジャズバーに立ち寄って安ウィスキーを啜っていると、心地よいサックスが聞こえて来た。しばらく耳を澄ませていたが、無伴奏だと気づいてからは、氷が溶けるのも忘れて音に集中した。
流麗、枯淡ともいえる過不足ない音の美にしばし酔った。
ふっと気を抜いた次の瞬間、エヴァン・パーカーの如き奔流が襲って来た。山の渓流で足を滑らせたかのようだ。あっと息をのみ、身を任せていると激流は次第に、モチーフを現してきた。『インプレッションズ』と気づくのに少し時間がかかった。
そのうちサウンドは幅広い川となり、フェルトのような柔らかさが身を包んでくれたのだった。

16歳の夏に友人の家でアンソニー・ブラクストンの「フォー・アルト」を聴いて以来半世紀、無伴奏サクソフォンという様式に魅せられて来た。それは何故だろうかと自問した。そしてこの数年来その答えの一つが見えたように思う。
畢竟、サックスのソロは「書」である。墨痕淋漓という語がまさに当を得ていないだろうか。
墨継ぎとブレス、筆勢とサウンド。それによって空間に生み出されていくのは漢文や和歌、詩であり、片や音響という「大気中に消えてゆき、二度と捕まえる事の出来ない」印象〜記憶の痕跡である。
私は決して書家でもないし、書道を学んだ訳でもない。しかし何故か周囲には若手書家がいて、作品を見る機会は多かった。また古代文字への関心が甲骨文字、金文、篆書、隷書などの造形美、印字、フォントへの興味と一体となって心中に醸成されていた。それらがいつの間にか「書」という表現への希求となっていた。
そして気づいたのは、私のサックス演奏個人史は「フォー・アルト」の臨書ではなかったかということだ。私にとってこのアルバムは、書の手本であり、模倣する事によって演奏を学んで来たのではないか。

ジャズはサックスの文学だと言った人がいた。
コールマン・ホーキンス、チュー・ベリー、ベン・ウェブスターを三筆としたら、三跡は誰か。ジョニー・ホッジス、レスター・ヤング、ベニー・カーターあたりを挙げておくべきだろうか。そして其の後にはパーカーを筆頭として、ロリンズ、トレーン、スティット、マクリーン、ウッズ、グリフィン、ドルフィー、オーネット、コニッツ、ペッパー、ファロア、シェップ...華麗なる作家達の系譜。アイラーという巨魁。そのこちら側にブラクストン、エヴァン・パーカー、ブレッツマン、ゾーンらがいる。
ところで、多くの書を見て来た挙げ句に思うのは、漢字ではどうしても中国や台湾の書家には、日本の書家は敵わない、いや何かが決定的に違うという印象である。当然と言えば当然だ。彼等はその書字〜漢字の中で生き、考え、思い、暮らしている。我々は違う。そこには多様な言語や文字の混成〜ハイブリッドな言辞が渦巻き、それに棹さしながら想いを綴っていないだろうか。
だから、我々が決定的に、世界の何処よりも優位なのは、仮名文字の、あるいは漢字仮名混じり文での思考であり、書なのだ。
津軽三味線が津軽弁の、琉球三線がウチナーグチの語調と共鳴している事は否定できまい。では日本人サックス・ソロ美学の根底をどこに求めるか。
アフロアメリカンの音楽ならば、ブルーズ、ソウルという心情、そして英語圏の語感に求めるのは妥当であろう。それを求めても得られない葛藤と諦念が我々にはある。
だから敢えて言おう。日本の無伴奏サックスは「仮名文字の音楽」であると。
井上有一、榊獏山など現代美術的書家を想像してはいない。本阿弥光悦、藤原俊成、定家らの散らし書き、そして良寛に極まる空間の美学、扇面や屏風、書簡、料紙に残るアトモスフィア。
大陸由来の、漢文の公式文書や経典。その厳密に排列された漢字一個一個の「漢文」を、あたかも大陸由来の確たるスコアとみなすなら、それに対して、あくまで私的な、秘めた気合いが虚空を緩やかに分節化し、たおやかさによって空白に生気を与える「仮名書き」。そこで生まれる音が音楽と成るようなソロ、それは和歌でもある。これが日本のサックスを特徴づけているのではないか。

私は以前、阿部薫のサックスを匕首に喩えた。それは強靭ではあるが儚い音楽だった。それは一瞬で消えゆく叫び、模倣する事の叶わない演奏だった。
またこの系列に、山内桂の飛行機雲の如き遥かな音を、故橋本孝之の垂鉛のような響きを追記することを私は厭わない。
実は、私がブラクストンに惹かれたのは、ブルーズ、ソウル感が希薄だったからだ。それでも皆無という事は勿論無い。彼と、同時代の米英欧の数多のサックス奏者達はブルーズ引力圏から脱出せんと切磋琢磨、工夫考案したのだ。
そして、彼等の試行錯誤を横目に見ながら日本人はどう考えたか。

「このサックスソロは誰?」
「池田篤さんですよ。ずっとソロやってきたけど、しばらく休んでたんだよね」
「そうですか。いや不勉強で知らなかった」
「ははは、いいでしょう。これ岡本太郎記念館で去年やったライブなんですよ」
「へええ、面白い場所だ。あ、拍手からすると客はそう多く無いね」
「なんかこう親密な雰囲気だよね」
「うん、いいねえ...実に」
「気に入った?うちで売ってるよ。買う?」
「是非」
「あ、最後の一枚だ。毎度あり〜」


金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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