#2159 『沖縄電子少女彩/doomsday〜終末〜』
『Okinawa Electric Girl Saya / doomsday ~ End ~』
text by 西村紗知 Sachi Nishimura
CD: infogarage IGST012
作詞&作曲&編曲:沖縄電子少女彩(02.作詞:小林弘人、06.リズムトラック:廣山哲史(RYUKYUDISKO)、08.作詞&作曲:七尾旅人 編曲:ESME MORI)
01. 人ぬどぅ
02. Dancing in the distance(作詞:小林弘人 作曲&編曲:沖縄電子少女彩)
03. ガラスのペガサス
04. 仮面
05. ARAWARIN2022
06. アッチャメー!(リズムトラック:廣山哲史(RYUKYUDISKO))
07. アシバナ
08. カスミソウ(作詞&作曲:七尾旅人 編曲:ESME MORI、沖縄電子少女彩)
09. 安息の日
10. あなたの地球
11. エデンの鳥
12. 蛍
13. 枯れた島
14. 敗者
15. 針
16. doomsday〜終末〜(ゲストミュージシャン:ASTRO、纐纈雅代、さのみきひと(MIKISARA)、GENET (AUTO-MOD)、doravideo、T.Mikawa(INCAPACITANTS、非常階段)、森田潤、Yuki Hata)
17. 全て
Vocal production:Hisako Arakaki
Mixing & Mastering Engineer:根岸和貴
Direction:Hajime Nakamura
Produced by Okinawa Electric Girl Saya
Executive producer:Hisashi Ikeda
いつのことだったか。中野ブロードウェイを散策していたらなにやらポスターが貼ってあって、そこに大きく名前がのっていた、あの子。
あの子のつくった曲が聞きたくて、CDを再生してみる。輪郭のぼやけた少し頼りない声色が、80年代っぽいパキッとしたシンセサイザーの音とともに、また別のトラックだと、たっぷり鳴り響く轟音のノイズをかき分けるようにして、こっちにくる。
だから、ライブに行ってみようと思った。そしたら、リアルのあの子には何ひとつ頼りないところなんてなかった。羽織っていた真っ黒のフーディーをおもむろに脱いで、それをひらひらさせて舞いながら、沖縄民謡「耳切坊主」をアンビエントっぽい音響にのせてちょっぴり野太い声で歌い上げていた。機材のツマミを操作しながら、横揺れに乱れたロングヘアーをかきあげて歌うのも、あの子。サックスの爆風のようなロングトーンにだって負けないのが、あの子。
あの子は、沖縄電子少女彩っていうんだって。あや、じゃなくて、さやか、じゃなくて、「さや」。おきなわでんししょうじょさや。
新しいアルバム『doomsday〜終末〜』。コロナ禍の自叙伝的な記録そのもののような音の数々。今までのアルバムよりメッセージ性が強い。『サンジェルマン伯爵からの招待状』(2018年)以来のダークな世界観が、より確かな表現上の根拠を獲得している感じがする。テクノ、ノイズ、アンビエント、80年代ポップス等複数の音楽ジャンルのエッセンスが混在しつつもアルバム・オリエンテッドに仕上がっている。
「01. 人ぬどぅ」という、音像の歪む短いコラールからアルバムははじまる。沖縄の言葉で書かれているんだろうか。でも「ミゼレーレ」と言っているように聞こえた。
「02. Dancing in the distance」。音響が、ざらつきの多いドローンと、彼女のクリアな歌声と、打ち込みのパーカッションのよりくっきりした音色という三層にわかれていて立体感がある。彼女の歌声にはときどき沖縄民謡らしいこぶし回しが入って、音響体の層を、縫うように、ひらひら舞うように。
「03. ガラスのペガサス」。オルガンのような音から始まる。リバーブの深くかかった、やさしい鳴りの低音の伴奏にピアノも加わる。彼女の歌声も頭声交じりでやさしい。歌詞にあまり没入せず適度な距離感が保たれている。
「04. 仮面」。雰囲気が一転してギターノイズから。オルガンはクラスターに。地獄変の音調。
「05. ARAWARIN2022」。またリバーブの深い、胎動のような、依然として暗闇のような音響体。4つ打ちで少しダンサブルに。
「06. アッチャメー!」。全編沖縄方言による酒への讃歌。「アッチャメー」とは酒の席で即興的にはじまる踊りのことらしい。リズムトラックはRYUKYUDISKO の廣山哲史。また、コーラスに彼女のボーカルトレーナーでもある新垣寿子が参加している。
「07. アシバナ」。これも全編沖縄方言。「アシバナ」は、歌詞カードの対訳を見るかぎり「遊ぼうよ」の意。力強い人生賛歌である。
「08. カスミソウ」。このアルバムにおいて最もJ-POPらしい曲。作詞と作曲は七尾旅人。遠くの沖縄の地をやさしく見つめるまなざし、過去の回想、望郷の念、そうした複数の意識の流れが歌詞の中に交差している。なおかつ「横切るYナンバー」というフレーズからもわかるように、社会的な内容をもつ曲でもある。編曲にはESME MORIが参加。
「09. 安息の日」と「10. あなたの地球」はインスト。ヒーリング、ニューエイジっぽい静かな音響から、テクノ、エレクトロと呼ばれるようなリズミックな音響へ移行する。
「11. エデンの鳥」。チューブラーベルのような音と波打つ強弱の伴奏。楽園への憧憬。
ふわふわとうねる音響に詩の朗読がのせられた「12. 蛍」以降は、また曲調が暗くなってくる。
「13. 枯れた島」は沖縄民謡風ヴォカリーズ。「14. 敗者」になると一転して、ほわほわと幼気なボーカルに。歌詞の内容は依然としてシビアだ。「15. 針」ではそのボーカルがもっとくぐもった感じに。水滴の落ちる音。
やがて「16. Doomsday〜終末〜」が訪れる。極彩色の地獄。サックスの咆哮。重なっていく複数の歌声。つんざくノイズ。
沖縄電子少女彩というアーティストにとってこのアルバムは一つの達成だ。のみならず、沖縄音楽というジャンルにとってもまた一つの達成だろう。
ただし後者の達成については、沖縄音楽というジャンルとはどういうものだっただろうと振り返る機会をこのアルバムが提供することを通じ、リスナーがその機会を受け止めることをもって、はじめて現実となるだろう。
沖縄音楽――うちなーポップスという呼び方もあるそれについてわたくしは、1972 年の本土復帰以降、とりわけ喜納昌吉以降の沖縄の音楽上の発展を指すものとして念頭に置いている。ワールド・ミュージックの一部門として確固たる地位を築き上げ、「J-POP」のオリコンチャートでも結果を残すアーティストをその時々で多数輩出し、芸能界でもまた大きな存在となった。
でも、あの沖縄音楽とは。自らの置かれた文化圏に、アメリカと日本(そしてまた東南アジア諸国)、複数の国が存在することの意義とは。こうした文化圏上の特殊性に関連して次のように言い換えよう。沖縄音楽の独特の「チャンプルー性」と、普段なんとなしに言われる「オルタナ」との違いとは。
音階からレとラが抜けていて、カチャーシーのビート感なら沖縄音楽なのか。沖縄出身の人がやれば沖縄音楽なのか。沖縄を題材に扱えば沖縄音楽なのか。
おそらくどれも、決定的な要因にはならないのではないか。おおらかと言えば聞こえがよいだろう。けれども、何をどれだけ揃えても自分自身に到達できないし、そもそも何を揃えればよいかという規範をどこにも求めることのできない――そうした困難が沖縄音楽というジャンルには常に付きまとっているのではないか。
思うに、沖縄音楽とは、オルタナティブである以外に存在の仕方がないものなのではないか。決定的なトレードマークのような素材をもちつつも、それだけでは自分自身の存在意義を決定づけられないような、正統性との距離感で自分の存在を測れない(そもそも正統性を担保するものが存在しない)、そうしたオルタナティブ性こそが沖縄音楽の勘所なのではないか。
加えて、沖縄音楽のうちに、本土に対する民族的アイデンティティー確立のための反骨精神に気づくとき、同時に、それもまた消費に左右されざるを得ないものだったという現実にも気づくことだろう。
その時々で別々の要素によりオルタナティブである沖縄音楽。例えば、安室奈美恵のやっていたことと、ORANGE RANGEのやっていたこととでは、依拠する音楽ジャンルが異なっている。制作人の間にはなんらかの人的交流はあるのかもしれないけれど、それはそれぞれの音楽を聴いただけではなかなかわからないことだ。沖縄の外で商業的な成功をおさめても、その成果は沖縄音楽全体のジャンルの成功とはなりえず、彼らは沖縄音楽としてその時々で都合よく消費され続けることがあっても、沖縄音楽というジャンルの発展のために、その商業的な成功から音楽のために何かを引き出して共有できたりするものなのだろうか。本土の人間であるわたくしにはよくわからない。
――でも、そんなのあの子自身の悩み事じゃないだろうな。MCではうってかわってとびっきり明るいのもあの子。2022年1月27日のDOMMUNEで「沖縄の音楽に最初はあまり関心がなかった」なんてあっけらかんと言っちゃってたあの子。琉装の鮮やかな橙色がとっても似合う、あの子。
要するに『doomsday〜終末〜』というアルバムは、まさに沖縄音楽である。しかし、アルバムに参加した豪華なゲスト陣を見て改めて思うに、なんて独特なチャンプルーだろう。
特に重要なのは、「06. アッチャメー!」と「08. カスミソウ」というまったく逆のベクトルの、二つのトラックがこのアルバムに含まれているという事実だ。つまりは、廣山哲史と七尾旅人による、異なるアプローチでの「沖縄音楽」の競作が実現しているということである。そしてこの二つの作品をレパートリーとしてもっていることが、沖縄電子少女彩というアーティストにとっては非常に重要になってくるだろう、と個人的には思う。
「06. アッチャメー!」には、言葉も音もMVの衣装と舞いも、ふんだんに沖縄の素材が用いられている。題材もまた、沖縄のささやかな日常としての酒席をモティーフに選んであるのだから、沖縄である。華やかでにぎやかで、楽しい音楽であるけれど、他所の人が容易に消費の対象としてはならないような、頑なな感じもある。そうしてわたくしには、この曲は民族的アイデンティティー確立のためのアンセムのように聞こえる(ライブでよく彼女が披露する「ぼくらは星砂」も、これは作曲として廣山哲史が参加しているが、これもまた彼らのための、彼ら自身によるアンセムなのではないかと思う)。これに対して、「08. カスミソウ」には沖縄の素材は存在しない(もちろん歌詞の題材は沖縄なのだが)。あるのは、沖縄への外部からのまなざしと、そのまなざしにより逆照射されて浮かび上がってくるところの諸々ではないだろうか。それは本土の側の姿なのかもしれないが、なんにせよ、七尾が自身の言葉と音楽の素材でもって描き出した「沖縄」は、廣山と彩が実際の経験に基づいて提示する「沖縄」に、リアリティの点で何一つ劣ることがない。そのリアリティは「きみがどこに居ても きっと探し出す」という歌詞のなかで最も強いものとなるだろう。わたくしはここに、本土にいる人間から沖縄へのまなざしを、外部であることを隠し通さない、強くやさしい人間の姿を、一層強く感じる。そしてまた、リスナーそれぞれが、異なる状況に置かれたさまざまな人々が、ここを聴いたらそれぞれの「きみ」を胸に抱くことだろう。さながら関数のようなこの歌詞を中心に、複数のまなざしが、またそれぞれの逆照射が、絡まり合って交感し合って曲の内容は広がっていく。
それにしても、沖縄の芸能界の系譜もあるし、ジャパノイズとかコアな音楽シーンの遺産も広めていかなきゃいけないとは。これからあの子のやんなきゃいけない仕事はたくさん。けれど、それはきっと幸福な重責に違いないのだし、何もかも欲張って、どこまでも走っていってほしいと僭越ながら願っています。
西村紗知(にしむら さち)
1990年鳥取生まれ。批評家。音楽批評ウェブマガジン『メルキュール・デザール』同人。すばるクリティーク賞受賞作「椎名林檎における母性の問題」。受賞第一作「グレン・グールドに一番近い場所」。
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