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CD/DVD DisksNo. 298

#2231『Margaux Oswald/Dysphotic Zone』
マルゴー・オズワルドのデビュー盤・ピアノソロについて、2つの考察

*このディスク・レビューでは、1枚のピアノソロ・アルバムに関するテキストを、part 1: 岡崎凛・part 2: 原智広の2名で担当します。

レーベル: Clean Feed(2022年9月リリース)

Margaux Oswald (piano)

① -237m (28:06)
② -951m (04:44)

All music by Margaux Oswald
Recorded by Göran Stegborn, live at Monopiano festival, Fylkingen, Stockholm on October 24th, 2021
Mixed and mastered by Anton Toorell
Produced by Margaux Oswald
Executive production by Pedro Costa for Trem Azul
Design by Travassos
ストックホルム「モノピアノ・フェステイヴァル」でのライヴ・レコーディング(2021年10月24日)


part 1.text: 岡崎凛 Ring Okazaki

本作はMargaux Oswald(マルゴー・オズワルド)のピアノソロ作品。プロデュースも本人によるもの。
Monopiano Festival in Stockholmは、2021年10月21日~24日にかけて開催された。16人のピアニストが参加し、Margaux Oswald(マルゴー・オズワルド)はフェス最終日の夜に出演。

プログラムには極めてシンプルな紹介文と、暗い窓の奥にうっすらと彼女が映るプロフィール写真が載っている。
Margaux Oswald is a pianist of French-Filipina origin, born in Geneva, and currently based in Copenhagen. She has played the piano since the age of 5, and is now committed to the art of free improvisation.
(マルゴー・オズワルドはフランス系フィリピン人でジュネーヴ生まれ、コペンハーゲン拠点のピアニスト。5歳からピアノを弾き、現在はフリー・インプロヴィゼーションのアートに取り組む。)

他にも彼女のプロフィール写真はあっただろうが、白い窓枠と真っ黒に塗られた窓ガラス、その奥に顔らしきものの輪郭がぼんやり見える画像を使っている。他のピアニストたちの写真と比べて、何か隔絶された印象を受けるのだが、フェスで彼女が弾く演目のテーマである海底の闇と、この写真の暗がりは、きちんとリンクしていく。その演奏はYouTubeで公開され、1年を待たずにマルゴー・オズワルドはポルトガルのClean Feedレーベルからソロ・デビューを果たす。

アルバム・タイトルの『Dysphotic Zone』とは、深海と呼ばれながらもかろうじて光が届く層を指す。調べてみると、外洋で水深200~1000m程度を透光層 (disphotic zone) と呼ぶ、とある。この水域はトワイライト・ゾーンとも呼ばれ、光合成はできない。

マルゴー・オズワルドの曲名はシンプルだ。①-237m、②-951m、という2つの曲によって、海の薄暗さ、暗黒との境界を描く。YouTube 動画で見ると、②はアンコール曲であり、①へのエピローグのようなものとも感じられる。
①も、②も、それぞれのタイトルである不愛想な数字から、とてつもなくダークな世界へと導かれていく。低いドローン音を響かせ、水中に微かに見える光を追うようにピアノの音がさまよい、やがて切れ味鋭い闊達な動きに変わり、飽くことなく水流を追うような演奏が続く。インパクトある音を要所に叩き込み、激しさを交えながらも、デリケートで細やかなプレイが続く。熱い演奏と言えなくもないが、闇と微かな光がテーマとする本作には、体力を注ぐ熱量の高い演奏と、凍るような冷たさが同居する。

マルゴー・オズワルドの経歴には、なぜか彼女の学んだコペンハーゲンの音楽専門学校(音楽大学)、Rhythmic Music Conservatory(RMC)に関する記述がないが、彼女はこの著名な音楽学校の関係者とよく共演し、本作のリリースと同じ頃(2022年9月)、Kasper Tranberg (キャスパー・トランベア、tp)とのデュオ作をリリースしている。しかしそんな経歴を知らない方が、本作を存分に楽しめるかもしれない。ダークな窓の向こう側にうっすらと見えるだけのピアニストが、ようやく姿を見せ、ステージに現れるというプロローグのほうが、彼女のソロ演奏にはぴったりだ。

<参考>
Monopiano Festival 2021のプログラム:https://t.co/wwXgFL5yW5


part 2. text: 原智広 Tomohiro Hara

「マルゴー・オズワルド 沈黙という名の身を纏う本当の定め」 2023 1/29

-237m、それにしても、無数の種子、細胞のようなこの旋律はどこから沸いてくるのだろうか?今はもう海のさざめきのようにも透明なうつろいとして消え去っていくにしても、光が辛うじて手を伸ばせば届く、彼女それ自身の無名の終わりを色とりどりの海藻が、魚たちが、気泡たちが彼女を囲っているのだろうか?耳を傾けたならばさまざまなざわめきが聞こえるかもしれない、海中の残響音、誰でもない何者でもない声、日は昇り日は沈む、クラゲ、深海魚、甲殻類、細胞分裂、そして夜、深海は静けさに満たされる。マルゴー・オズワルド、そう、彼女たる、ある一人の死の眩暈のようなゆっくりとした長い余韻が、他の誰にもきっと届かないであろう「声」に違いないのだから。
私が彼女のジャケット写真や曲を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは何故かカテリーナ・ゴルベワという女優のことだった。レオス・カラックスのミューズであり、若くして亡くなってしまったが、出演作「ポーラX」にて、私は彼女が死と生の狭間で彷徨しているように思えた。それは決して苦しんでいるということではなく、むしろ安堵感や心地よさを彼女自身はそこにいることで感じているように思えた。彼女は偶然にもこの世に産み落とされ、海中-237mという秘密には入り込めない、世界にも介入出来ない、しかしまだ、生きていると感じるということだ。海藻で張り巡らされた森の中を彷徨うこと、ただ一人、一人だけで、深海に取り残されること、沈黙という名の身を纏いパリのペール・ラシェーズ墓地に眠る。或いは、「ポーラX」のノイズ・オーケストラの荒れきった工場のシーンを思い出してもいい。ポエティックな反響、楽器という楽器すべてがここでは愛おしく感じられ、無意味なものは何もない。
「悪魔はあなたの内側に隠れている…そして、あなたの影に…あなたの心臓に…」ポーラXで彼女は二度自殺しようとした、1度目は失敗し、2度目は成功した。自殺した翌朝、白髪になって目が覚め、死の日付さえ確かではなく、パリの地下鉄駅の冷たいコンクリートの上で不思議な非業の死を遂げた。「ここにはさびしさしかない…わたしはさびしい…」とゴルベワのようにまた、マルゴー・オズワルドも訴えかけているように私には思えた。長い意識の中で誕生だとか死とかに直接関わらないように殻に閉じこもり、そう何も残らずに、ただ旋律だけが残るよりいいと、人が断言出来るように、きっと私たちがこの楽曲を聴く態度はそれでいいのかもしれない。そう、能動的な要素はまるでなく、完全無垢な受動的な態度で接することだ。あらゆる混合と対立、あらゆる矛盾、あらゆる動性と未明たるもの、音楽は最も仮象なもの、未明なものでありつつも、演奏者、そう自分自身が支配者となり、自身の気高さと洗練さを維持することだ、そして、またひろがる絨毯のような気泡たち、躊躇するかのような凍った海、時間の流れは止まっているかのようだ、それに魚たちはまだ眠っている、海中の起伏の目に見えるめまぐるしいまでの環境変化、この旋律の時に情熱さ、時に静寂さを、時に怒りを思い浮かべるイメージを刻むこと、この唯一無比の視点、まっすぐなヴィジョン、やがて、海の底のほうへとどんどん暗がりが拓けてくる、-951m、夜幾たびもの夜、また夜の中に溶け込まされて見失われてしまった音色、またこの夜は人を残酷にも殺すのだ。長い時間が失われて、顔に、声に、眼差しに、愛情に、満たされたと思った瞬間に、私たちは忘れると同時にその感情を深い奥底でジョリス=カルル・ユイスマンスの「彼方」のように幻視する、その像は閉じたまぶたの奥底で謎のままに沈没船のように眠っている。水深が深まるにつれて、日の光が急速に薄れていく。空気の濃度がどんどん低くなって汚れてきて霧の立ちこめたような暗黒のような深海へと、そこでマルゴー・オズワルドが見出すもの、光を薄ぼんやりと反射させながら上からのしかかってくる主の嘔吐物のような奇妙さ、海そのものは恐ろしく深くなり、濃い胆汁のようなシンドロームの渦中、水面の様に揺れる海藻やプランクトン、クラゲ、蟹、今にも脆くも崩れ落ちそうな生物たち、化け物の顔のように神経過敏な様相を蘇らせ、沸々と恐怖の色が育ってくる。それは、シーラカンスのように幽玄と臆することなく海の影に消えていく、ああ、あの微生物たち、私たちも海の向こう側に渡るのだろうか? 澱んだ空気に、濃度が薄くなるにつれて生物たちは独特なる進化を遂げ、植物性の波となって、角や縁が黴や海藻のように、存在を主張することなく、音が意味もなく通り過ぎる、突然気泡の立方体が破裂し飛び散る、反響音がもの悲しげに響く。
私たちの肉体はまだ、害われた音楽につれてなげきを送り、ねじられてさがっていく、聞くことを歌うことを忘れた私たち、驚いて塵のように灰のように崩れてしまうことを、肉体が瞬間という海の箱船に連れ去られる前に、動物たちは、そして旋律はなげきの息に包まれて去る、海洋生物は光のことを告げる、神秘の音をまぼろしの手でつかむ、真っ暗に浮かびうごく不安の海の底を待つ、私たちは聴くことを忘れていた、この破壊の楽曲に耳を押しあてよ、死のなかでいのちのはじまるさまを、私たちはすすり泣く、喉のおそるべき沈黙を、瞬間を別の暗さで染めながら、あゆみが終わったことを思う苦悩、朝のうすあかりのなかに、ピアノの裂けめのうしろで存在がささやく、その声に私はどうやら応じなければならないようだ、いや、応えたかったのだ。
内面の魂に、生まれては甦生し、生まれてはまた生き返る。私たちは何も知らない、何故なら世界は絶対に介在してこないから。まさに私の感情から溢れる愛情を懐かしむ声だった、まるで海の底全体を揺らしながら。この奇妙で異質な音色を、どう言葉にすればあなたたちにわかってもらえるだろう。緩慢な感覚が私の鼓膜の中に響いてきて、こめかみから腹部、ふくらはぎへと伝わり、その音のうねりに乗り、光とモーションと影が作り出す深海という未知なる奇妙さの中へ、私はより深く入り込む、観念上の像たるいくつもの層を通り抜け、夜の層を通り抜け、時折実体がなくなり、酸素はなく見知らぬ生物たちの輪郭をほのかに照らす、私はそれらを知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。私は完全な放心状態になりかけた、ある時点で目覚めたような気もするが、こんな感覚に襲われたことはかつてなかった。忘我?自失?無意識?いいや、何も見えない陰鬱さのなかを泳ぎ、海面上のあの光に到達することはできるのだろうか、見える、見える、全部見える、この感覚を私たちは遮断してはならないし、決してしてはならなかったのだ。得体のしれない海洋生物たちの狭間で、私は泣いた、無限のように感じる時間の中を泳ぎすべてはがらくたで埋まってしまったかのように、死たる海の幾つもの層を横切って、その中に永遠の死、そして沈黙という音色を見出したかのように、私は泣いた。
もののすべてを飛び越えて何かが変わっていくことを、私は悲しみを聴く、私は悲しみに問う、そして悲しみは絶対に答えない。この時間から見放されたような海中たる特殊な次元の中で、この唯一無比の視点、まっすぐなヴィジョン、やがて、「」へと到達するだろう。私たちはまるで眠りながらドライブしているような音に誘わられ、現実にいないような気分にさせられるのだ、ハーメルンの笛吹き男のように。さらに暗闇も手を貸して、泡に覆われ世界をかすませたので、それはぼんやりとして、非現実的に聞こえるのだ。現実には、これは何もない音声記号から構成されており、無限の虚空に存在する分子間の地場だ。冷ややかに海の底の冷たいあけすけな、そしてアーチに遠い放物線を飛翔する灰色の生物たちときたら、亡霊のように投じられた無惨ないきものたちときたら、得体のしれぬものに産み堕とされ、時に歓喜し時に絶望し時に沈黙に身を沈めた、そして、白痴のように放心状態になり、そうなのだ、この深海がもしかしたら、私の望んでいた静寂なのかもしれないと馬鹿げた夢想さえ抱かせるのだから。一切の優しさや感情、規律が失われ、この楽曲は空気の中で粒子になり崩れはじめ、解き放たれたように私には思えるのだった。束の間の優しさなんてもう、希望、温かさ、それらはすぐに肉体をすり抜けて通り過ぎていく、そこには無しかない。海の底に寂しさだけをのこして。そして、-951m、ときおりそこから一条の光が放たれる。強烈な光とそして怒り。届くはずがないのに、何故か、その旋律の瞬間に私の背後にある積み重なった死者たち、そしてあらゆる不幸が解放されたような錯覚に陥り、きっと私を導いてくれるに違いないと愚かにも夢見ること。しかし、音楽にそれ以上のことが出来るだろうか?深い海のように冷たく、澄んで見え、視線の遥か向こうの山に溶岩が飛び散り、火花が見え、燃え上がっている、あっちはどの方角なのだろうか?まるで分からない。それでも突き進む、この楽曲を地図として。私の今までの歩みは、一体どこへ向かっていたのか、私が全身で体感しているのは海の光景そのものではなく、何らかの集合体の意識、そして、それをリアルに描いた絵に近いと感じる、このためにすべての音がいささか奇妙に聴こえるのだ。海の外の音は何ひとつ本物には聴こえないのだから、私の想像が私にとっては本物で、マルゴー・オズワルドの楽曲が極めて緻密に構成された現実であると錯覚していたのかもしれない。身震いしつつも、恐れながらも、目眩がしながら、わたしは少しずつこの音楽を認識していった。今はそう、私は自分の耳でものを見ることができるし、感じることもできる、ここにだって「季節」はない、いつだって氷河期のようなものだ、時が止まったように深海は翳りに満ちて、その中で本当の音だけが聴こえる。そしてひとつの生命は心臓の鼓動を意識し、胸の内で力強く確然と生命を生み出した海の血液を循環させている。ある種の記憶喪失の状態でありながら、マルゴー・オズワルドの楽曲に全身を無防備に委ねること、そう、封印された苦しみから解放され、耳を傾け、意識という意識が、海の泡立つ流れに押し流される、涙が永遠を意味し囲まれたものを流し、この-237mから、-951mまで傷口のふちのようなあれらの音色と深海の意識がマルゴー・オズワルドの一つの秘密を指し示すだろう。


<参考>
Bandcamp のほか、ポルトガルのレーベル、Clean Feed の本作紹介ページでも試聴ができる:https://cleanfeed-records.com/product/dysphotic-zone/

原智広のプロフィールについては、彼がゲスト・コントリビューターとして寄稿した次の記事を参照頂きたい。
#2187 『Benoît Delbecq / The Weight of Light』‐ Benoît Delbecq(ブノワ・デルベック)の文体による調律法
https://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-78152/

岡崎凛

岡崎凛 Ring Okazaki 2000年頃から自分のブログなどに音楽記事を書く。その後スロヴァキアの音楽ファンとの交流をきっかけに中欧ジャズやフォークへの関心を強め、2014年にDU BOOKS「中央ヨーロッパ 現在進行形ミュージックシーン・ディスクガイド」でスロヴァキア、ハンガリー、チェコのアルバムを紹介。現在は関西の無料月刊ジャズ情報誌WAY OUT WESTで新譜を紹介中(月に2枚程度)。ピアノトリオ、フリージャズ、ブルースその他、あらゆる良盤に出会うのが楽しみです。

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