# 281 宝示戸亮二 ×リューダス・モツクーナス CD発売記念JAPANツアー
2010年9月21日(火) @新宿ピットイン
reported byMasanori Tada 多田雅範
photo (*) : 松尾宇人 (Ujin Matsuo) 提供:キャロサンプ
宝示戸亮二(ピアノ、ピアニカ他)
リューダス・モツクーナス(ソプラノ&テナー・サックス)
そして音楽はまた旅路につく。
中秋の名月の前日で、今夜は十三夜なのでね、そこを日本人は愛でるのよね、と、豆腐屋がレジで話している、シャケの粕漬けを買って、焼いてごはんを食べて、干してあるワイシャツをかぶって平和台の駅まで向かった午後7時10分、には、帰宅を急ぐOLやサラリーマンの背後に十三夜のお月さまが昇っていた、真夏日レコード対記録の夕暮れの東京、はだしにサンダルで副都心線一本で新宿ピットイン。自販機でコーラ。
宝示戸亮二(ほうじとりょうじ)のCD発売記念JAPANツアーへ。
00年に、衛星ラジオ「ミュージックバード」(来年7月に放送終了とのことだが)で聴いた宝示戸亮二のピアノ演奏に、ジャレットやブレイを感じた時と同じ聴覚映像を感じたものだった。『A MAN FORM THE EAST SERIES』3枚組ボックスからの選曲で、すかさず購入した(このボックスに収められている調律されていないピアノでのライブ録音のミニディスクには音楽の奇跡がある)。その後、雑誌の取材で札幌に飛んでお話をうかがい記事にする機会にも恵まれた。欧州即興の観賞文脈で耳にするものではないような気がする。それは、ユーラシアから北海道につらなる過去の土地の精霊の呼び声なのではないだろうか。あれから、10年。
リューダス・モツクーナスLiudas Mockunas、リトアニアのサックス奏者とのデュオ。
結論から言いたい。モツクーナスのサックスは、マーク・ターナーのソロを聴き続けたいのと同じくらい、聴きたいものだ。語法も文脈も奏法にも共通性は無い。ニューヨークには居ない。当たり前か。ライブの前半の1曲目の後半。くぐもりながら、微細なコントロールで豪放な輻輳する響きを、まるで彼方から、ECM越境ヴァイオリニスト、パウル・ギーガーの『アルプスタイン』をそのまま演っていたとおれには思えた、繰り返しの音列が伸縮して繰り出されてまるでインド音楽のようでもあり、瞑想の祈りのようでもあり。
宝示戸さんのピアノ、プリペアド、リコーダーなどの演奏は、より自由度を増したもの、デュオのコンビネーションも理想的なもので、演奏によってほんとうに開放された。二人の演奏に、意識は旅に連れ出されたようだった。美しいピアノ旋律も、片鱗を見せるやり方ではなく正面から自然に放っているもので、何というか前衛がひとめぐりする時間がこの美しさを育んだ、と、そのように感じた。
また、時にモツクーナスはサックスを天井から足元まで、左右上下にぶんぶん振り回していたのだった。目を閉じて聴いていたら、サウンドスケープがぐるぐる回り出したり、遠近でめまいがしそうになったりする。こういう奏法は、ふつうのサックス奏者はやらない。そんな演奏の文法なぞ問題にしていないのであった。この豪放さ、もまた、アメリカのジャズとは共約しないユーラシアの土壌なのだろう。
リトアニア、ヴィリニウス市在住のサックス/クラリネット奏者および作曲家、8歳からジャズの演奏を始め、12歳でウラジミール・チェカシン(旧ソ連で初めてフリー・ジャズを演奏したサックス奏者)率いる”Youth Jazz Ensemble”のメンバーとしてデビュー。デンマークの”Jazz Discovery of the Year 2004″をはじめ、ヨーロッパで数々の賞を受賞している。これまでの共演者に、マッツ・グスタフソン、マルク・デュクレ、ステファン・パスボーグ、マッツ・アイレットセン、アンドリュー・ヒルなど。
おお。ウラジミール・チェカシンの弟子。
そうか、リトアニアというと、映画監督のジョナス・メカスや、リトアニア日本領事の杉浦千畝を思い出すのが普通か。え?北欧?たしかに近い。CDのチラシに沼山良明さん(NMA)は書いている「北欧の音楽特有の透明感と深遠さに高度なテクニックを駆使したリューダスのサックスは、1970年代初頭に衝撃を受けたECMサウンドを、時を超えて現代に進化させたのでは?と勝手に錯覚するくらいの好感度だ」。
そう、CDについて。
thursday / Liudas Mockunas & Ryoji Hojito from 『vacation music』 (NoBuisiness Records NBCD 19) 2010
http://nobusinessrecords.com/mockunas-hojito.html
ライブ録音した教会の残響が演奏を特別なものにしているようだ。最初の3曲が06年リトアニア作曲家協会のスタジオ・セッションから、4曲が07年ヴィリニュス市聖カテリーナ教会でのライブ録音。
美しくもあり、ソリッドで厳しくもあり、何よりも自由であり、外に連れ出す音楽である。
ジャレットやブレイの名をここで書くのは宝示戸さんは嫌がるだろうと思う。70年代に飛び出たインプロヴァイズド・ソロ・ピアノの行方は、誰も描けないでいた。生々しく、冒険的で、出会うような美しさが連なり、そのような旅路を描くピアノ演奏がここにはある。ジャレットよりブレイが上位であり、この二人の上位に宝示戸亮二がある。すごいこと書いたが、言い切るぞ。そして、宝示戸がモツクーナスが放つ様々な響きの横溢、その連続、これは、何の反響だろうか。ラストの「saturday」のエンディングなんて、まるでペット・サウンズのように遠く意識の果てへ消えてゆくようで切ない。
ぶっちゃけ。インプロ盤をこんなに夢中になって聴くのはドネダ~斎藤『春の旅01』以来だろうし、インプロ盤、と、こう名指していることにすら限界を感じるものだ。
このCD聴きながら、おびただしい数のECM盤で採集していたフォークの残響みたいなもの、デモーニッシュな彼方の響き、それらのレア(生)なものががんがん耳に到来していたりもする。その意味で。北欧性はおれは思わないが、沼山良明さんが書く「ECMサウンドを、時を超えて現代に進化させたのでは?」は実に共感する。いや、今のECMにはこれは録れない。ECMをネタに書いているのは、このCDに出会って良かったなオマエ、と、自分に向かって肩を叩いていることでもある。
この演奏は、旅なのだ。宝示戸亮二はすごいサックス奏者を連れてきてライブをしたが、このCDにも最上級の賛辞を送る。
このリトアニア出身のサックス奏者の名前は、「モツ、喰う、茄子」と憶えよう。
「ジャレットが70年代にだけ見せた片鱗、や、ブレイのインプロヴァイズのもうひとつの可能性、を、現在の宝示戸亮二は携えている。それも、彼の音楽の一部として。」
*初出:Jazz Tokyo # 149 (2010年10月1日)