#849 アンリ・バルダ ピアノ・リサイタル
2015年9月26日(土) 浜離宮朝日ホール
Reported by 伏谷佳代 Kayo Fushiya
アンリ・バルダ (Henri Barda): ピアノ
《プログラム》
ブラームス:
3つの間奏曲op.117
ブラームス:
6つの小品op.118
ラヴェル:
夜のギャスパール
ショパン:
即興曲op29-1変イ長調
ワルツop.70-2ヘ短調
マズルカop.56-2ハ長調
マズルカop.59-3嬰ハ短調
マズルカop.41-1嬰ハ短調
マズルカop.63-2ヘ短調
マズルカop.63-3嬰ハ短調
ワルツop.64-3変イ長調
ワルツop.42変イ長調
*アンコール
ショパン:
マズルカop.7-3ヘ短調
ノクターン第9番op.32-1
ノクターン第15番op.55-1
クラシックの歴史の「今」を担う、無二のステージ力
3年ぶりにアンリ・バルダを聴いた。初めてバルダを聴いたとき「音から風景が見える」という興奮が身体を突き抜けた。情報化社会にあっては失われて久しいエキゾチズム、たかだか200年に満たない欧米化では逆さになっても太刀打ちできぬ圧倒的な優雅、など。前時代的な感慨など笑われるかもしれないが、クラシックという文脈では多少芝居がかりすぎていると評されかねないバルダのステージ・パフォーマンスは、クラシカルであると同時に否応もなくアヴァンギャルドである。クラシック音楽はバルダのような存在にかかってこそ、長きにわたるその歴史を一気に現代にまで繋ぎ、花開くのだ。
プログラムはロマン派以降で占められ、しかもトリはショパンの即興曲・ワルツ・マズルカから数曲をメドレーのように演奏。曲目も発表されない、というショパン時代のサロンの風習を模した、多分に即興的な趣向である。バルダの個性をもっとも贅沢に堪能できるプログラムといってよいだろう。
前半はブラームスの間奏曲が続く。窒息しそうなほどのエナジーの奔流により、スコアに託されたブラームスの思いが、その夥しい音数そのままに押し寄せてくる。バルダの演奏は総じてペダリングが多めで甘く、強音は固く垂直的だ。細部を器用に弾き分けるタイプのピアニストからみれば、なんと大雑把でマッチョな演奏と映るかもしれない。しかし、そうした意見を抑えこんでしまうだけの説得力はどこから来るのか。やはり卓越したメロディストとしてのセンス(物語構成力、ともいえる)、天性ともいえる身体の瞬発力、というほかない。長年のキャリアや楽曲の弾き込みと熟成を超えたところに、他のクラシック・ピアニストが及ばないバルダの真骨頂がある。その場のフィーリング、即興的要素をかなりの割合で取り込むのだ。いま、この場で、どの音が重要か—そうした瞬時の判断が、ペダリングによる激甘な響きのなかにも、馥郁として錯綜したニュアンスを封じこめることになる。実際、今回のブラームスでも、「静と動のコントラスト」などといった紋切り型の感想を寄せ付けないほど、エナジーの激流は突如として静謐な憂いに沈む。その極端な推移が何と自然で説得力に満ちていることか。バルダ・マジックである。
思えば、音を響きの流れに添ってまっすぐに放出するのではなく、直角に抑えこむようなスタイルのバルダの打鍵は、その無骨さゆえ、楽曲の構造をより浮き彫りにし、聴き手にも意識させる。だからこそ、そこに彼の天衣無縫な即興性が加わったとき、楽曲が内側から切り開かれていくような開放感と陶酔を聴き手は覚えるのではないか。ラヴェル作品では、これらの相乗効果が顕著であった。締めの残響も、楽曲ごとに鮮烈な個性を放つ。ここまで残響がフォーカスされると、曲間それ自体が語り始め、結果として物語全体はより大きなドライヴにうねる。
最後のショパンを迎えるころには、聴衆はすっかりバルダの世界に嵌りこんでいる。同時代の音楽としてショパンが息を吹き返す。畳みかけるようなリズム、有無を言わせず聴き手の心をすっかり奪い取る、怒涛のようなエナジーとロマンティシズム。ワルツでの大胆な足鳴らしもご法度などとは言わせまい。なぜなら、ここはショパンが憑依したバルダのサロンなのだから。(*文中敬称略)