#1169 ねむれない夜 – 高橋悠治ソングブックCD発売コンサート
2021年7月8日(木)東京オペラシティ リサイタルホール
Reported by Kayo Fushiya 伏谷佳代
出演:
高橋悠治(作曲・ピアノ)
波多野睦美(歌)
栃尾克樹(バリトンサクソフォ―ン)賛助出演
プログラム:
「僕は12歳」より 詩:岡真史
みちでバッタリ(戸島美喜夫編曲)
ゴットン・ゴロン(戸島美喜夫編曲)
へや/ちっこい家
リンゴ
あらけずりに
「戯れ言の自由」 詩:平田俊子
落下
寒い春
ゆれるな
カデンツァ
貝殻
「旅立ちながら~森崎和江3篇」 詩:森崎和江
雨/笛/旅ゆくところ
「民衆に訴える」 詩:シューベルト *サックスソロ
「ふりむん経文集」より 詩:干刈あがた(浅井和枝)
般若の経
四季障子巡礼ごえいか
今日の経(いつかゆきたい)
「ぼくは12歳」より 詩:岡真史
ねむれない夜
ひとり/ぼくはしなない(戸島美喜夫編曲)
作曲家自身がピアノを弾くということ
岡真史の世界に触れたのは実に久しぶりである。「小窓から」、「りんご」、「みちでバッタリ」― 初めて聴いたのはいずれも矢野顕子のプレイによるものだが、強烈に脳裡に焼きついていた。
12歳で飛び降り自殺した少年の、ピュアすぎるがゆえにもはや成熟と紙一重の完成度。
意図しないことが生む空恐ろしさ
高橋悠治のメロディに乗ることで、それらは素の世界観を真空パックのように保ったまま、より多くの人々へ届いたといえる。
この日の嬉しいサプライズは、平田俊子の登壇である。「なぜ詩を創るか」という問いの答えが「ひとつの完結した言葉が連なることで別の流れが生まれるのが楽しい」であった。それは言葉の境界を越え、音にも当て嵌まる。言葉の羅列は、リズムや音と化すことでメロディのように脳裡に刻まれる。プログラムの終曲にある「ねむれないよる」をもじり、平田がこの日のために書いた「ねむれないサル」の朗読でも、意味を捩(よじ)られた言葉たちがリズムと共振し合いバブルのように増幅していく場に立ち会った。宝石箱をひっくり返したような、思いがけない珠玉の瞬間が連続する。
思えば、高橋(ピアノ)・波多野(メゾソプラノ)・栃尾(バリトンサックス)による『風ぐるま』という変則トリオは、その生成そのものが「言葉と音によるあらゆるパターンの換骨奪胎の試み」なのだ。詩を発話してゆくという、ともすれば平凡な歌曲集とも成りかねない際(きわ)で保たれる格別感の元を探れば、それは「言葉が言葉として結実する前のエモーショナルな部分にフォーカスされていること」に行きつくのか。
歌曲が必ずしも言葉でなぞられる必要はない。シューベルトの「民衆に訴える」を歌う栃尾のソロはその体現であるし、実際、栃尾のバリトンサックスほど生々しく肉声を感じる演奏もない。名画が空気の動きを捉えるのと同様、その音が濃厚に孕(はら)む「湿度」は、明確な言葉では含み切れない複合的な感情を伝える。メタリックな楽器の属性をも超えるのだ。
「本質をありのままに捉えること」と「表現者が表現者自身であること」―そのふたつを『風ぐるま』のステージはいつも衒(てら)いなく、かつ濃厚にたたえている。
前述の平田俊子と高橋悠治の対話の続き。「作曲家というとピアノの前で苦悶するイメージがあるが、実は作曲するときにいつもピアノの前にいるわけではない。実際最近はコンピュータで作曲することが多い。消しくずも出ないし(笑)」とは作曲家の弁。ユーモアでぼかしつつも、書いては消すという手触りの捨てがたさにも触れる。この手触り=アナログ感が、高橋悠治のピアノの琴線でもある。事実、コンサート・ピアニストがバリバリ弾きこなしたとしたら、魅力が半減しかねない音楽なのだ。逡巡する指先は、ちょっとした沈黙や寡音であったりするほどに、その陰の濃さを伝える。スコアを問診し、内側から探ってゆくようなアプローチ。目の前でピアノを弾いているのが他ならぬ作曲家自身である、という手応え。卓越した演奏家である波多野のヴォイスも、「うた」の多義性(詩と歌と唄)の狭間を自在に行き来する。ふとした瞬間にぞくっとするほどの深淵が覗いたりするのだが、それが限りなく自然体に、ときに乾いた明るさで映える。
「ぼくはしなない。なぜならぼく自身であるから」―ラストの岡真史の言葉が、演者たちの肉体を借りて、力づよく現前したのである。(*文中敬称略)
関連リンク;
http://suigyu.com/yuji_takahashi/
http://hatanomutsumi.com/
https://ktochio.com/
http://twilog.org/hiratatoshiko