#1245 【コンポステラ〜星の広場で(Fiesta de Compostela)vol.2】
~篠田昌已没後30年~ 2days
text by Shuhei Hosokawa 細川周平
2022年12月7日 & 12月8日 吉祥寺Star Pine’s Café
12月7日(水)
【チンドン有志】高田洋介(東京チンドン倶楽部)、中尾勘二、大熊ワタル、こぐれみわぞう他
【of Tropique】近藤哲平 (cl) 田名網大介 (b) 藤田両 (ds) 小林ムツミ (perc)
【大熊ワタル(cl)×大友良英(g)×原田依幸(pf)×不破大輔(b)】
【佐藤幸雄とわたしたち】佐藤幸雄 (vo,g) POP鈴木(ds)玉川裕高(g)
【ジンタらムータ】大熊ワタル(cl)こぐれみわぞう(チンドン)関島種彦(vl,mand)川口義之(sax)桜井芳樹(g)中尾勘二(ds)
【篠田セッション】ジンタらムータ+香村かをり(韓国打楽器)リュウセイオー龍(踊り)etc.
12月8日(木)
【EPPAI(イッペイ)】
【杉林恭雄】(弾き語り)
【小山景子】(弾き語り)
【近藤達郎(kb)×清水一登(kb)】
【Strada】中尾勘二(sax,kl) 桜井芳樹(g)
【篠田セッション】Strada +梅津和時(sax)西村卓也(b)etc.
【MC】田中美登里(ラジオパーソナリティー)※両日とも
篠田昌已への思いあふれて―30年の不在と記憶
君が生きていれば64歳、サックス奏者篠田昌已(1958-1992)が34歳で急逝して30年、ちょうど一世がすぎたのかと強い感慨に襲われる二日間だった。友人関係では生まれて初めての葬儀でうろたえた。若い参列者も皆同じで、天へのみやげものが膨大な量になって、柩の蓋がしにくいほどだったのをあるギタリストは覚えていた。私には彼のパートナーがしのちゃんと泣き叫びながら、お棺にしがみついていたのが、何よりも忘れられない。彼の命日(12月9日)と誕生日(12月8日)に合わせた30周忌に、協演した楽士と、後から知った若い世代合わせて20数名が、大熊ワタルの呼びかけで集まった。彼は篠田生誕50年祭を前に企画した実績を持ち、敬慕をかたちにする行動力の主だ。初めて名前を知る若手(たとえばof Tropique、Eppai〔イッペイ〕)に、何かしら篠田流が伝わっているのを聴けたのは頼もしかったが、レトロ爺さんの感慨の中心があの頃を共有する世代との再会にあったことは隠さない。あいつのいつもの黒メガネに、ブラックホールのように各自の思いが吸い込まれたかのようだ。ふだん隠れている記憶を呼び起こし、それを共有する者で集まると、否応なく不在を思い起こし、自分が今どうしているのか考え直すきっかけとなる。それが追悼の意味で、その意義は時のたつのとともに大きくなる。老化、この言葉がいやなら「労化」と呼んでもよい。若い衆はやりにくかったに違いない。
篠田昌已とは誰だったのか。佐藤幸雄(当時すきすきスウィッチ、初日に「わたしたち」という現在のバンドで出演)は、「イージーリスニングでないインストもの」と「ヴォーカル抜きの歌もの」の創始者とうまくまとめた。サックスといえばそれまでフリーも含めてジャズか、社交ダンス物(イージーリスニング)に限定されていたのを、篠田はその外、インディーズ、マイナー、アンダーグラウンドなどと呼ばれていた場面に連れ出した。そこではアフロアメリカの流れともユーロアメリカの流れとも違う、ビートもテクノも同性愛も即興も暴力もダンスも劇も前衛も政治意識もごちゃまぜにした連中が離合集散していた。80年代末、ヴォーカリストつきのロック・ベースのニューウェイヴ系バンドからさらにはみだし、類のないインスト物に主力を注ぐようになったのを佐藤の要約は指している。晩年のチューバと管楽器のトリオ、コンポステラはその明快な例で、楽隊を土台にこんなことができると、そのきっかけだけを示して彼は去っていった。
そのコンポステラのメンバーで、コロナ感染のため無念の不参加に泣いた関島岳郎は、楽譜に書き表せない部分をコンポステラで学び、自分の出す音はいつでも篠田に影響されているとメッセージを送ってきた。別の出演者はフリージャズの「俺がやる」的に個人性の刃を競うのではない、「一緒にやる」、協調の人だったと強く語っていた。楽器を超えて感化する懐の深さがあったからこそ、こうして追悼の祭りに演る人聴く人が集まった。篠田の協調性はバイトとして始めたチンドン屋に負うところが大きいだろう。江戸アケミのじゃがたらで数年彼と一緒だったOTOは、今回の記念本のなかで「頭の芯から内臓の奥深くまで貫くような沁みる音」と呼んでいる。至言と思う(大熊編『サックス吹き・篠田昌已読本』共和国*)。
チンドン屋に雇われた貧乏楽士は少なくなかったに違いない。しかしそこに本業の演奏活動にはない潜在力を発見したのが篠田だった。ヴォーカルや即興中心のジャズやクラブのバンドとは逆に、チンドン屋の基本は鳴り物先行で節づけは添え物で、管楽器は出しゃばってはいけない。客がわざわざ聴きに来る、周囲を守られたステージとは正反対のストリートに時間給で呼ばれ、通行人の注意を一瞬受けつつ、通り過ぎれば忘れられ、街角の雑音に溶け込んでいる。曲の大半は何十年か前の懐メロで、唄心がなければ面白くない。ブローでも音階練習でもいけない。そこに彼は打ちのめされた。空気のように吹きたいと語っていた。こんなにすごい演奏が誰からも無視されて廃れかけていた。私も彼のチンドン屋とバンドを追いかけたことで、音楽観が変わった。ガクシャ業にも他の博士連、楽士連とは違うかたちで影響(影+響)したと思う。
「コンポステラの祭り」初日は大熊ワタル、こぐれみわぞうらチンドン有志の賑やかしで開幕。この二人を中心にジンタらムータは、チンドンにクレズマーを混ぜ込んだ中所帯発展形のバンドで、後半にはリュウセイオー龍の踊り、香村かをりの韓国打楽器などが加わり、お祭り気分を高めつつ、最後に人気の高いクレズマーのスタンダード「生き生きと幸せに」で一日目を閉めた。二日目後半のストラーダはコンポステラを基本にギター、ドラムスを加えたやはりクレヅマーがかりのバンドで、晩年よく競演していた西村卓也が関島のチューバ代役でベースを弾いたので、いつもと違うサウンドだった。融通が利くのを耳のあたりにした。フリージャズに近かったころからの仲間(大友良英、原田依幸、不破大輔)に大熊が加わった初日のインプロ四人組は、二日間のなかでは「若い頃」を代表するように聴こえた。やはり若いうちからの仲間、近藤達郎と清水一登の鍵盤デュオでは、篠田のオリジナル数曲をバラバラフレーズ(パラフレーズ+解体)して、知っている町から知らない町に迷い込むような音の旅を演出した。二人の深い敬意あっての道なり展開と聴こえた。
二日目のラスト・セッションに加わった梅津和時は、演奏前に天を指差し、人の気を追悼に集めた。トークによると、篠田少年とジャズ喫茶で初めて出会い、サックスを勧め、生活向上委員会に呼び入れたいわばミュージシャン生みの親で、音楽界では誰よりも長いつき合いだった。アンコールは篠田の最晩年のオリジナル「コンサルタント・マーチ」で、今ではチンドン屋の定番だそうで、話に聞くニューオーリンズの葬列もかくあらんと盛り上がった。ついでながら、会場BGMでは、篠田が新出発を目指したアルバム『コンポステラ』(1990)をかけ放しだったが、出演者のひとことになるとロシア革命歌「同志は斃れぬ」とビクトル・ハラの農民歌「耕す者への祈り」が、まるで仕組んだかのように当たって、鎮魂歌のように繰り返された。天のいたずらかも、と司会の大熊が笑っていた。
見慣れているプレイヤーからは、30数年前の姿が蘇り妙に感傷的になってぐっときた。その一方で、ずっと遠ざかり、見て聴いているうちにやっとパフォーマンスと顔がつながることもあった。最近では葬儀に行き慣れ、この種の面影復活はよく経験する。月並みな感想だが、顔と同じように声やサウンドにも変わる部分と変わらない部分があり、最終的には変わらない「らしさ」を聴いていると思う。熟成といえば保守的と以前は嫌っていたものだが、年ごろに応じた「らしさ」しかないんじゃないかと、時の流れをことさら意識させる催しで考え直した。自分の「らしさ」の一部が、度合いと内容はいろいろあれ、円熟を知らず人なつこい笑顔とともに去っていった同志に負っていると認める連中が集まる祭りだった。別のかたちで感化された者として、追悼の時間を一緒にすごせたことを幸せと思った。
12月7日には、上述の【コンポステラ〜星の広場で(Fiesta de Compostela)vol.2】と題したライヴの他に、大熊ワタル編『我方他方 サックス吹き・篠田昌已読本』(共和国)が刊行された(書店販売は12月15日)。2008年にごく限られた部数のみ発行された冊子『コンポステラ★星の広場で』(2008年)を増補・再構成し、新たに発掘された篠田昌已インタビューも収録。交流のあったミュージシャンだけではなく、町田康、細川周平、平井玄ら多方面で活躍する50数名が寄稿している。