Jazz and Far Beyond
私は声にしなければならない。
「いでよ、今一人の異端者!今一人のセシル・テイラー!」
ベルリンで接したテイラーはリラックスして自然体だった。周囲に彼の音楽の理解者が多くいるベルリンの空気に馴染んでいたのかもしれない。偉大なるモダニストの死に、心から哀悼の誠を捧げたい。
そんなセシルが帰国する直前、出来たらもう一度日本へ来たいし、住んでもみたいと語ったのは、決して外交辞令的な発言ではなく、半ば本心だったのではないかと私は思っている。
セシル・テイラー89歳にて逝く。この文字をインターネットの画面で読んで「ついに」の感にまず襲われた。彼の存在はぼくには特別だった。
セロニアスに似て、全く誰のようでもない「間」。デュークに似て、壮大なオーケストレイション。そして、すぐれてパーカッシヴでありながらも、誰よりもよく「うたう」のがセシル・テイラーというわけです。
他界してしまったセシル・テイラー。彼がライフ・ワークとしたフリーインプロビゼーションではなく、彼のデビューアルバムからオリジナルのブルース曲を取り上げた。分析して初めてセシルのヴォイシングがコード進行に忠実だったことを発見、また、セシルが曲のフォームをいかに尊重していたかなどに焦点をあててみた。
ここ数年セシルに会いたいと思ってきたけど、果たせなかった。そして、彼は逝ってしまった…。
Above three in Rav
Yes, that is a big loss!
これまでに何人もの偉大なジャズ・ピアニストを体感して来たが、セシル・テイラー以上にエレガントなパフォーマンスをする人はいなかった。
セシルも富樫さんももうこの世にはいないけれど、地球の自然に捧げた祈りは、続いていかなければ。
ピアノに向かわれるやいなや、お香を焚かれた。
1973年5月22日セシル・テイラー・ユニット@新宿厚生年金会館大ホール。アキサキラ(サワヒリ語で沸騰するの意)を捉えたトリオレコード営業部のアマチュア・カメラマン石井隆の遺作展。
70年代のセシルの音楽には、都節(みやこぶし)音階という日本の音階がふんだんにでてきます。(中略)あれだけ強烈に自在に弾き倒しておいて、最後が能楽の「音取り」のようになって終わる。おおっ!と思いましたね。
私たちはセシル・テイラーの音楽をどう聴けばよいのか。トニー・オクスレーはかつてこう言った。「セシルの音楽をモダーン・ミュージックのように決してシリアスに捉える必要はない。とても自由でエナジーに満ちていて、僕は演奏していてもとても楽しい」。そして付け加えた。「ただココロを開いて聴けばいいのだ」と。
セシル・テイラーはエリントン同様に音楽家として屹立した存在だ。今回再びそのステージを観て、彼が追求してきたのは、あくまでもパーソナルな音楽であり、世界だということを強く感じたのである。
セシル・テイラーの場合、ダンスや所作がセシルにまつわるあらゆることと無関係でなくなってくる。
フリージャズ・ファンのアメリカ人コレクターを経由して入手したセシル・テイラーの海賊版。1983年のスイス、ヴィリザウでのライヴ録音だ。
「セ~シル・テイラー・ユ~ニット!!」。レコードに針を下ろすといきなりMCの絶叫する声が耳に飛び込んでくる。悠 雅彦氏の壮年の声である。そして、その声にかぶるようにしてピアノが、アルトサックスが、そして、ドラムスが雪崩を打って出てくる。
終始すべてを見透かしているかのように演奏を引っ張っていたのはセシル・テイラーだったことは否めない。それでも、異なる個性がぶつかり合い、二台のピアノがシンクロし、共鳴しする醍醐味は、この二人の共演ならではの出来事だったといえる。