ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #35 Randy Weston <African Village Bedford-Stuyvesant>
今月9月1日にランディ・ウェストンが92歳で他界した。お恥ずかしながら筆者は全くと言っていいほどランディ・ウェストンを聴いていなかった。その理由は、彼はアフリカ音楽に焦点を置くジャズミュージシャンとして知られており、実は筆者はアフリカ音楽に馴染みがなく、というか、興味が湧くチャンスに恵まれなかったので、ランディ・ウェストンは食わず嫌いの類であった。

もちろんウェストンの名曲、<Hi-Fly>はジャムセッションでよく演奏したが、原曲が聴きたくて購入した『African Rhythm』を聴いてえらく困惑したのを覚えている。筆者の乏しい知識からのアフリカ音楽の印象は、主にコラという楽器に代表される西アフリカ音楽で、アメリカで耳にするアフリカのバンドは、ストラトキャスターでこのコラのフレーズをガンガン演奏するものであった。それに対してウェストンが作編曲する彼のアルバムはどれも筆者の知っているアフリカとは程遠いものがあるのだ。彼はジャズのスタンダード的なコード進行や、ブルースを多く演奏し、リズムパターンはアフロ・キューバン系、タイム感はむしろジャズ・ラテン系なのだ。

コラのことを調べていたら、Sona Jobarteh(ソナ・ジョバーテ)という英国人コラ奏者に出会った。あまりすごいのでもし興味があれば是非一度お聴き頂きたいと思う。この動画では西アフリカのタイム感が容易に感じ取られる。YouTube →
筆者にとってのアフリカ音楽
周知の通りアフリカ音楽は奴隷制により世界中の黒人音楽の基盤となる。アメリカ音楽や中南米音楽は奴隷によってもたらされたアフリカ音楽なしでは成立していない。だからウェストンが主張するようにジャズの源を辿ってアフリカ音楽に到達するのは理に叶っているのだが、筆者がいつも強調しているタイム感という点ではあまり共通点があるとは思えない。筆者の知っているアフリカ音楽は、アフリカの原住民達が広大な自然の中で音楽に合わせて垂直にジャンプするあのハッピーな明るいタイム感で、アメリカの黒人が話す言葉のスイングするタイム感から発生するアメリカ黒人音楽や、ブラジルのポルトガル語のタイム感から発生するビハインドなタイム感のブラジル音楽や、攻撃的なスペイン語のタイム感から発生する喰い付くようなタイム感のラテン音楽など、アフリカ音楽のタイム感からはかなり距離があると思っている。唯一共通性を感じられるのは、カリブ音楽やレゲェなどのウエスト・インディア音楽だと思う。筆者は2度ジャマイカのキングストンに招聘され、ウェイラーズのメンバー達と国が主催する音楽祭に出演させて頂いたことがある。その時共演したドラマーのスネアはアフリカ音楽のように垂直にビートが飛び、あたかも緑色の魔法の光が跳ね上がるようだった。これはリハーサル中のことだったので、ステージの照明のせいではない。幻想を見たわけだが、酒やくすりや葉っぱなどにアレルギー反応を起こす筆者はラリっていたわけではない。ほんとうに緑の魔法の光がスネアから跳ね上がっている幻想を見たのであった。そのグルーヴ感はアメリカやブラジルでは味わえないものだったのを今でもはっきり覚えている。
それにしても筆者はアフリカ音楽のことを知らなすぎるのだ。実は今回もウェストンを題材にしようとは思っていなかった。昨夜9月30日に久しぶりにパット・メセニーのライブに出かけることになっていたので、メセニーの新しいユニットでも取り上げようと考えていたのだが、なんとどこにも情報が見当たらなかったのだ。それもそのはず、今回のメセニーのこのツアーは、自分でも新しい試みと言っていたが、昔のメセニーの曲のオンパレードだった。ポップスター並みに昔のヒット曲の懐メロ企画で意外だったが、ソロギターで早い入れ替わりのメドレーを披露したり、バンドの編曲はどれも新しく、メセニー自身も3度抜きの#11コードやマイナー♭6コードを短9度でぶつけるなど、新鮮で奇抜なヴォイシングを披露し書きたい題材は豊富だった。だが、如何せんこの企画でのアルバムがリリースされていない。困った挙句にウェストン1991年作の『The Spirits of Our Ancestors』を入手してみて、このアルバムは面白いと思うに至った。このアルバムを選んだ理由は、グラミーにノミネートされており、またモロッコのグナワ音楽のミュージシャンを迎えているからだ。この北アフリカの音楽に触れて見れば自分が聴いたことのある西アフリカ音楽との違いがわかり、ウェストンの目指していたものに触れることができるかも知れないと思ったのだ。但し、アルバム全曲を聴いてわかったのだが、このアルバムもやはりいつものウェストン的ラテンっぽいジャズ作品で、筆者が聴く限りモロッコ色が出ているのは2枚組1枚目4曲目の<La Elaha-Ella Alla / Morad Allah>と、2枚目3曲目の<Blue Moses>のみである。しかも前者はYassir Chadly(発音はヤサー・チャドリーだろうか)が演奏するモロッコ楽器、Sintir(フランス語読みでサンティールかは確認取れず、日本ではギンブリ名が普及)と歌がフィーチャーされており、ピアノは入っていない。ウェストンはこの曲ではクレジットもされていないのだ。

ランディ・ウェストン

ウェストンは『African Rhythms: The Autobiography of Randy Weston』という自叙伝を書いており、是非これを読んでみたいと思ったが、今からでは間に合わないのが非常に残念だ。しかし調べてみると彼はやはり1967年から5年間モロッコに住んでいたようだ。だからウェストンはモロッコ音楽の影響を強く受けているのかと考えたが、そうでもないらしい。アラブ音楽のスケールやリズムなどあまりにも奥が深くて、この短時間に調べようもないのだが、モロッコのグナワ音楽の音階だけは1-2-4-5-6のペンタトニックということだけは分かった。今回聴きあさったウェストンのアルバムの数々からこのようなスケールが使われている曲には出会わなかった。いや、待てよ。モロッコって、アフリカ大陸にあるがアフリカ文化を象徴するのだろうか。むしろ中近東文化ではないのか。ますます自分の無知さを思い知らされる。
ここに来てようやっとウェストンのインタビュー記事に出会った(リンク→)。2003年、ウェストン77歳。ようやっと彼の考えが分かった。彼はジャズの起源がアフリカ音楽と言っているのではない。ジャズ自体をアフリカ音楽と言っているのだ。彼はこのアメリカでよく出会う、人種問題に対する怒りを隠さない黒人の一人で、この地球の文化は全てアフリカから始まった。文化は音楽無しには成立しない。だからこの世の中全ての音楽はアフリカから生まれた、と唱える。彼の父親は彼が子供の時から「お前はアメリカで生まれたアフリカ人だ。そのことを忘れてはいけない。」と教え続け、彼はアフリカの文化や歴史について深く勉強し続けたと語る。これでウェストンの音楽から筆者の考えるアフリカ音楽が聞こえてこない理由が判った、が、さて困ったぞ。彼の主張にはかなり無理があると思う。現在確認されている古代文化、メソポタミア、インカ、マヤ、ギリシャ、ペルシャ、中国などの中のアフリカ大陸の文化はエジプトとエチオピアだけだと思う。どちらも北アフリカで、北アフリカは総じてイスラム教を基盤に栄えた。奴隷として連れ去られたアフリカ人たちはサハラ砂漠より南の地域からで、砂漠に切断されていたため北アフリカ文化とは全く接点がなかったと理解する。文化的にも小さないくつもの部族が自分たちの習わしを重んじたために発展していない。もちろんジャズのリズムは北アフリカのイスラム教を基盤にした音楽とは程遠く、むしろサハラ砂漠南側の部族が生み出したリズムに影響を受けているのはその通りだ。だが、地球上全ての音楽がアフリカ音楽から生まれていると主張するのはどうにも無理があるだろう。
ウェストンの演奏スタイル
モンクに強く影響を受けたと自称するウェストンだが、筆者が初めて彼のアルバムを聴いた時の印象はウィントン・ケリーだった。一つ一つの音を切り離してビハインド・ザ・ビートのグルーヴ感を出すやり方が共通する。蛇足だがビル・エバンスもこの奏法を継承する。今回読んだウェストンのインタビューで知ったのだが、なんとウェストンとケリーはいとこ同士だったそうで、子供の時一緒に教会に行って彼はケリーの演奏を聴き続けたそうだ。また、ニューヨークで生まれ育ったので、たくさんの大物ジャズ・ミュージシャンの中で育ち、モンクを見た時にアフリカを強く感じて3年間付きまとったと語る。だが、筆者にはどうも今ひとつ彼のピアノスタイルにのめり込めないでいる。今回急いで色々なアルバムを聴いてみて、どのアルバムでも気になってしまう部分に妨害されるのである。ガンガンにグルーヴしているかと思えば急に外してしまったり、バンドのタイムが合っていなかったり、チューニングが合っていなかったり。その反面彼のオリジナル曲はどれも聴きやすいジャズ・チューンで、しかもオーケストレーションが素晴らしい。調べてみると、彼の長年のコラボレーターである女流トロンボーン奏者兼アレンジャーのMelba Liston(メルバ・リストン)の名前が浮かび上がって来た。将来是非彼女を題材に取り上げてみたいと思う。彼女はディジー・ギレスピ(編集部注:ディジー・ガレスピー)やクインシー・ジョーンズのアレンジなどを数多く手がけているのだ。
『The Spirits of Our Ancestors』
前述の通りこのアルバムは1991年作品だ。80年代にほぼ活動停止し、90年に入り一挙に活動再開した第1作に当たる、2枚組の意欲作だ。このアルバムには以前のウェストンのジャズアルバムの収録曲と毛色の違った曲が数曲収録されている。前述のモロッコの曲、<La Elaha-Ella Alla / Morad Allah>の他に1枚目2曲目、<The Healers>はリストンによるアレンジで、非常に美しいく力強い構成のジャンルを超えた曲だ。1枚目3曲目はこのアルバムの20年前にリリースされたウェストンの<African Cookbook>で、アフロキューバンにアフリカ色を加えたような曲だが、このアルバムでのリストンのアレンジはもっとはっきりとジャズ色を強調しているだけでなく、オリジナルより方向性がはっきりしていて筆者にはこちらの方が楽しめる。この2曲、どちらもベースが2本なのが奇抜だ。タイム感の干渉も上手に考慮されている。後者のテナーソロバトルはビリー・ハーパー、ファラオ・サンダース、デューイ・レッドマンの3人で行われ、これはかなりすごい。残念なのはアンサンブルがやはりよろしくない。ウェストンのアンサンブルでよく気になるのがチューニングだ。これではリストンのお洒落なアレンジが台無しになってしまう。そして2枚目3曲目の<Blue Moses>はコンボの曲で、かなりモロッコ色と思えるサウンドになっており、なんとファラオ・サンダースがバグパイプでご機嫌にモロッコっぽいインプロを繰り広げる。そのインプロが終わるといきなりラテン系のグルーヴが始まるのだが、これがひょっとしてウェストンが目指していることなのではないだろうかと気が付いた。つまりアフリカ音楽の特徴とジャズ・ラテンのビートとの融合だ。
<African Village Bedford-Stuyvesant 1>
今回この1枚目の1曲目を取り上げたいと思ったのは、このアルバムに針を落とした時この曲にガンと惹きつけられたからだ。ウェストンの左手のウォークが思いっきりドライブしていて、ご機嫌なグルーヴなのだ。後述する。タイトルのBedford-Stuyvesant(ベッドフォード・スタイブサン)といえばニューヨーク、ブルックリンにある一角の街の名前だ。恐らくウェストンはその街をアフリカの村に見立てたのかも知れない。ちなみにこの同じ曲が2枚目1曲目にも収録されており、前者がソロピアノなのに対し後者はアンサンブルで、ビリー・ハーパーかデューイ・レッドマンかどちらかのテナーソロを堪能できるのだが、根本的な大問題を抱えている。前述のようにこのアンサンブルは2人のベース奏者、アレックス・ブレイクとジャミル・ナサーが起用されており、<The Healers>や<African Cookbook>のようなストレート・ビートの曲ならその奇抜なアイデアが功をなすが、このようなスイング・ビートの曲だとかなり危険な試みとなる。例えば最初のソロはウェストンのピアノソロで、右チャンネルのベース奏者がオン・トップ・オブ・ザ・ビートでご機嫌にグルーヴしているのに、続くTalib Kibwe(タリブ・キブエと読むのか、別名T. K. Blueとしても知られている)のアルトソロが始まると左チャンネルのベース奏者に入れ替わる。こちらは全くビハインド・ザ・ビートなので、思いっきりずっこけるだけでなく、タリブは変更されたタイム感に調整が効かず完璧にずれてしまっている。聴いていてとても気持ち悪い。

実は筆者も昔2ベース2ドラムの20人編成ジャズオーケストラをボストンでやっていた時期があり、フロントにデイブ・リーブマン、マイク・スターン、ジョージ・ガゾーン、タイガー大越等をフィーチャーして1994年に京都建国千二百年祭に出演させて頂いた。この時やはり4人のタイム感が干渉しないように色々な工夫をしたものだった。例えば2組のリズムセクションをストレート・ビートとスイング・ビートに分けて目まぐるしく入れ替える等 (YouTube→) 、2組いなければできないことをやった。それだけにこのウェストンのような安易なやり方に少しショックを受けたのだ。
話を戻そう。この曲は単純なCマイナーブルースだ。ヘッド(テーマ)を採譜してみた。非常に単純なリフの繰り返しだが、8小節フレーズの発展系の位置が興味深い(図参照)。最初の8小節ではフレーズ最後に変化系があって節目を作るが、続く2回目と3回目は変化系が四分の三の位置に現れ意表を突く。大した細工ではないが、お洒落と言えばお洒落だ。

次に出だしの1コーラスを採譜してみた。前述したように筆者はこの出だしを聴いて惹きつけられた。ウェストンのご機嫌にオン・トップ・オブ・ザ・ビートでドライブする左手に興奮した。もうひとつはウェストンの特異なハーモニーのセンスにも惹かれた。なにせこの曲が実はブルースフォームだったとはヘッド(テーマ)が登場する3コーラス目まで確信しづらかった。冒頭をご覧頂きたい。いきなり違う調のブルースフレーズで始まるのだ。
まずご注意頂きたいのは、ウェストンの右手はミドルCの1オクターブ下、左手はそれよりさらに2〜3オクターブ下だ。図の左手のヘ音記号は 8va basso の表示があることを見落とさないようにされたい。
この紛れもないブルースフォーム、12小節ブルースが2倍の24小節で書かれているが、12小節ブルースとして分析する。本連載#30のCecil Taylor <Charge ‘Em Blues>の記事でも書いたが、ブルースの定義は、12小節フォームであり、その5小節目が四度コードであることだけであり、この曲ももちろんその条件を満たしている。オリジナルのコード進行を青で、ウェストンが自由に演奏しているハーモニーを赤で示した。
前述のように冒頭はCマイナーのブルースなのにフレーズはいきなりDマイナーだ。CマイナーのドミナントであるG7を交えるのは順当として、なんとA7に一瞬移行している。冒頭のDマイナーに関連付けたと考えられる。つまりCマイナーに対するG7を長2度上げてDマイナーに対するA7と。9小節目、つまり12小節ブルースフォームとしての5小節目はしっかりとIV度コードのFマイナーコードを示し、ブルースフォームを明確にしている。注目したいのは17小節目(12小節ブルースフォームで9小節目)から始まるターンアラウンドだ。オリジナルは単純なマイナー II – V だが、ウェストンは奇抜なリハーモナイゼーションをしている。
まず最初のコード(17小節目)だ。左手はC#とDを連打し、右手はF#とAを連打している。音を縦に積んでコードを表すと、F#- (♭6) / C# となるが、どうしてもこれはF#-コードには聴こえない。まず左手だが、この曲の前後関係に属さないC#はDに対するアプローチ音に聴こえる。ならば、とDを基準に考えればDのトライアッドとして全て解決し、しかも次のGコードに移行するのも全く違和感がない。実際そう聴こえるのだ。
続くコードは、左手はDとE♭の連打、右手はFとGの連打だ。実はこちらの方が判断がしにくい。Gコードと考えた時に必要なB音が含まれていないからだ。但し右手のFとGの連打は強力にG7コードを示唆する。反対に左手だけを取れば直前のDコードの半音上であるE♭コードと分析もできる。その方が譜面上は正しく見えるのだが、そう分析してしまうとどうにもこうにも次のC-コードに移行できなくなってしまうのだ。そして21小節目の2拍目で鍵盤一番下のCをガンと弾くその効果にシビれた。おそるべしウェストン。彼のハーモニーの感覚は確実にユニークで、影響を受けたというモンクのそれとかなり違う。そういう意味では非常に興味深いアーティストだと思うのだが、やはり筆者の彼の印象は弱い。ウェストンは人並み外れたアイデアを持っていながら、それを表現しきるだけの技量には欠けると思う。これだけグルーヴ感を持っているのに、アイデアの不発でグルーヴが死んでしまう瞬間がかなり多いのだ。実は筆者はこれに自分を映し出し身の引き締まる思いがした。ミュージシャンは常に自分のちからの70%で表現したいことを実現できるだけの技量を備えるために練習し続けなければいけないというマイケル・ブレッカーの助言を思い出し、自分にも再度言い聞かせる筆者であった。
コラ, タリブ・キブエ, Talib Kibwe, Hiro Honshuku & the Boston Blazing Jazz Orchestra, デューイ・レッドマン, Melba Liston, Gnawa Music, グナワ音楽, ヤサー・チャドリー, Yassir Chadly, ギンブリ, サンティール, Sintir, ソナ・ジョバーテ, Sona Jobarteh, Kora, モロッコ音楽, アフリカ音楽, メルバ・リストン, Wynton Kelly, ウィントン・ケリー, ファラオ・サンダース, Randy Weston, ビリー・ハーパー, ランディ・ウェストン, Pat Metheny, パット・メセニー