JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 85,516 回

Hear, there and everywhere 稲岡邦弥R.I.P. ゲイリー・ピーコックNo. 270

#25 追悼 ゲイリー・ピーコック producer 稲岡邦彌

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

どういうわけか若い頃から低音楽器が好みだ。弦楽器ならコントラバス、ダブルベース、ジャズならベース(業界用語ではスーベ)。1972年のこと、ECMのマンフレート・アイヒャーに手紙でカタログ契約を持ちかけた。その前にまず4タイトルをワン・ショットで契約してくれという。日本で買い手がつかないまま残っていた原盤だ。そのなかに、バール・フィリップスとデイヴ・ホランドのベース・デュオ『Music from Two Bases』(ECM1011) があった。他の3タイトルを含めてすぐ契約した。このアルバムは駄洒落じみた邦題『ベーシック・ダイアローグ』を付けてリリースした。マンフレートが気が付いたら目をむいたに違いない。ECMとのカタログ契約はすんなり進んだ。

1975年、神原音楽事務所から独立してもんプロダクションを開いた西蔭嘉樹が「何か一緒にやろう」と声をかけてくれたので、「ポール・ブレイ・トリオ」を持ちかけた。但し、ベースはゲイリー・ピーコックでね、と条件をつけた。当時、ゲイリーはジャズ・シーンから身を引いて、西海岸のカレッジで生物学を研究していると知ってはいた。しばらくして、OK!の返事が届いた。西蔭氏はもともとスイング〜バップ系が好物なのでことの重大さに気付いていないようだった。ゲイリーがOKした!?ルートを尋ねるとNYのブッキング・エージェント、ヴィクター・オギルヴィーを通したとのこと。それなら間違いないだろう。『ポール・ブレイ・ウィズ・ゲイリー・ピーコック』(ECM1003)、『ポール・ブレイ/バラッズ』(ECM1010) 以来、憧れていたトリオである。ポール・ブレイ、ゲイリー・ピーコック、バリー・アルトシュル、このトリオを日本で聴ける!興奮を抑えきれなかった。西蔭氏の奮闘よろしくジャズ・フェス、大ホールを含む全国10回の立派なツアーが組織された。
須藤伸義さんのゲイリーへのインタヴューを読むと、ポール・ブレイから日本ツアーへの声がかかり、学究生活をひとまず切り上げる決心をしたという。

『Japan Suite』(IAI)

1976年
7/23(金)京都・シルクホール
7/24(土)ネム・ジャズイン
7/26(月)東京・東京厚生年金会館
7/27(火)横手・教育会館
7/28(水)横浜・文化教育会館
7/29(木)芦屋・ルナホール
7/30(金)博多・大博多ホール
7/31(土)広島・広島市公会堂
8/01(日)東京・曼荼羅
8/02(月)東京・東京厚生年金会館

残念ながら、あれほど待ち焦がれたメンバーとの交流の記憶がまったくない。西蔭氏に泣きつかれ契約条件を全うするための金策に奔走していたからだ。幸い、ネム・ジャズインの放送同録テープを持ち帰ったブレイが自分のIAIレーベルから『Japan Suite』をリリース、後世に記録が遺された。最近、京都と大阪のホール客席で録音したというカセットを聴くチャンスがあり、往時の素晴らしい演奏を蘇らせることができた。
前出の須藤さんのインタヴューによれば、マンフレート・アイヒャーからリーダー・アルバム制作の提案を受け、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットのトリオで『Tales of Another』(ECM1101) をNYで録音したのが、1977年2月のこと。来日からわずか半年後である。この録音がきっかけとなり、『Changes』(ECM1276)『Standards Vol.1』(ECM1255)『Standards Vol.2』(ECM1289) に始まる「キース・ジャレット・スタンダーズ・トリオ」の長い歴史が始まる。ポール・ブレイ・トリオの1976日本ツアーが、ゲイリー・ピーコック復活を実現し、「キース・ジャレット・スタンダーズ」誕生へ繋がったことは間違いない事実である。

ゲイリー・ピーコックにつながる僕個人の最大の軌跡は、1994年の菊地雅章、ゲイリー・ピーコック、富樫雅彦のトリオによる「Great 3」である。この「Great 3」のプロジェクトはパイオニア社のHS-DAT展開施策の一翼を担ったものだ。DATはSONYが開発したDigital Audio Tapeで1987年に規格が成立、2015年まで製造が続いた。一時は、とくにジャズのライヴ録音のマスター・メディアとして重宝された。パイオニア社はDATのハイ・サンプリング仕様(96kHz)のプレイヤーの量産を図ったのだ。菊地雅章を起用したHS-DAT録音の意向を受けた僕は、すぐさまゲイリー・ピーコックと富樫雅彦のトリオを提案したところ、スタンダード中心ならという条件付きで企画が採用された。僕の頭の中にはこのトリオによる名盤『ポエジー』(1971 Philips) があった。23年ぶりの再会セッションである。リハーサルを経てスタジオ録音に先立ち新宿ピットインで1回限りのライヴ録音を敢行したのだが、スタンダードをテーマに緊張感を孕んだ素晴らしい演奏が展開された。三者それぞれの23年間の精神の遍歴は異なるものの、深奥に通底するものは「東洋のこころ」だ。ECMは、ゲイリー・ピーコックへの追悼文のなかで「ジャレット/ピーコック/ディジョネットのトリオは、そもそも1977年のゲイリーのアルバム『Tales of Another』のために結成されたものだ。ピーコックの楽曲を集めたこのアルバムは、菊地雅章という畏友に出会い、東洋の文化に浸った日本での長期滞在のあとに録音された」と、ゲイリーへの菊地雅章と東洋文化の影響に言及している。また、ゲイリーは富樫雅彦について「日本という、ジャズを生んだアフリカ・西欧文明から遠く離れた異国で生まれ育ったバックグランドを持ちながら、彼は直感的に “スウィング” を理解できたユニークな存在だった」(上記インタヴュー)と富樫の特異性について語っている。なお、ゲイリーの東洋文化との関わりは、もちろん短期表面的なものではなく、NYでも居住地を山中に選んで修行を続けており、届いたメール・アドレスには僧名が使われていた。

録音を担当したのは「一発録音の鬼」及川公生さんである。及川さんとはキース・ジャレットを始め多くの録音の場を共有させていただいたが、長いキャリアのなかで5指に入る名録音と認識している。ライヴ録音『テネシー・ワルツ』に続いてスタジオ録音『ビギン・ザ・ビギン』が録音されたが、こちらは長尺のライヴ演奏とは異なり整ったスタンダード集だが、やはりこのトリオならではの意外性を楽しめる内容となっている。

本誌に追悼文を寄せたミュージック・ピープル上原基章氏によれば;「Great3」で実現した四半世紀ぶりの本格的共演は、今こそ再評価すべきレコーディングだと考える。このアルバムはゲイリーと菊地の音による対話の到達点であり、富樫も加わったトリオの“スペース”はどこまでも自由で、軽やかで、限りなく美しい、ということだ。四半世紀ぶりに96kHzのマスターの所在が明らかになったこともあり、ライヴ、スタジオの記録の全貌をいくつかのメディア(SACD、CD、LP、ハイレゾ配信など)を通して明らかにする形でのリリースを検討中である。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください