#33 シカゴAACM 10周年記念フェスティバル 1975
text & photos by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
2015年はAACM創立50周年だった。
創立50周年に当たって最大の賛辞を贈る予定にしていたのだがNY支部が1週間に亘って記念イベントを催すというニュース掲載しかできなかった。
AACMは僕自身のジャズ・キャリアにとって最大の存在のひとつであり、過去半世紀のジャズ・シーンの強力なバックボーンとして存在していたと言っても過言ではないだろう。それだけに容易に筆を起こせるテーマではなく、幸い10周年記念イベントで撮影したスナップが見つかったので、それを頼りに僕の軌跡の一部として書き留めておこうと思う。
僕とAACMとの出会いはシカゴDelmarkレーベルのAACMシリーズに始まる(もうひとつの最大の存在はECMだが、僕のジャズ・キャリアの中でAACMとECMに出会えたことはとても幸運だった。AACMのCMは Creative MusiciansだがECMのCMはContemporary Musicだ。Creative MusiciansとContemporary Music、これ以上、何を望めばいいのだろう …)。Delmarkレーベルの存在は営業マンを通じて新宿のマニア向けレコードショップ「オザワ」から入手した。2、3枚聴いて驚いた。どのミュージシャンもまったく新しい発想で自由に演奏しており、それが独自の個性となって際立っていた。すぐにオーナーのボブ・ケスターに手紙を書き、ライセンス契約を申し出た(ボブはAACMに先立ってシカゴ・ブルースのシリーズ発売を初めており、同僚の中江昌彦が国内盤を発売、中野サンプラザでフェスを開催するなど日本にブルース・ブームを巻き起こした)。日本語の解説は当時のスイングジャーナル誌の児山紀芳編集長から清水俊彦氏の紹介を受けた。氏は大変な熱意を示し、全編を通じてAACMの全貌を解き明かしたいという。ボブに依頼して欧米の紙誌に掲載された記事を取り寄せ清水氏に提供、清水氏は毎回30枚を越す論文のような解説を書き上げてきた。通常の400字詰め原稿用紙10枚の3倍の長さだから、解説は3つ折りの特別仕様となった。当時はもちろんワープロなど存在せず手書きの原稿を写植屋で写植(写真植字)を打ってもらっていたから、経費も時間も3倍、納期に追われ通しで発売延期になったこともあった。氏はこの力編を1990年に青土社から刊行された著作集『ジャズ・アヴァンギャルド クロニクル1967-1989』の第1章に「シカゴ前衛派・AACM」として収録している。
このAACMに秘められたジャズの大いなる可能性を探り出そうと決心したのが評論家で現在当誌の主幹を務める悠雅彦氏であった。氏と僕は1975年5月、勇躍連れ立ってシカゴ・サウスサイドのAACMの本拠地Transition Eastで8日から4日間にわたって開催された「AACM設立10周年記念フェスティバル」へと乗り込んだのだった。AACMとはAssociation for the Advancement of Creative Musicians:創造的音楽家たちの進歩のための協会)の略称で、シカゴ・サウスサイドのブラック・コミュニティの自立政策の一環として市の助成を得て設立された非営利団体である。初代会長にはピアニストのリチャード・エイブラムスが就任し、ミュージシャンたちから“ムーハル”(首領)の名が授けられた。僕らはフェスのオープニング前日にまず Delmarkレーベルを主宰するレコードショップにボブ・ケスターを表敬訪問した。ショップは新宿のオザワを一回り大きくした程度のローカルな小型店で、ボブと青年の二人で運営されていた。ボブは、ブルースにしろAACMにしろ地元のミュージシャンの日頃の成果のアウトプットとしてレコードをリリースするのは当然と、まったく気負いを見せずに淡々と語るのみ。しかし、ジャズの未来を予見させるに充分なこの豊穣な音楽の精華をレコードというメディア無くして誰が窺い知り得るというのか。僕はこの時レコードというメディアの大切さ、文字通り1日単位で進化するジャズという生き物をリアルタイムでレコードというメディアに乗せて世界中の未知のリスナーに届け得るレコード・プロデューサーのかけがえのない使命を再認識したのだった。
Muhal Richard Abrams 1975 Henry Threadgill 1975
AACM10周年記念フェスの会場は、コミュニティの施設の中のスペースだった。ステップに巨体を乗せてPAを操っているのは、マイルスのギタリストとして来日したピート・コージーで、手助けをしているのはドン・モイエ。エイブラムスの指示を受けながら会場を仕切っているのはジョージ・ルイスだ。すべて手作りのイベントである。演奏に先立って会長のエイブラムスと次世代のリーダーのひとりと目されるチコ・フリーマン(チコはシカゴのテナー・レジェンド、ヴォン・フリーマンを父に、叔父にジョージ・フリーマンg、ブラズ・フリーマンdsを持ち、すでにプリンス的存在だった)らが、改めてAACMの設立趣旨や理念を説明し、市のサポートに感謝の意を表する(当時のAACMが掲げるモットーは、Great Black Music / Ancient to the Futureであった)。コミュニティがなければ非行に走ったかもしれない若者たちが音楽に目覚め自立の道を模索している。自立したミュージシャンたちはお互いに切磋琢磨しながらさらに高みを目指して独自の音楽の開発に勤しんでいる。AACMとはいわば音楽の道場のような印象を強くした。彼らの音楽はデルマークのAACMシリーズ以外その内容を知る術もなかったが(彼らがNYに進出して一般のジャズ・ファンの耳目に触れるようになったのは何年も後のことである)、次々に展開される音楽はきわめて個性的で異なる世界のジャズ・ヴォキャブラリーを使っているのではと訝しく思えるほど耳に馴染みのない新鮮なものだった。エイブラムスのエクスペリメンタル・バンド然り、ヘンリー・スレッギル、チコ・フリーマン、ダグラス・ユアート、アミーナ・クローディン・マイヤースなどなど。無名の若者たちはまったく悪びれることなく自分たちの言葉で音楽を語った。たとえ、それが誰の耳にも未熟なものであることが明らかであっても。
Muhal Richard Abrams’ Experimental Band 1975
ちなみに、4日間の主だったプログラムは以下の通りであった;
Thursday, May 8th – Earl Chico Freeman & Unity Mind / Muhal Richard Abrams Big Band
Friday, May 9th – Joseph Jarman Return From Exile / Amina & Company
Saturday, May 10th – Fred Anderson Sextet / Muhal Richard Abrams Sextet
Sunday, May 11th – Rasul Siddik Black Artist Group / AACM Big Band
下に掲げるプログラムの裏表紙に1975年5月(つまり、10周年記念当時)現在のAACMの会員名簿が掲載されているが、アンソニー・ブラクストンとレスター・ボウイーの名前が見えない。ブラクストンは70年代に入ってすでにChick Coreaのサークルの一員としてヨーロッパなどで活躍していたためであり、レスターは「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」のメンバーではあったが元々セントルイスのBAG(Black Artists Group)に所属していたためと思われる。
コンサートがはねたある夜、僕らはアミーナの自宅に招かれた。そこにはすでに7,8人のミュージシャンがわれわれを待ち構えており僕らの到着を待っていたようにあるセレモニーが始まった。アミーナのパートナーが刻んだグラスをペーパーで巻きタバコを作り、車座になった全員が順番にタバコを一服ずつ吸い回す。怪訝そうにためらいを見せるわれわれにパートナーが、グラスはタバコよりずっと健康にいいんだ、初めてだったら煙を胃まで吸い込まなけれ良いとアドバイスしてくれる。このセレモニーが終わって初めて皆が三々五々オードブルをつまんだりコーヒーを飲みながら音楽談義を始めるのだった。
フェスも終わり、彼らの音楽を世界中のリスナーに知らしめるべきとの使命感に駆られた悠氏と小当たりにレコーディングの話を持ちかけると、途方も無い金額を提示する。中にはピアノを1台、という者もいる。発想はビジネスではない、音楽家としてのキャリアの一部を商品化することに対する対価の要求である。ピアノを口にした者はコミュニティにどうしてももう1台必要だからという理由。アートをビジネスにしたい者はアーチストをサポートする義務があるという発想に近い。のちにWHYNOT(ホワイノット)というレーベルの設立とともに世に紹介されていく彼らとの最初の会話はかくも異次元に近いものだった。リチャード・エイブラムスのピアノ・ソロ、ヘンリー・スレッギルのAIR、チコ・フリーマンのリーダー・アルバム、これらはAACM設立10周年を機に、日本のWHYNOTが幾多の苦難を乗り越えて世界に先駆け制作・発売したという厳然たる事実は、ジャズの歴史教科書に明確に記されて然るべきである。
Richard Abrams/Afrisong (1975)
AIR/Air Song (1975)
Chico Freeman/Morning Prayer (1976)
(L to R)
40年を経てリチャード・エイブラムスやヘンリー・スレッギル、ジョージ・ルイスらの近影をビデオで観る機会があった。文字通り感無量である。僕も年をとったが彼らも年をとった。チコ・フリーマンは度々来日する機会があったが、エイブラムスとスレッギルは未だに来日の機会に恵まれていない。アンソニー・ブラクストンもそうだ。アンソニーは一度この国の土を踏んだことはあるが、就労許可を持たないツーリストの資格での入国で、公開の場で演奏することを許されなかった。アンソニーの2枚組無伴奏アルト・ソロ・アルバム『フォー・アルト』(Delmark)は、スイングジャーナル誌主催のジャズ・ディスク大賞で「銀賞」を獲得したのだが。いつまでも成熟しない我が国のジャズ・シーンが彼らを受け入れる余裕がないのか。
Larry Gray Richard Abrams Jack DeJohnette Roscoe Mitchell
Henry Threadgill (L to R) 2013 / Courtesy of ECM 2015
AACM設立50周年を祝ってECMからアルバム『Made in Chicago』がリリースされた。70歳を祝ってシカゴのジャズ・フェスから特別招待されたジャック・ディジョネットがリチャード・エイブラムス、ロスコー・ミッチェル、ヘンリー・スレギルを誘ってバンドを組みフェスに出演したのだ。ディジョネット、ロスコー、スレッギルの3人は、シカゴ・サウスサイドのウィルソン・ジュニア・カレッジのクラスメート。エイブラムスのエクスペリメンタル・バンドに入団したディジョネットを追ってロスコーとスレッギルも参加、エイブラムスがAACMを創設した際には、3人揃って馳せ参じエイブラムスの片腕となって活躍した間柄である。ECMはディジョネットは言わずもがな、AACMの尖兵「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」(AEC) のアルバムを何枚も制作しているし、最近、ロスコーの新作もリリースした。AECの故レスター・ボウイーはECMの顔だったし、アンソニーが参加した「サークル」やデイヴ・ホランドのアルバムもある。それにしてもこのアルバム『Made in Chicago』は、僕のジャズ・キャリアの根幹を成すAACMとECMが邂逅した奇跡のモニュメントとなった。
追:AACMとムーハル・リチャード・エイブラムスについて、当誌に連載エッセイを寄稿しているニューヨーク在のピアニスト蓮見令麻さんがムーハルの音楽の真髄について触れ、さらにムーハル自身へのインタヴューの全貌を前後編に分けて訳出の労を取って下さっている。またとない貴重な記事であり、ぜひ一読されることをお勧めする。
https://jazztokyo.org/jazz-right-now/new-york-jazz-right-now/post-11110/
Chicago AACM official website;
http://www.aacmchicago.org/#about-home