ある音楽プロデューサーの軌跡 #56 「追悼 AAP 石塚孝夫さん」
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
オール・アート・プロモーション代表の石塚孝夫さんの訃報が届いた。享年89。ジャズに捧げた後半生の尽力を心から労いたい。
石塚さんを紹介されたのは国際的にK.Abeの愛称で知られるカメラマンの阿部克自さん。いきなり麻布のAOIスタジオへ連れて行かれた。1974年3月、そこで繰り広げられている光景はまだディレクターとして駆け出しの自分にとってどれほど眩かったことか。コンサートで聴いたサド・メル(サド・ジョーンズ&メル・ルイス・オーケストラ)の面々の多くがそこでレコーディング中だったのだから。ひとり、日野元彦だけが日本人メンバーとしてドラムを叩いていたが。その日は、ディー・ディー・ブリッジウォーターのデビュー・アルバムの制作現場だったのだ。ミュージカル・ディレクターとして現場を仕切るのは当時のディー・ディーのパートナー、セシル・ブリッジウォーター (tp)。モニターから流れてくるディー・ディーの素晴らしさ。声の伸びと艶、豊かな声量、完璧なコントロール、素晴らしい逸材の登場と改めて感服したものだ。石塚さんに「どのレーベルからリリースされるのですか」と尋ねたところ、「まだ決まっていない」との返事。思わず名刺を取り出し、「ぜひ僕のところから出させてください」「意思表示をしてくれた最初の人だからいいですよ」とのふたつ返事。阿部さんがスタジオであの特徴的なポートレイトを撮影しデザインも担当、ライナーノートはディー・ディーに惚れ込んでいたスイング・ジャーナルの児山紀芳編集長が自ら執筆。かくして、ディー・ディー・ブリッジウォーターのデビュー・アルバム『アフロ・ブルー』(TRIO PA7095, 1974) が誕生、SJジャズ・ディスク大賞の「制作企画賞」の授与に至ったのだ。メジャーであれば新人のデビュー・アルバムの原盤ライセンスがこうも簡単に決まったとは思えないが、トリオレコードというマイナーの身軽さが功を奏したというべきか。
その後、石塚さんとは10本以上のライセンス契約をしたと思うが、石塚さんが制作を担当しトリオレコードが発売するというケースがほとんどだった。石塚さんがヴォーカル好きで、愛妻のヴォーカリスト峰順子さんの参考にさせたいという意向もあったようだ。その中で、僕自身が制作を担当した原盤が2本ある。『アニタ・オデイ/Live in Tokyo 1975』(TRIO PA7140, 1975)と『バーニー・ケッセル/Live at Sometime』(TRIO PAP-9012, 1977) である。じつは、アニタのドラッグ禍からの復帰に際しトリオレコードが手を貸して復帰作『アニタ・オデイ/Anita 1975』(TRIO PA7105, 1975) を制作、アニタの復帰ツアーを石塚さんに委託したからだ。アニタの復帰は日本でも大歓迎され芝の郵便貯金ホール(現メルパルクホール)がソールドアウト、気を良くしたアニタがご機嫌にアニタ節を披露、さすがの実力とエンタメ性を遺憾無く発揮、素晴らしい出来のアルバムとなった。石塚さんはスタジオ・アルバム『My Ship』(PA7126,1975)を制作、トリオレコードがリリースした。その後、石塚さんもアニタの成功に気を良くし、何度も招聘、その都度アルバムを制作したが、ぼく自身はこの『Live in Tokyo』をもっとも気に入っている。
石塚さんが制作しトリオレコードがリリースしたヴォーカル・アルバムは、キャロル・スローン『Sophisticated Lady』(TRIO PAP9099, 1977)、『アン・バートン/雨の日と月曜日は』(TRIO PAP-9070, 1977)、『アニタ・オデイ/Live at Mingo’s』(TRIO PAP9015,1079) など。さらに、サド=メルのメンバーが手を貸し高い評価を得た愛妻峰純子さんのデビュー・アルバム『A Child Is Born』(TRIO-PA7124,1976)、『Pre-morning』(TRIO PA7144, 1976)、『Junko & Barney / A Tribute To The Great Hollywood Stars』(TRIO PAP9060, 1976)、『Junko Mine / Live At Storyville』(TRIO PAP9090,1978)、『Junko Meets Hank Jones Trio / Once In The Evening』(TRIO PAP9220, 1979)、『Junko Mine=Junko And Sleepy – I Wish You Love』(TRIO PAP9144,1799)、『Junko Mine / Sings Cole Porter “You Are The Top”』(TRIO PAP9190,1979)、。純子さんは音大を出て読譜力に勝れ、ハワイ留学で語学も堪能だったので来日アーチストとの共演もくもなくこなしていたようだ。惜しくも2004年6月、肺がんのため60歳で世を去った。純子さんを担当していた同僚の原田和男と別れを告げに出かけたが、その際挨拶を交わしたのが石塚さんとあい見えた最後となった。他にもう1作、忘れられない名盤が『ジョージ・ムラーツ with ローランド・ハナ/ポーギー&ベス』(TRIO PAP9058, 1976)。サド=メルのリズム隊として来日した際の録音だが、及川公生さんの優秀録音、内藤忠行さんの雰囲気を捉えたアートワークの良さとあいまって、トリオレコードのロング・ベストセラーとなった。その後、ローランド・ハナとジョージ・ムラーツのコンビは「ハナ・ムラ」の愛称で呼ばれ人気者となり、何度もデュオで来日している。