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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 273

ジャズ・ア・ラ・モード #41. ルイ・アームストロングの白いハンカチーフとソックス

41. Louis Armstrong’s white handkerchief and white socks
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos:Library of Congress-William P.Gottlieb Collection, Pinterestより引用

2021年はルイ・アームストロング生誕120年に当たる。没後50年経ち、リッキー・リカルディ氏による『Heart Full Of Rhythm:The Big Band Years of Louis Armstrong』という新しい評伝も発売された。
ルイ・アームストロング(Louis Daniel Armstrong, 1901年8月4日~1971年7月6日)。『サッチモ』という愛称で親しまれ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャン、コンポーザーそして俳優でもあった。1999年にLIFE誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれた。

#21.普段着のクィーンとキング:エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングでアルバムカバーのファッションについては触れたが、アームストロング個人のファッションについて今まで取り上げていなかった。

サッチモの活動期間は1920年代から1960年代までの50年間に及ぶ。
『サッチモ』という愛称はアームスロトングの口が、ガマ口のように大きく『satchel mouth』もしくは『Such a mouth』から来たという説がある。子供の頃から大きな声だったらしい。
ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれる。コラム#35のシドニー・ベシェと同じくニューオーリンズ生まれでベシェの4歳年下になるが、ベシェがクリオールの家系に生まれたのとは大きく違い、サッチモはアフリカ系アメリカ人が多かった貧しい地域 “貧困と戦う戦場”で生まれ育つ。子供の頃は『スパズム・バンド』と呼ばれるキッチンにある調理器具や洗濯板、金物などを集めて楽器にし手足をバタバタさせたり体を痙攣させたりして演奏する音楽や、安酒場やダンスホールで演奏されるバンドの音楽からジャズの初期の演奏を聴いて育った。11歳で学校を中退。
13歳の時に、誤ってピストルを発砲してしまい少年院送りになる。少年院は比較的良い清潔な環境であり、庭には素晴らしい甘い香りのハニーサックルローズが咲いていた。ヘルスセンターか全寮制の学校の様で、子供達にはきちんと教育を施していた様だ。この少年院の教師に勧められたブラスバンドでコルネットを演奏したのが楽器との出会いになる。ブラスバンドには、白いズボンをニッカーズの様にまくりあげたパンツ、黒の今で言うところのスニーカーの様な靴、ブルーのギャバジンのコート、黒に白の縞模様のソックスと帽子に白い制服もあった様だ。サッチモはバンドリーダーだったため、皆と違うクリーム色のパンツと茶色のソックス、帽子と靴を履いていた。
15歳で少年院から解放された後、新聞売りや石炭運びの仕事をしながら、音楽仲間と一緒に町のパレードや葬式、フェスティバルなどで演奏をするようになる。サッチモはそのスキルを伸ばし、一世代上のキッド・オーリーに気に入られる。17歳から1年程ミシシッピ河のリバー・ボートでキッド・オーリーらと演奏した時の経験を通じサッチモの音楽性は成熟した。
1922年、キング・オリバーを追ってシカゴへ行き多くのミュージシャン達と過ごす。シカゴは活況を呈しており人種問題は最悪だったが、キング・オリバーのクレオール・バンドでは生活ができるに充分なお金を稼ぐことができた。このバンドはシカゴでは最も影響力のあるバンドの一つだった。
1924年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に参加。コルネットからトランペットへと切り替える。同年、キング・オリバー・バンドのピアニストだったリル・ハーディンと結婚。リルはアームスロトングの面倒をよく見、彼をよりスタイリッシュな服に着替えさせた。
1925年、サッチモは自己のバンド『ホット・ファイブ』を結成。このバンドが録音した<ヒービー・ジービー:Heebie Jeebie>はジャズ史上初のスキャット・ヴォーカルとして知られ、全国の若いミュージシャン達に新しいタイプのジャズとして受け入れらた。
1929年にサッチモはニューヨークでアンディ・ラザフとファッツ・ウォーラーの書いた黒人のレビューであるミュージカル<ホット・チョコレート:Hot Chocolate>のオーケストラ・ピットで演奏し、歌も唄い出演もしている。
大恐慌下の1930年代は多くのミュージシャン達が職を失う中、サッチモも同様に借金トラブルなどを抱えながらもツアー活動をなんとか続けていった。1937年、サッチモこと、ルイ・アームストロングはCBS・ラジオネットワークで、スポンサー付きの全国放送を主催した初のアフリカ系アメリカ人となった。
1947年アール・ハインズ、ジャック・ティーガーデン、コージー・コールをはじめとしたオール・スター・プレイヤー達による新しいバンドを結成。この期間中に多くの録音を行い、30本ほどの映画に出演。1949年には、TIME誌の表紙に登場した最初のジャズ・ミュージシャンになった。
1940年から第2次世界大戦の慰問公演も含めて、『アンバサダー・サッチ』として世界中を周る。1950年代には<薔薇色の人生:La Vie En Rose>がヒット、1960年代に入って<ハロー・ドーリー:Hello, Dolly!>が全米No.1のヒットを記録し、グラミー賞を受賞。1967年には<この素晴らしき世界:What A Wonderful World>が世界的なヒットとなった。生涯に於いて50本程の映画に出演した。

このコラムも4度目の新年を迎え、年の初めにはいつも明るい話題をと思う。サッチモは音楽のキャリアもさることながら、その生まれ育った環境から人種差別問題、生涯4度に及ぶ結婚、私達には想像も出来ない程、公私共に波乱万丈の人生を送った。
この人の明るさは一体どこから来ているのだろう?

サッチモは公の場ではスーツかタキシードを着て演奏している事が多かった。この人について、今まで取り上げなかったのは、ファッションについて取り立てて話題にするような大きな事柄が見当たらなかったかもしれない。
ところが、この人だからこそと言うトピックがある。もう読者の方はコラムのタイトルでお判りだろうと思うが、サッチモは演奏中には常に白いハンカチーフを手にしていた。そして、なんと白いソックスが大好きだったようだ。

ハンカチーフは手を洗った後、涙や汗を拭う時、また欧米では鼻をかむ時に使われる。要は体についた水分を拭う身だしなみの品だ。
サッチモのフォーマル・スーツの胸ポケットには、大体いつも2つか3つににきちんと折られたポケットチーフ(欧米ではポケットスクエアと呼ぶ)が入っていた。それとは別にぐちゃぐちゃにしたハンカチーフをいつも手に持って演奏していた。サッチモは、聴衆の前では大袈裟ともいう身振りで大汗をかきながら、ぎょろ目をさらに大きく開いてトランペットを演奏し、笑顔を絶やさず大きなしゃがれ声で歌っていた。ハンカチーフは汗拭きと同時にトランペット演奏の滑り止めでもあっただろう。これは1930年代から持っていた。リル夫人の差し金だったかもしれない。写真家に撮らせたオフィシャルなポートレイトの中でも持っているものが何枚かあった。

サッチモは少年院にいた時の記憶を語っている。フレディ・ケッパードはサッチモのアイドルの一人のコルネット奏者だった。ケッパードにはおかしな癖があった。街をパレードする際、必ず自分の指をポケット・ハンカチーフで覆って他のミュージシャンが真似できない様にしていたらしい。他のコルネット・プレイヤー達はケッパードのコルネットにさえ手出しできなかった。サッチモは少年院で静かな日曜の夜、500~600m先から聴こえるフレディ・ケッパードと彼のバンドが奏でる音楽を、ハニーサックルローズの甘い香りの中で聴き、天国にも登ったかの様な気分になっていた様だ。そんな少年時代の記憶からサッチモはハンカチーフを持つようになったのかもしれない。
とにかく、ハンカチーフは大汗かきサッチモの名脇役になった。

ミュージシャンは汗をかくのは当然。ただ聴衆の面前で堂々とハンカチーフを手にして汗を拭う姿を私はあまり見かけたことがない。エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンが、晩年ステージ上で恥ずかしそうに、ハンカチーフで汗をぬぐっていた姿は記憶にある。『汗をかく』という行為は欧米ではあまり褒められることではないらしい。労働者が汗をかくという印象が強く、あまりエレガントではない様だ。

日本ではトランペット・プレイヤーのサッチモを真似したのかどうか判らないが、南里文雄がハンカチーフを持って演奏しており、漫談家の団しん也がサッチモの物真似で同じようなことをやっていたような記憶がある。

白いハンカチーフを持って演奏する南里文雄。

もう一つのトピックはサッチモがよく履いていた白いソックスだ。
ソックスの役目のひとつは汗を吸収することでもある。足は体内で最も汗を掻く部分の一つでもある。ソックスは汗を吸収し空気が汗を蒸発させる。寒い所では足を温め、特に黒いソックスは熱を吸収し足を暖かく保つ効果がある。薄いソックスは足を涼しく保つのに役立つ。

サッチモは何故だか解らないが、白のソックスが好きで沢山持っていた様だ。足にも大汗をかいていたからだろうか?
スーツ・スタイルや黒のタキシードにすら白いソックスを履いていた。白のソックスはスポーツをする時に履かれていたことに起源する。冒頭に述べた#21.普段着のクィーンとキング:エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングの写真をもう一度見て頂きたい。サッチモは白のソックスの縁を丸めてローファーを履いている。この場合着ている服がカジュアルなので問題はない。

『エラ&ルイ』アルバムカバー

しかし、ソックスはスラックスと靴を繋ぐ役目のアイテムであり、黒っぽいスーツやタキシードに白のソックスは厳禁である。サッチモは、時々ソックスをきちんと上まで伸ばして履かず、縁を丸めてロールダウン(こんな言葉があるかどうか判らないが)して履いていた。それを敢えてやっていたのは何故だろう?と考えていたところ、1950年代にアメリカで流行したスタイルだということが分かった。しかしフォーマルな場においては、ルール違反である。周りにサッチモの間違いを指摘する人がいなかったとは到底思えない。
ファッションのルールとは関係なくルール違反をやってしまう、というのは流行だから、単純に気に入っていたから、大汗かきだから。と結論付けるとあまりに簡単だが、他にこんな姿のミュージシャンにお目にかかったことがない。

ぐちゃぐちゃの白いハンカチーフや白いソックスを身につけたサッチモには非常に庶民的で親近感を覚える。

人種差別の激しい南部の過酷な境遇で生まれ育ち、世界中に愛される超一流のミュージシャン、大スターにまで上り詰めたのは、ただ単純に音楽的な才能があっただけではなかったはずだ。私達が想像も出来ない程の貧しさや苦しさを知った上で、なおかつ明るく前向きに生き、全ての人種の聴衆を如何に楽しませて自分の音楽の虜にするか、そして自分も如何に音楽を楽しむかを常に考え抜いていただろう。
白いハンカチーフもソックスも、そんなサッチモの演出の一つだったのではないかとさえ思う。

You-tubeリンクはサッチモ66歳の時の録音<この素晴らしき世界:What A Wonderful World>。1960年代のアメリカが直面していた、ケネディ暗殺、ベトナム戦争、人種問題、至る所での混乱、アメリカ国民の問題解決のための心強い解毒剤になると意図していた、と作曲者ボブ・シールは1995年の著書『What A Wonderful World : A Lifetime Of Recording』の中で述べている。
COVID-19の収束が未だ見えない中、新しく迎える2021年が少しでも明るく穏やかな年でありますように!

 

<この素晴らしき世界:What A Wonderful World>

https://youtu.be/CWzrABouyeE

*参考文献
・What A Wonderful World : A Lifetime Of Recording:Bob Thiele
・SATCHEMO : My Life in New Orleans : Louis Armstrong
・Heart Full Of Rhythm: The Big Band Years of Louis Armstrong:Ricky Riccardi

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

ジャズ・ア・ラ・モード #41. ルイ・アームストロングの白いハンカチーフとソックス」への1件のフィードバック

  • サッチモ(ルイ・アームストロング1901年8月4日 – 1971年7月6日)生誕120年、没後50年、早くコロナ・パンデミックが収束し、世界各地でお祝いのイベントを開くことができるように祈るばかりではなく、皆で努力したいものだ。
    日本では50有余年、サッチモを敬愛し、ニューオリンズ・ジャズを演奏してきた外山喜雄・惠子ご夫妻の著書『ルイ・アームストロング 没50年に捧ぐ』(冬青社)が6月15日が刊行されるという。楽しみに待ちたい。

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