#35 シドニー・ベシェとエルメスのスカーフ

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35. Sidney Bechet and Hermès’ scarf
text and illustlation by Yoko Takemura 竹村洋子
photos : pintrest から引用、Yoko Takemura

今を遡ること100年以上前、1900年代初期、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオーリンズで始まった音楽のスタイルの一つが『ジャズ』という形になったと言われている。いわゆる『ニューオーリンズ・ジャズ』と呼ばれているのは周知の通り。南北戦争(1861〜1865年)後、解放された黒人やクリオールと呼ばれる白人との混血らが始めた。

18世紀フランス領ルイジアナはアメリカ合衆国中西部の殆どを含んでいた。フランスはミシシッピ川とその支流の流域全部の領有権を主張しており、アメリカ南部のルイジアナ州はその一部にすぎない。最大の都市は、ミシシッピ川の河口に位置する重要な港湾都市、ニューオーリンズ。ミシシッピ川流域の農産物の輸出港として発展し、現在でもフランス植民地時代の影響、クリオール文化が強く残っている。

クリオールは白人(主としてフランス人、スペイン人)と黒人(アフリカ人、ネイティブアメリカン)を先祖に持ち、ルイジアナで生まれた人々とその子孫のことで、正式には『クリオールズ・オブ・カラー:Creoles of Color』と呼ばれる。裕福な白人男性の奴隷主が、所有する黒人女奴隷に子供を産ませ、その女性が奴隷であれば解放を手配し、その子供達も自由人となった。アメリカでは黒人の血が一滴でも混ざっていれば外見はどうであれ、黒人とみなされるが、ニューオーリンズのクリオールは白人と同等の権利を保障されており、多くは教育を受けた自由人で中産階級の生活を送っていた。ニューオーリンズに高級住宅地を形成し、黒人奴隷達を所有して農場経営するクリオールもいた。
油井正一氏の『ジャズ歴史物語』によると、「1850年頃のクリオールの繁栄は絶頂に達し、子弟をフランスに留学させ、フランスにそのまま住み着いてしまう者も多かった。
一種のエリート階級で子供達にヴァイオリンやピアノを習わせて、音楽教育を施すなどの商人などの金持ちが多く、金を出し合って百人編成の交響楽団まで養成したというから教育ママと教育パパが揃った階級だったと言えよう。しかし、南北戦争後の奴隷解放はそれまで特権を甘受してきたクリオールの身分は『ただの黒人』に引き下げてしまう。それまでクリオールの知識階級に牛耳られていた行政機関も、白人の手に握られることになり、クリオールの没落が始まっていった。この頃、一般黒人とクリオールは極めて仲が悪かったようだ。白人社会から締め出されたクリオールは元奴隷達の中には恥を忍んで働きに出なければならなかった人達もいた。」とある。

シドニー・ベシェは、ニューオーリンズのクリオールの中産階級の家庭に1897年に生まれた。フランス系住民が多い地域に住んでおり、ベシェが生まれた頃、家族にはフランス語を話す者もいた。ベシェは6人兄弟の一番年下。家族は皆音楽好きで楽器を演奏していた。兄のレオナルドは歯科医でトロンボーン・プレイヤー、バンドリーダーでもあった。ベシェは6歳の頃、兄が演奏していたクラリネットを譲り受けた。10歳の時、家族のバースディ・パーティーで母が雇ったバンドに混じってクラリネット演奏した際、ミュージシャン達に褒められた事がきっかけでミュージシャンを目指す様になる。
最初は兄弟で作ったブラスバンドでニューオーリンズ界隈のパレードや店の宣伝の為の演奏で稼ぎながら、そこを日々の練習場として腕を磨いていった。10代の頃、学校をサボっては何処かに演奏に行き、それに飽きたら料理をしたり、針仕事もこの頃から得意だったようだ。

ベシェはニューオーリンズ時代、バンク・ジョンソン(tp)率いるバンドやキング・オリバー(cor)とも共演しているが、1914年17歳の時、クラレンス・ウィリアムス(p)と共にシカゴに出る。シカゴではニューオーリンズ・ジャズが大いに受けた。
1919年ベシェはニューヨークへ行き、ウィル・マリオン・クック・シンコペイテッド・オーケストラに参加し、ロンドンに渡りロイヤル・アルバート・ホールで演奏している。渡航へは船の時代。アメリカの最先端のミュージシャン達だっただろう。
ベシェは新し物好きだった様で、ロンドンでソプラノ・サックスを見つけ手に入れた。高い音域が出て、ベシェの得意とするビブラートが上手くできる楽器なので気に入ったかもしれない。「ソプラノ・サックスが気に入ったのは、大きな音が出て他のどのブラス楽器にも勝てるから。」ともベシェは語っている。
アメリカに帰国後、ベッシー・スミス、ルイ・アームストロング(1901年生まれ)やデューク・エリントン(1899年生まれ)等と活動し、その後1925年夏に、『The Club Basha』というキャバレーをニューヨークのセヴンス・アベニューにオープンする。『Basha:バシャ』はニューヨーカー達がベシェの名前 『Bechet』を間違った発音でした事から生まれたネーミング。そこには19歳だったジョニー・ホッジスも出入りしていた。
同年、黒人だけのミュージカル『レヴュー・ニグロ』のメンバーの一員としてジョセフィン・ベイカーらとヨーロッパを廻り、パリ、ロンドン、ベルリン、ソビエト連邦で演奏している。

パリにいた時、バンジョー奏者のマイク・マクケンドリックとベシェは演奏していた曲のハーモニーについて口論になり、決闘する事になった。早朝のパリの街角で、ベシェはマクケンドリックを撃とうとして、誤ってグローバー・コンプトンという22歳のダンサーの足と通りすがりの2人のフランス女性を撃ってしまった。その罪で11ヶ月投獄されフランスを追放されたのは有名な話だ。実はその前にロンドンでも発砲事件を起こしている。気性が荒く闘争心旺盛で、なかなかの熱血漢だった様だ。
1929年にニューヨークへ戻り、またドイツやソヴィエト連邦に行く。1932年にトランペット・プレイヤーのトミー・ラドニア(1900~1939)ら6人でバンドを結成。サヴォイ・ボールルームなどで活動したり、1938年にはジョン・ハモンドの企画したカーネギー・ホールでのコンサートに出演。
1939年に設立したばかりのブルーノート・レコードで録音した<Summertime>はブルーノート・レコードの初ヒットとなった。

しかし、1930年代の大恐慌下のアメリカで、ベシェはミュージシャンとして決して恵まれた境遇になく、音楽だけでは生活できなかった。そこでラドニアと一緒にハーレムで『サザン・テイラー・ショップ』という仕立て屋を開業する。ベシェは服の仕立てなど全くせず、ひたすらお直し、クリーニング、アイロン掛けをやっていた。多くのミュージシャン仲間達が集まり、店の奥の部屋でジャム・セッションをやり、ベシェは仲間達に自慢のクリオール料理を振舞っていた。

1940年代に入り幾つかのバンドと活動したものの仕事は減って行き、経済状態は良くならなかった。ベシェの気性の荒さも仕事を得るのに不利になった様だが、ビ・バップが台頭してきた頃でもある。
が、ベシェは1941年4月18日、ビクターでのオーバーダビングの初期の実験として、「アラビアの酋長:The Shake of Araby」をクラリネット、ソプラノサックス、テナーサックス、ピアノ、ベース、ドラムの6種類の楽器を演奏した録音を残している。5回ダビングして、イヤーホーンをつけたベシェが次々と楽器のソロをのせて製作した、当時としては画期的な『ワン・マン・バンド』だった。私個人としては、彼のクラリネットとソプラノの良さが全く感じられず、何故ベシェがこの録音に取り組んだのかよく理解できない。「新しい事やってはみたけど、失敗しちゃった!」のかもしれない。

1949年、パリのサン・プレイエル・ジャズ・フェスティバルに、チャーリー・パーカー、ルイ・アームストロング等と一緒に出演。フランスでは既に知られていた存在のニューオーリンズ・ジャズのパイオニア、ベシェと29歳の若きビ・バップ奏者のパーカーは大センセーションを呼び起こした。ベシェは最初の訪仏での苦い体験があったにも拘わらず、このフェスティバルで輝かしい成功を収めた。
この後、1950年にベシェはフランスに移り、1959年に62歳で亡くなるまでパリで演奏活動をし、フランスのレーベルでも多く録音を残している。

ベシェのファッションには特に大きな特徴はないが、テイラー・ショップを経営していただけあり、流石に良い素材で仕立てた服をいつも着ていた。服が好きで装おうことが好きでなければテーラー・ショップは経営できない。お直し専門だったようだが服をよく知っていたはずだ。

演奏する時はシングルブレストのスーツが多い。無地だったりストライプだったり、一見地味な装いに見えるのだが、非常に質の良い素材で、派手なネクタイを上手くアクセントにしていた。古い白黒写真からの想像なので、色使いまではよく判らないが、モチーフもドットといったシンプルな物から派手な柄物まで、平凡なスーツ姿をより魅力的に見える様にコーディネートしていた。ベシェは全身、非常に高品質な物を身につけていたのは確かだ。カフリンクスも沢山持っていた。
ブルジョア的環境に生まれ育ち、若い頃からヨーロッパを周り、特にロンドンにある多くのテイラー・ショップにも触発され、センスが磨かれていったのだろう。
ベシェは23歳の時、ロンドンに行っているが、その頃は相当荒れた生活をしていたようだ。時間に遅れ仕事は失うことしばしば、大酒飲みで、ギャンブルにも手を出し、最後には生活費さえままならず、金銭面でサポートしてくれた友人のミュージシャンに自分の楽器を預け、自分は楽器なし。さらにイギリス女性を追っかけ回していたようだ。
だが、当時のベシェは『ミュージシャンとしてとても魅力的』であり、ある女性は「ベシェは、とても若くて美しかった。ライトブラウンの肌、魅力的なブルー・ブラックの髪、そしていつも美しい服を身につけていた。」と語っている。
ベシェは音楽だけではなく、何事にも妥協を許せない完璧主義者だったのではないだろうか?そして負けず嫌いだった。カッとなって間違って女性を撃ってしまったのも、常にファッションに気を使う事も、その結果であるような気がする。そして、兎に角新しいものが好きで飽きっぽくもあったかもしれない。飽きっぽい人というのは良い意味で、常に新しいものを求めファッショナブルな人が多い。

フランスには『エルメス(Hermès)』という老舗ブランドがある。1937年に馬具工房としてスタートしたが、自動車の普及により馬車が衰退すると共に、バッグ、財布、ベルトなどの革製品の事業へと転換していった。現在では時計や食器などまで展開している。服に関していえば2004年、ジャン・ポール・ゴルチエが、その後クリストフ・ルメール、2015年よりナディージュ・ヴァネ=シビュルスキーがアート・ディレクターを務めている。日本人に特に人気のアイテムはネクタイとスカーフだろう。

エルメスのスカーフは世界中の女性に愛されている。
心地よく、肌さわりの良いシルクサテン、芸術性の高いデザイン、確かな品質と完成度の高さは言うまでもない。シーズン毎に『ストーリー』と『タイトル』がある。乗馬の世界からインスピレーションを得た物やデザイナーのイマジネーションによる物まで、その種類は現在まで800を超える。1つのデザインの企画、製造、販売まで約2年、デザインによってはさらに時間のかかる物もある。
一番ベーシックな90cm四方のスカーフは『カレ』と呼ばれ、スカーフとして使う他、ヘア・アレンジに使ったり、パレオ風に腰に巻いたり、バッグに結んだり、様々にアレンジして自由に装う事ができるも人気の理由だ。

1996年、『音楽〜ジャズ』というストーリーでニューオーリンズ・ジャズの風景やミュージシャン達が描かれたスカーフが発売されたことがあった。

1996年発売、エルメスのスカーフ『 音楽〜ジャズ』がテーマのスカーフ

スカーフの中心に『The Original New Orleans Jazz 1923』と書かれたベースドラム、スーザーホーン、クラリネットなどがあり、周りには4枚のアルバム ( Kid Ory 『Mabel’s Dream』、Jelly Roll Morton & His Famous Orchestra 『Canal Street Blues』、King Oliver and His Orchestra『Riverside Blues』、Clarence Williams and His Famous Orchestra『Perdido Street Blues』) がある。ショウボートやニューオーリンズの風景、バンドの風景もある。このバンドのドラムには『Warren Baby Dodds』と描かれている。
そしてシドニー・ベシェ、ルイ・アームストロング(おそらく)、キッド・オリー、ベイビー・ドッツらのポートレイトがある。
スカーフの枠にはSIDNEY BECHET, BUDDY BOLDEN, LOUIS ARMSTRONG, JERRY ROLL MORTON, BUNK JOHNSON, KID ORLY等と20名程のミュージシャンの名前がプリントされている。

『オリジナル・ニューオーリンズ・ジャズ・バンド』は主としてニューオーリンズのミュージシャンで構成された1910〜1920代にニューヨークで人気を博したバンドである。
1923年というとシドニー・ベシェはクラレンス・ウィリアムスと一緒に<Wild Cat Blues>や <Kansas City Blues>を、キング・オリバー・クレオール・ジャズ・バンドがルイ・アームストロングと<Dippermouth Blues>をレコーディングした年になる。
後にパリで共演することになるチャーリー・パーカーが1920年生まれなのだから1923年がどれほど昔かと思うが、同時にジャズが僅かこの100年程の間に如何に進化を遂げたかもよく解る。

エルメスのスカーフで感心するのは、きちんとニューオーリンズ・ジャズの事を調べてデザイン化している事だ。単純にニューオーリンズ・ジャズ好きのデザイナーがエルメスのスタッフにいた、という事ではないだろう。たかがスカーフとは言え、さすがフランスが誇るブランドである。
18世紀から始まった長きに亘るフランスの支配下にあった植民地時代から現在に至るまでのアメリカとフランスの関係の中、アメリカ黒人の音楽のエスプリがフランスの文化にもたらした影響はどれ程のものだっただろうか。人種差別には寛容だったフランスには1950年代、多くのアメリカのミュージシャン達がパリに渡り活動した。ベシェの葬儀はパリの路地に人が溢れかえるほど盛大に行われた様だ。パリにはシドニー・ベシェ通りと、ルイ・アームストロング通りがある。
スカーフにはエルメスのニューオーリンズ・ジャズ、フランスがジャズを芸術として評価したアメリカ文化に対する敬意と尊敬の念が込められているような気がする。

毎度、私事で恐縮だが、このスカーフは私自身がパリ出張の際、サント・ノーレのエルメス本店で買い求めていた物である。事前に、そのシーズンのテーマが『ジャズ』であるという事を知っていた。買った時はそれほど深く調べなかったが、最近になり暫くタンスの中に眠っていたスカーフの事を思い出し、改めてよく見て調べてみた。バックグラウンドを知るとスカーフの価値も更に増し、着け心地も全く違うことを実感する。

*You-tubeリンクは最初がソプラノ・サックスで、ザ・ピーナツがカバーし有名になった<Petite fleur:可愛い花>。
2本目が<I Found A New Baby>1958年のフランスでのライブ録画。
最後はクラリネットで<Egyptian Fantasy>ベシェの1941年の作品である。現在BS-TBSで放映中の『吉田類の酒場放浪記』のテーマに演奏者は別だが使われている。

*参考文献
・Sidney Bechet, The Wizard of Jazz : John Chilton 1996
・Treat It Gentle, An Autography by Sidney Bechet: Rudi Blesh 1978
・Jazz, A History of American Music: Ken Burns 2000
・ジャズの歴史物語:油井正一著、1972

<Petite Fleur>1959年

<I Found A New Baby>1958

<Egyptian Fantasy>1944

竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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