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Jazz Meets 杉田誠一R.I.P. ミルフォード・グレイヴスNo. 275

Jazz meets 杉田誠一 #112「ミルフォード・グレイブス」

photo & text by Seiichi Sugita 杉田誠一

ジョン・ゾーンをして「20世紀のシャーマン」といわしめたフリーのミルフォード・グレイブス (ds, perc) が心臓の難病で死去(享年79)。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。

ぼくをして初めてフリーのドラムスのありようを鮮烈に覚醒せしめたのは、何といっても『ニューヨーク・コンテンポラリー 5』 (fontana)のミルフォードである。音と音の狭間、沈黙の言葉をしっかりと享受する。そこにはすでにポストフリー以降のもんだいをも孕んでいた。かつて、富樫雅彦にロング・インタビュー(「ジャズ」誌)したとき、最もいしきしているのは、ミルフォード・グレイブスだといっている。テーマは、ドラミングにおける「間」とは何か? であった。富樫にとっては、「沈黙の言葉」こそが永遠のテーマとなった。
ぼくが何度かミルフォードの生と出会ったのは、1972年、NYCである。その夏、マンハッタンは、ジャズで沸点にまで到達する。というのは、1971のロード・アイランド州ニューポート、伝統のジャズ祭で暴動が起こり、ジャズ祭が、ニューヨークヘと追い出されてしまったのである。
ニューヨークは、同時進行で、そこかしこがまさにジャズの都市となる。くわしくは、ぼくのルポ(写真・文)を参照されたい(『毎日グラフ』)。
日本的区別でいうとメジャーとマイナーというのがあるけれども、「ニューポート・ジャズ祭ーNY」がメジャーだとすれば、この年マイナーの「ニューヨーク・ミュージシャンズ・ジャズ・フェスティバル」が初めて同時的に開催されたのがこの年。その事務局=拠点となったのがロフト「スタジオ We」である。リーダーは、パーカッショニスト、ジュマ。実は前年より、ぼくは招待されていた。
というのは、1969年以来の付き合いなのだ。はなしは、1969年にさかのbおる。初めてのニューポート・ジャズ祭で、サニー・マレイ(ds)、デイブ・バレル(p)、アラン・シルバ(cello)らと出会う。
サニー・マレイは、ミルフォード・グレイブスの対極に位置するドラマーである。切れ目なく、空間をすさまじいスピードで埋め尽くしていく。饒舌なる空間こそが沈黙を聴くのである。
「NYCにもどったら、”スタジオ We”に遊びに来ないか?」
バワリーの近くにあるロフト、スタジオ Weは、サニーやアラン・シルバの根拠地=ホームであった。そう、その後、梅津和時 (as,b-cl) 「生活向上委員会」が初レコーディングしたのが、スタジオWeである。
こうして、1972年夏NYCは、ロフト・ジャズ・ムーブメントが、まさしく最大のメルクマールの位相へと突出する。
ニューヨーク・ミュージシャンズ・ジャズ・フェスティバルに参加したロフトは、スタジオWeのほか、ボンド通りの地下にあるサム・リバース(ts)の「スタジオ・リヴビィ」である。ここで最も深く突き刺さってきたのがミルフォード・グレイブス。
ミルフォードは、いつだってアフリカ系アメリカ人としての誇り、民族の衣装を身につけ、大きなコンガを背負い、ひょうひょうとやって来る。あのロング・ホット・サマーを経て「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を現実のものとしつつも、「ミュージック・パワー」による自由と解放の喜びすら感じているよう。
一瞬にして、キーンと空気が張りつめる。その初めての夜は、ソラム・セットに向き合う。しょぱなの第1音で、血がざわめき、ミルフォードの心臓の鼓動と共鳴し始めるではないか!
ぼくにとっての劇的終末がやってきたのは実は、後日であった。ミルフォードは、真紅のトレーナーにしなやかな肉体を包んでやって来る。そのドラミングは、いつになく沈潜していく空間の重さを大切にしているようであった。血のざわめき、心臓の鼓動は、静けさを呼びさますのだ。冷徹なる情動というものにめざめさせるなんて、初めてのこと。
ミルフォードは何度もスワヒリ語で叫ぶ。残念ながら、意味は解せないけれども、「生きてるぜ!生きてるぜ!」とぼくには聴こえる。民族の原基、ありどころは、民族を超えてこそ在るのだと知る。
いまだ出口のない情況にミルフォードの空間=律動が深く鋭く突き刺さってくる。
ミルフォードのあのシンプルなスワヒリ語が、「うたう」ことのルーツだとすれば、「間」に重きを置くミルフォードのドラミングは、「うた」そのものである。
NYCは「オペラ」だといったのは、中上健次だけれど、1972年のNYCはジャズ都市であり、そこにはミルフォード・グレイブスの永遠なる「うた」があった。

杉田誠一

杉田誠一 Seiichi Sugita 1945年4月新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月月刊『ジャズ』、1999年11月『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月横浜市白楽にカフェ・バー「Bitches Brew for hipsters only」を開く。著書に、『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』他。

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