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Tak TokiwaのJazz WitnessNo. 290

Tak. TokiwaのJazz Witness No.8 マイケル・ブレッカーの想い出


Photo & Text By Tak. Tokiwa  常盤武彦

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マイケル・ブレッカーが逝ってから、早いもので15年が過ぎてしまった。57年を、まさにその高速フレーズの如く駆け抜けた人生だった。ジャズ・アーティストとしてだけでなく、凄腕のスタジオ・ミュージシャンとしてもファースト・コールだった、マイケル。私も1990年代から、多くのレコーディング・セッションで、同じ時間を過ごすことができた。この、物静かな巨人の思い出を振り返りたい。

私が渡米した1988年の前年、マイケル・ブレッカーは遅すぎるリーダー・アルバム・デビューを飾った。2nd アルバムの『Don’t Try This at Home』のリリースで、今はないニューヨークのボトム・ラインに出演したのを聴いたのが、ライヴでのマイケルとの出逢いだったと思う。当時最先端だった、EWIのプレイに圧倒された記憶がある。後に知ったことだが、80年代終わりから90年代にかけてのマイケルは、長年のハード・ブロウイングが祟って、喉の筋肉が伸びてしまい、ハードなサックス・プレイが難しく、EWIを多用していたそうである。手術を経て、90年代半ばには、次々とリーダー・アルバムをリリース。一作ごとに、自宅インタビューの撮影を担当させていただく僥倖に恵まれた。また当時多かった日本制作のアルバムでも、ゲストにマイケル、もしくはブレッカー・ブラザースを起用すると、箔がつくということもあり、多くのレコーディングに参加していた。人気アイドル・グループSMAPの楽曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンの『Smappies』で、”007のテーマ”の一部分を、ブレッカー・ブラザースのユニゾンでプレイしていたのがカッコ良かった。中川英二郎(tb)のリーダー・アルバムにもゲスト参加して、存在感を放っている。素顔のブレッカー・ブラザースは、2人とも口数は少ないが、兄のランディはやや気難しく、とっつきにくい印象があるが、マイケルは、いつもさりげない気遣いをして撮影を円滑に進めてくれた。1996年の『Tales From the Hudson』のリリース・インタビューの時は、自宅のすぐ近くのハドソン河畔での撮影を提案してくれる。1998年の『Two Blocks From the Edge』の撮影では、何度も撮影している練習室や、リヴィング・ルームではなく、「インカ帝国の壁画風に自宅の廊下の壁を塗り替えたのだ」と、その前での撮影をサジェスト、以前の撮影と絵柄が同じにならないように、配慮してくれた。ただただ感謝したい。2001年のIAJE (International Association for Jazz Education 国際ジャズ教育者協会)の年次総会には、ヴィンス・メンドーサがオランダから連れてきた、世界最高峰の管弦楽ジャズ・オーケストラ、メトロポール・オーケストラとブレッカー・ブラザースをフィーチャーして、往年の名曲をゴージャスに甦らせた。ヴィンス・メンドーサは2003年にドイツ、ケルンのWDRオーケストラを指揮して、ブレッカー・ブラザースをゲストに迎え、2005年にライヴ・アルバム『Some Skunk Funk』をリリースしている。マイケルの早すぎる晩年の注目作は、ギル・ゴールドステインをアレンジャーに迎えた15人編成のストリングス、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、フレンチ・ホルンを含むクインディクテットによる2003年の『Wide Angle』であろう。ジャズ・クラブ”Iridium “で聴いたステージは圧巻であり、マイケルの新たな旅路がスタートしたと確信した。挾間美帆(arr)によると、彼女のm_unitのアイディアの原型は、このクインデクテットだそうだ。「マイケル・ブレッカーが健在だったら、ぜひゲストに迎えてレコーディングをしたかった」と、挾間は語っている。同年には、デイヴ・リーヴマン(ts,ss)、ジョー・ロヴァーノ(ts)と”Saxophone Summit”を結成、衰えないハード・ブロウイング合戦を聴かせてくれる。精緻なアンサンブルとは、対照的なスピリチュアルなプレイでも、マイケルは本領を発揮していた。

2005年、マイケル・ブレッカーは、骨髄性異形成症候群に倒れる。まさに、道半ばでの無念のリタイアだった。

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2006年の8月、マイケル・ブレッカーのレコーディング・セッションが、ライト・トラック・スタジオで行われるという情報をキャッチした。6月24日のJVCジャズ・フェスティヴァルの期間中、カーネギー・ホールでのハービー・ハンコック(p)のコンサートに、マイケルはサプライズ・ゲストとして登場、「ワン・フィンガー・スナップ」で熱演を繰り広げた。カム・バックが近いのではという噂もあっただけに、復帰作になるかもしれないという希望をもって、その瞬間を見届けるべく八方手を尽くし、スタジオ取材の許可を得た。

 マネージャーのダリル・ピットとの折衝の結果、8月25日の午後3時30分にスタジオに来て欲しいと連絡があった。非常にセンシティヴな状態なので、当日は写真撮影、コメントは一切なし、状況を見計らって30分ほどコントロール・ルームで演奏を聴かせて貰えるとのことであった。やはり思った以上にシビアなコンディションのようだ。ライト・トラック・スタジオのオーケストラも録音できる大きなルームと聞いていたので、クインディクテットの続編かとも思っていたが、パット・メセニー(g)、ハービー・ハンコック(p)、ブラッド・メルドー(p)、ジャック・ディジョネット(ds)、ジョン・パティトゥッティ(b)との、オール・スター・セッションであった。

 スタジオに着くと、コントロール・ルームに入る前に、ダリル・ピットが状況を説明してくれた。2006年1月のIAJE年次総会でも、ピットはステージに立ち、骨髄異形成症候群と闘うマイケル・ブレッカーのために、ドナー登録を呼びかけ、会場にブースを設けドナー・テストを行っていた。しかし、マイケルに完全一致するドナーは見つからず、部分適合した長女ジェシカの実験的ドナー移植により小康を得て、6月のカーネギー・ホール出演となる。しかしその後、病状は悪化、完全適合するドナーが見つかっても、体力の低下で移植手術は困難となった。サックスを演奏する体力がまだ残っている8月の下旬に、レコーディングを予定したのだが、実際はリハーサルが始まるまで演奏が可能かどうかは何とも言えない状況だったそうだ。

 この日はレコーディング3日目、前日までのハンコックに替わり、メルドーがピアノに座った。コントロール・ルームにはいると、プロデューサーのギル・ゴールドステイン(p,kb)が指示を出している。ちょうど一曲の録音が終わったところで、ブースからメンバーが出てくる。マイケルは足を引き、辛そうだ。全身に鋭い痛みが奔っているという。痛み止めのステロイドのためか、腹部が不自然に膨らんでいる。コントロール・ルームで仕上がりをチェック、OKがでて、遅いランチ・ブレイクをとった。マイケルの写真が掲載された、2006年に出版した拙著「ジャズでめぐるニューヨーク」を渡し、写真使用許可のお礼を述べ、「早く良くなって、また素晴らしい音楽を聴かせて下さい。」とサインを入れると、「ありがとう、そして本の出版おめでとう。」と、いつものように穏やかに微笑んでくれた。ミュージシャン同士の気のおけないランチの間は遠慮し、ロビーでまたダリル・ピットと話す。ピットは、マイケルの状態が良くなったら、必ずアルバム・リリースのタイミングで、インタビューとフォト・セッションをセッティングすると確約してくれたが、それは叶わぬ約束となってしまった。

 レコーディングが再開された。「テイルズ・オブ・ハドソン」の中の「ソング・フォー・ビルバオ」に似た、壮大なスケールの曲が始まる。記録をつけているスティーヴ・ロドビー(b)に訊くと「ルート7」というタイトルを教えてくれた。メセニーのギター・シンセが、大きくうねりピークを創ったところで、マイケルにソロが渡される。ハイ・テンションがそのまま受け継がれ、いつものブレッカー節が炸裂。ディジョネットが煽り、さらなる高みに昇りつめる。演奏を聴いているかぎり、完全復帰は近いのではと思わせるプレイだった。ピアノ・ソロからテーマに戻り、エンディングは、サックスとギター・シンセのブローイングの応酬。コントロール・ルームのテレビに、ブースのブレッカーとメセニーの様子がモニターされ、演奏できる喜び一杯の表情を浮かべているのが見えた。ブースを出た二人は、会心の笑みで讃えあい、コントロール・ルームに戻ってくる。ピットに促され、「素晴らしい演奏でした。また必ずお目にかかりましょう。お大事に。」とマイケルに挨拶し、スタジオをあとにする。はからずも、これがマイケルとの最後の瞬間になってしまった。翌年5月、遺作『Pilgrimage』が、リリースされる。

 マイケルは、2004年のマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルに出演した頃から背中の痛みなど、体の不調を訴えていたそうだ。ジョー・ロヴァーノ(ts)によると2005年春の、サキソフォン・サミットのツアー中に、いよいよ状態は悪くなり、3月下旬のニューヨークのバードランドでのギグを最後にステージに立てず、ジョシュア・レッドマン(ts)が、残りのツアーの代役を務めたそうである。6月22日のJVCジャズ・フェスティヴァル中の、ビーコン・シアターにおけるステップス・アヘッド・リユニオン・コンサートには、マイケルに替わりビル・エヴァンス(ts,ss)が登場。困惑する聴衆に、ランディ・ブレッカー(tp)から「マイケルは骨髄異形成症候群に冒され、闘病中です。」と、衝撃的な発表がなされたのだった。8月の最初には、夫人のスーザン・ブレッカーから、骨髄バンクのドナー登録協力要請のメールがジャズ・コミュニティ内に廻り、事態の深刻さが浮き彫りとなる。

 4月以降のすべての予定をキャンセルせざるえなかったマイケルだが、ギリギリまで本人の意志でキャンセルを承諾しなかったツアーがあった。8月末の、日本での森山良子(vo,g)のツアーである。2003年に、森山がジャズ・スタンダード・ソングをカヴァーしたアルバム「ザ・ジャズ・シンガー」のレコーディングに、2曲参加。翌年の森山のブルーノート・ニューヨークでのライヴでも、スペシャル・ゲストとして数曲、共演した。あらゆる音楽に対してオープン・マインドで、謙虚な人柄のマイケルは「良子は、私が今まで共演したことがない、初めてのタイプのシンガー。一緒に演奏すると、とても勉強になる。」と、森山との再共演を楽しみにしており、病状が安定したら是非日本へ行きたいと熱望していた。渡辺香津美(g)の出演も予定されていただけに、マイケルの不参加が悔やまれる。

 1月13日の午前中、IAJE年次総会の会場で、ハーヴィー・S(b)から、マイケルが数時間前に亡くなったと聞かされた。クリニックで見かけたデイヴ・リーブマンに確認すると、悲痛な表情で頷く。夜のメイン会場のチャーリー・ヘイデン(b)のリベレーション・ミュージック・オーケストラのコンサートの途中で、前日に亡くなったアリス・コルトレーン(p,org,harp)とともに写真がスクリーンに投影され、マイケルの演奏の「チャンズ・ソング」が流れた。「この夜のパフォーマンスは、アリスとマイケルに捧げる」と告げられた。遂に、恐れていた日が来てしまった。いつも熱いプレイを聴かせてくれた、さまざまなレコーディング・セッションやライヴ、数回訪れた自宅でのフォト・セッションでの暖かい人柄が思い出される。熱いものがこみ上げてきて、ファインダーの中のチャーリー・ヘイデン(b)のフォーカスを確認するのに難儀した。カーラ・ブレイ(p)に代わって指揮を務めた盟友ギル・ゴールドステインも、慟哭のピアノ・プレイを聴かせくれた。

あれから15年。マイケル・ブレッカーのスピリットは、今も多くのアーティストの中に息づいている。

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常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。2017年4月、29年のニューヨーク生活を終えて帰国。翌年2010年以降の目撃してきたニューヨーク・ジャズ・シーンの変遷をまとめた『New York Jazz Update』(小学館、2018)を上梓。現在横浜在住。デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルと日本のジャズ・フェスティヴァルの交流プロジェクトに携わり、オフィシャル・フォトグラファーとして毎年8月下旬から9月初旬にかけて渡米し、最新のアメリカのジャズ・シーンを引き続き追っている。Official Website : https://tokiwaphoto.com/

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