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InterviewsNo. 258

Interview #194 「ウッドストック体験記 in 1969 by キオ・グリフィス」

©Henry Diltz

Interviewed by Makoto Ando 安藤誠 @新宿 2019年8月

カルチャーとしてのみならず、エンタテインメント産業の中でも今や重要な位置を占めるフェス文化。その起源については諸説あるものの、象徴的原点が1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルであることに異論を唱える人は少ないだろう。3日間の全貌を記録したCD10枚組のスペシャルボックスが発売されるなど、開催から50周年に当たる今年、様々な側面から新たに脚光を浴びているこのフェスだが、今回は、当時6歳にしてその現場を体験した日本生まれのアーティスト、キオ・グリフィスによる体験記を紹介したい。ウッドストックに日本から足を運んだ人物としてはギタリストの成毛滋氏と、同行していたシー・ユー・チェン氏(現シー・アイ・エー代表取締役)、音楽評論家の室矢憲治氏ら数名の存在が知られているが、開催から半世紀を越え参加アーティスト、オーディエンスともに物故者も少なくない現在、少年の偏りのない眼と耳で捉えたウッドストックについての証言は貴重といえるだろう。なお本インタビューは今年8月15日、ウッドストック開幕からちょうど50年を刻んだ記念すべき日に行われた。

 

鵠沼からニューヨーク、そしてウッドストックへ

—-まずご両親のことから。お父さんが米国人なんですよね?

キオ・グリフィス(以下K.G.) はい。好奇心が強くて、いろんなことに興味を持つ人でしたね。元々はペンシルベニア大学で建築を研究していたところを徴兵されて、その間に音楽がやりたくなってジュリアード音楽院に入り直したんです。彼が言うには、マリア・カラスが同級生にいたらしい。ところが運悪く再度徴兵されて朝鮮戦争に行くことになり、その間に今度は詩に興味を持つんです。徴兵が終わって、アメリカに帰る途中で立ち寄った日本で、当時学習院大学で教えていたレジナルド・ブライス先生とたまたま知り合い、実家に帰って両親に今度は日本語を専攻するって伝えたら、勘当されちゃった(笑)。それが1952年のことです。

その後、ハワイ大学に行って日本語を勉強して、そこから貨物船で東京に渡ってくるんです。船内では日本語の歌を歌ってて、そこで得たチップを元手に下宿を借り、青山学院大学で英米文学を教える一方で、日本語を勉強していました。母と出会ったのは1958年頃で、彼女は当時慶応大学でフランス語を学んでいたんですが、卒業後に英文学を勉強したくて先生を探していて出会ったそうです。父はそのとき青山学院大学の助教授で、研究していたのは比較文学。青学では名誉教授になって1999年頃までいたんです。僕が生まれたのは1963年で、当時は鵠沼海岸に住んでいました。

—-建築や音楽を専門的に勉強されていて、その後文学に移ったと。

とにかく音楽好きでした。朝起きたら必ず何かレコードがかかっていたのが、僕の一番古い記憶。母方の叔父の一人がFM東京の創始者で、もう一人の叔父も東芝EMIにいて、その人達と交流があったので新しい音楽もよく聴いていましたね。ボサノヴァからバブルガム・ポップまで、それこそ何でも。その一方でビートニクを研究してたから、60年代のカウンターカルチャー、禅とか仏教にも触れていて、暗黒舞踏の公演にもよく通っていたみたいです。

文化人との交流も多かったようですが、それで一つ面白い話があって。父は渋谷でスポーツジムに通っていて、僕もよく一緒に連れ行かれたんだけど、そこにすごい筋肉質のおじさんがいて、器具の使い方とかを僕に教えてくれてたんです。ところが数カ月くらい経って姿を見なくなったので、父に「あのおじさん。どうしたの?」と聞いたら、口を濁してなかなか教えてくれない。あとで知ったんだけど、それが三島由紀夫だった。市ヶ谷で自決する直前、1970年のことですね。

—-両親とも日本にお住まいで、キオさん自身も幼少時は日本で育ったんですね。それが何故ウッドストックに?

K.G. 父が青山学院で教職を続けるために修士号を取る必要が生じて、1965年に一旦ニューヨークに戻ってシラキュース大学に通い始めるんです。僕はその時2歳。大学の中にモンテッソーリの幼稚園があって、そこに通っていました。当時はフォークが隆盛で、父もよくコンサートに連れていってくれて。サイモン&ガーファンクルも初期の時代から聴いてたし。その頃は西海岸ではもうヒッピーカルチャーが台頭してきてた頃だけど、ニューヨークではアート的な動きの方が主流だったと思う。父はジャズのライヴにもよく行ってたんじゃないかな。

—-ルー・リードは60年代前半にシラキュース大学に通っていましたし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが出てくるのもその頃ですよね。

K.G. そう。大学内でそういう情報を得ていたんでしょうね。ウッドストックのことも、大きな宣伝がされていた訳じゃなかったから、たぶん大学の誰かから口伝てに聞いたんだと思う。ちょうど父はそのときステーション・ワゴンの車を買ったばかりで、ちょっと遠出したかったみたいで。現地までは3〜4時間くらいかかったのかな。西海岸の人だと、車で3時間は普通と思うんだけど、東海岸に住んでた僕にとっては、3時間は遠いなあという印象でしたね。

今みたいにラインアップが事前に発表される訳じゃないから、ビートルズが出るとか、ディランも出るとか、いろんな噂があったみたい。そういうのに釣られて行った人もいたんじゃないかな。実は、父は終わってからちょっとがっかりしてる感じがあって、たぶん観たかった人が出なかったんだと思う。ディランだったのかもしれない。

ジミヘンの衝撃−−−地球が終わったのかと思った

—-現地には初日(リッチー・ヘブンス、ラヴィ・シャンカール、メラニー、アーロ・ガスリー、ジョーン・バエズらが出演)から?

K.G. 初日からです。会場に入った時にもう音は出てたので、途中からだったと思う。父はフォークが目当てだったから、初日に出たジョーン・バエズは観たはずです。ただ、一度会場からアウトしてるんだよね。というのもあまりにも人が多くて、水や食糧が全然足りてなかったから。おそらく父が想像した感じと実際の現地があまりにも違っていて、それでちょっとパニクったんじゃないかと思う(笑)。それで買い出しに行って、また戻ってきた。

—-当時の記録を見ても、特に初日は相当なカオスだったようですね。渋滞も物凄くて。

K.G. かなり遠くに車を止めて歩きましたね。20年ほど前にコーチェラ・フェスティバルに行った時、ウッドストックと同じような風景だなと思った。夜は車に戻って寝てたんです。周りもそんな人が多かった。特に危険は感じなかったですね。全体的におとなしい人が多くて。会場の中にはマリファナの匂いとかはあったし、ハイになって同じところをぐるぐる回ってる人や目がイっちゃってる人はいたんだけど。

—-サントラ盤のジャケットにもなっていますが、子供がステージで遊んでいる写真も残されていますね。子連れのファミリーもいたんでしょうか?

K.G. いましたね。僕や父とは全然違う感じの、家族全員裸みたいな人たちも結構いて。その関係性がその時の僕にはすごく不思議で。服を着ていたらいけないのかと思った(笑)。とにかく皆地べたで寝てて、ドロドロなんですよ。しばらく後で父に暗黒舞踏に連れてってもらったときに、「あれってウッドストックの人なのかな?」って思ったから(笑)。

—-2日目はサンタナ、グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレインらが出演していて、最もロック色の濃厚な日だったようですが。

K.G. あまり覚えてないんですよ。この日は前半買い出しに行ってアウトしてたのもあるし。ドラッグ色の濃いアーティストが多かったから、この日は父としてはスルー気味だったのかもしれない。2日目の記憶がいちばん薄いんです。だから逆に、後になって映画で観た時に、このあたりのアーティストはすごく新鮮に感じた。



—-3日目(ジョー・コッカー、バターフィールド・ブルース・バンド、ザ・バンド、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジミ・ヘンドリックスらが出演)は?

K.G. ザ・バンドは確かに観てる。ずっと後になってからだけど、ポール・バターフィールドを聴いたときに、会場で聴いたリフを幾つか覚えていたから、バターフィールド・ブルース・バンドも観てるはず。そして、何と言ってもジミ・ヘンドリックス。

—-ジミはやはり強烈でしたか?

K.G. とにかく凄い衝撃だった。聴いたことのない音というか、音楽かどうかさえもわからなかった。父に「これは何なの?」って聞いて、さすがに父も答えられなかったから。

彼はイベント全体のトリだったんだけど、日曜のセットが押しに押して、登場したのはもう月曜の朝でした。多分、ジミヘンの時が一番人が少なかったんじゃないかな。月曜からはみんな学校や仕事があるから、大半はもう帰ってたと思うんです。そんな状況でいきなりあの音だったから、世界が終わったのか、地獄に迷い込んだのかっていう感じだった。3日間あの環境にいてみんな疲れ果てて寝てるところに、最後に悪魔が降りてきた、っていう(笑)。帰ってからも、数日の間はあの音がフィードバックしていましたね。わりとステージの近くで観てたと思う。ジミヘンの姿がはっきり見えてたから。

ジミヘンが他の出演者とあきらかに違っていたのは、ギターから音だけじゃなくてエネルギーを放出していたこと。彼ほどこの後の音楽シーンに影響を与えた人っていないんじゃないかな。ロックだけじゃなくて、この人がいたからこそノイズ音楽なんかも成り立っているわけで。高校生くらいになると、ジミヘンを聴いてる友達とかもいるんだけど、その時の話をする気にはなれなかったですね。レコードで聴くのと、その時の聴いた音とは全く別物と思ってたから。



胸に残るあの時だけのオーラ

—-現在では「ラヴ&ピースの象徴」として扱われているこのフェスですが、会場は実際ピースフルな雰囲気だったんでしょうか。

K.G. 危ないという感じはなかったね。ただ、とにかく汚かった(笑)。でも父が行ってた学校の雰囲気に似てるな、とも思いましたね。日頃キャンパスで会ってる人達が会場で泥んこになっている、という感じ。食べ物を売ってるお店もなくて、みんなどうやって生きてるのかって思ってたから。何か回し飲みしてたというのはあったけど、とにかく食べ物は全然なかった。会場は農場だったから、そこの人が配給でもしてたのかな。とにかく汚かったというのが一番の印象。ラヴ&ピースというイメージは正直言ってあまりなかったね。

—-音はどんな感じで聴こえていたのでしょう。PAシステムもまだ発展途上の時代でしたが。

K.G. いや、汚かった。バランスも悪かったんじゃないかな。当時30万人に聴かせるサウンドデザインなんてなかったはずだし、場所によっては全然聴こえてない人もいたと思う。ずっと後になって、その時20歳くらいで現場にいたという人と話したことがあるんだけど、その人は1曲も聴いてないって言ってた。グレイトフル・デッドのライヴみたいに録音してる人もいなかったし、まさにフェスの原始時代ですね。

—-今やすっかり伝説化したウッドストックですが、キオさん自身の記憶とそういった伝説とのズレは感じますか。

K.G. 僕にとっては、これはたまたま行ったライヴのうちの一つで、あまりまとまりがよくなかったイベント、という印象ですね。終わった後も、特にこれといって大きな話題になっていた訳じゃなかったし、当時は、一生懸命やったけど成功したのか失敗したのかよくわからないフェス、みたいな位置づけだったんじゃないかな。伝説化したのは、やっぱり映画の力が大きかったと思う。ジミやジャニスがその後すぐに亡くなったことも関係しているかもしれない。

—-映画のサントラ盤のビジュアルイメージも大きいですね。あれがアイコンというか、時代を象徴する絵になってる。

K.G. こんなに格好いいもんじゃなかったけどね(笑)。これ、クリムトみたいじゃないですか。クリムトの「接吻」。構図はそっくりだよね。ちょっと意識したんじゃないかな。

ただ、今振り返ってみて思うのは、やはり現場のオーラは凄かったということ。今のフェスで残念なのはそこですね。予め構成がガチガチに出来上がっていて、オーラがない。商業的で、意外性がなくて……。当時は警備とかそういうものも全くないし、いたとしても観客と入り混じってて、セキュリティの堅苦しさなんて感じなかった。僕らはチケットを用意して行ったけど、途中からフリーコンサートになったしね。今はゲート入場でリストバンドが当たり前でしょ。こんなに自由だったのは最初で最後じゃないかと思います。

—-当時キオさんはまだ6歳だった訳ですが、ウッドストックで体験したことがその後の人生に影響した部分はありますか。

K.G. ウッドストックのすぐ後に日本に戻ってきて、翌年の大阪万博に行ったんです。その時にペプシ館でシュトックハウゼンが演奏してたの。子供の耳にあれがごく自然に入ってきたのは、ウッドストックでジミヘンを体験してたことがすごく大きかったと思う。……いや違う、シュトックハウゼンがいたのはドイツ館だった。ペプシ館はジョン・ケージやロバート・ラウシェンバーグがいたE.A.T.(Experiments in Art and Technology、1960~70年代に活動していた米国の前衛芸術家グループ)が手がけていて、実験ワークも行っていたから、もしかしたらそこにシュトックハウゼンも参加してたのかな。シュトックハウゼンは1966年にNHKに招聘されて作品も創っていたから、その一環で来てたのかもしれない。今の万博じゃ考えられないことですね。

今でも、作品や音を作ったりする時に、ウッドストックのあの場所にいて感じた、訳のわからない、廃墟のような感じに近づけたいという気持ちは残っているような気がします。儚くて、壊れ物に近いような、そんなイメージ。モノとして「しっかりしていない」ということに、強い魅力を感じるんです。そういう意味ではウッドストックに象徴される、68年から69年頃の音楽やアート、その頃の出来事には間違いなく影響を受けてると思う。今はこんなふうかもしれないけど、明日になったら全てがすっかり変わってるかもしれないよ、という。

 

©石倉潤

キオ・グリフィス Kio GRIFFITH

1963年神奈川県生まれ。ヴィジュアル・サウンドアーティスト、キュレーター、エディター。アメリカと日本を主な拠点として活動を展開。時代とともに変遷する社会や言語等から素材を集め、それらを視覚的・聴覚的に再生し、観客に追体験させるという手法を取った作品を発表。そこには一貫して「失われたものに新しい命を吹き込む」という主題が秘められている。日米のミュージシャンとの共同作品も多数。今年10月4日にはあいちトリエンナーレにて音楽家とアーティストからなるNEOFLUXUS Orchestraによる作品「Neofluxus」を発表。

 

安藤誠

あんどう・まこと 街を回遊しながらダンスと音楽の即興セッションを楽しむイベント『LAND FES』ディレクター。

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