追悼 “Dr.Jazz” 内田修 「先生の笑顔に花束を」
初めて親しくお話させて頂いたのは1980年、原田依幸(p)、初山博(vib)、望月英明(b)、豊住芳三郎(ds)の『新鮮組』(日本コロンビア) を制作して日本ツアーを行い名古屋の「ラブリー」に出演した際に内田先生が聴きに来てくださって演奏をほめて下さり<あなたも女だてらにすごいねー>とあきれられたことから始まる。
ちょうど10年後の1990年、ジョセフ・ジャーマン(reeds)の『ポエム・ソング』(日本クラウン) をお送りしたところ内田先生からお電話を頂き<わたしはね、ベッドの傍にしょっちゅう聴く愛聴盤を10枚置いておくんだけど、その中にポエム・ソングを入れたよ>と仰ってくださった。
<ライナーもいいしね!>ともお言葉を頂いた。
ライナーを書いていただいた故清水俊彦さんと内田先生は無二の親友だったと伺っている。
そしてその10年後の2000年1月、スイングジャーナル誌「1999年度ジャズ・ディスク大賞」の授賞式で私がプロデュースした渋谷毅(p) の『エッセンシャル・エリントン』が「日本ジャズ賞」を受賞し表彰された際、その会場で内田先生とお会いした。
<エッセンシャル・エリントンは貴女にとっても渋谷君にとっても代表作になるんじゃない>と仰っていただいた。
2006年の1月、新宿厚生年金会館でお会いした。
名古屋から「新宿ピットイン40周年記念 新宿ニューイヤー・ジャズ・フェスティヴァル2006」を聴きに来られていた時のこと。
内田先生は足を悪くされ、車椅子を使われていた。
コンサートがはねて帰る際、ピットインのスタッフが両脇を支えて厚年の階段を下りてゆく姿がつらかったが、その後も内田修ジャズコレクション展示室の開設や岡崎市のジャズの街岡崎名誉顧問になられるなどお元気なご活躍を雑誌などで拝見していた。
晩年は車椅子で不自由にされていましたが、お見かけした時に声をかけると、<おお、元気そうじゃないか、いい女だ!>とニコッと笑って握手を交わしてくださる。
お言葉はいつも単刀直入、ズバッとおっしゃられる方でしたがこの暖かい笑顔が思い出されます。