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特集『ECM at 50』No. 260

私はジャズファンではなく、ECMファンだった。

text by Yoshiaki onnyk Kinno 金野ONNYK吉晃

音楽はまことに心の栄養だ。作曲家イアニス・クセナキスは言った。
「耳は聴かない。知性が聴く」。

1970年、大阪万博、よど号ハイジャックがあった。三島由起夫が自決、そしてアルバート・アイラーが死んだ。フリージャズも死んだ。
私は中学2年生で、世界は無限に広がっていると思われた。
ようやく意識的に「洋楽」を聴き始めたが、関心はヒット曲からすぐに、複雑なアンサンブルや、即興演奏が聞き所となるようなロックに向かった。延々アドリブが続くのはなんでもジャズロックと称され、ホーンセクションが活躍するのはブラスロックと言われた。
ジャズとはなんだろう?ブルースとはなんだろう?
とにかくロックの根底にあるものがそれだと言う。ラジオでジャズの番組を聴いたが何しろ固有名詞がわからない。ジャズとブルースの大海の浜辺に居るような気持ちだった。
ラジオでも当時話題になっていたのはチック・コリアの新しいグループ「リターン・トゥ・フォレヴァー」だった。なにやらロックに近く、聴きやすい印象を受けた。そんなものかと思った。
しかし1971年になって初めて聴いた『ウェザーリポート』にはかなりの衝撃を受けた。リズムがじつにロック的であるにも拘らず、すべての楽器の音が自由に飛び交うのが「見えた」。私はWRを続けて聴くことにした。待望のセカンド『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』はさらにインパクトがあった。
とくにA面2曲目「ムーアズ」のイントロのギターのサウンドは、一体なんと表現したら良いのだろう。エキゾチックというだけではない、なにやら恐ろしく精妙で深い演奏なのだ。12本の弦の響き合うほの暗さの中からリズムがやってくる。しかしアンサンブルになると、私はまた針をイントロに戻した。
そして友人と語り合った。これはまったく新しいと。これはジャズでもブルースでもない!ロックでもクラシックでもない!そうでなくても良いのだ!
そして友人は朗報を齎した。
「あの驚異的なギターを弾いたラルフ・タウナーのソロが出る!」
音響機器メーカーとして知られていたトリオが単独契約を結んだECMというレーベルからだという。初めてレーベルというものを意識したのもこのときだ。
Edition for Contemporary Music! 訳すと「現代音楽の編集」と読めた。当時私は、ラジオの影響で「現代音楽」と「民俗音楽」にもかなり関心があったので、この言葉を聞いてさらに期待が高まった。しかし当時高校に入ったばかりの私の小遣いでは到底LPを買うことが出来ない。しかし友人は買ってしまったのだ!
我々は心してそれ、『ブルージョ』(邦題。本来はブルホ=呪術師だろう。原題は『Trios / Solos』だった)を聴いた。なんということだ。そこではタブラがリズムを担当している!そしてどこまでも冷徹な演奏!
熱いインドのパーカッションとクールな現代ギターの融合。それは全く新しい聴取体験だった。
周囲に音楽好きは多数いたが大方はフォークソング派だった。ジャズやロックに関心の強い連中もいたことはいたが少数派、ましてやECMに惹かれるのは学年で数人もいなかったのだ。
しかし、先輩たちのなかには、すでにトリオが契約するまでに他の会社から単独発売されていたECMの諸作品を聴き漁っている少数が存在した。我々は彼らの家を尋ねて拝聴させてもらったのだ。
『サークル・パリ・コンサート』、『フェイシング・ユー』、『ARC』、チックの『ソロVol.1&2』、ポール・ブレイ・トリオなどである。
それらはすべて新鮮な驚きを齎した。最初は聞き流したリターン・トゥ・フォレヴァーも2枚あり、それぞれが独自の新しさを持っていることを確認した。
そうだ、新しさだ。我々は新しさに飢えていたし、それは次々にやってきた。
トリオが次々とECMの作品をリリースしたからだ。いや、それだけではない。トリオがリリースするジャズレコードは、私の志向を決定したと言っても良い。JAPO、フリーダム、ナジャ、デルマーク、ワット、JCOA。
セシル・テイラー・ユニットの来日に際し、トリオ・レコードはセシルのソロ、そして二枚組ライブの録音、発売という快挙を果たした。
好奇心と貪欲さはそれらを次々に飲み込んだ。が、消化したとは言えなかっただろう。当時私は、ブラクストンの『フォー・アルト』、セシルの『ソロ』、そしてダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』を繰り返し聴いていた。私はそのとき「俺はジャズファンになった」と思い込んだ。それらが本当に栄養になったと思えたのは、20年後だった。
世界が、無限大からどんどん狭くなって行く。それが私の成長だったかもしれない。

私はいつも言う。「ECMが俺のBLUE NOTEだったのさ」と。ジャズというテラ・インコグニタへの最初の上陸地点、それがECMだった。
そのECMを日本に本格導入した人こそが稲岡邦彌氏だった。
氏の発案で日本独自にリリースされた『ECMスペシャル』は本当に嬉しい贈り物だった。ECMの貴重なアウトテイクスの集成が、通常の半額で買えたのである。私と友人はキース・ジャレットの「カウンターフォニミック」を、ポール・ブレイの「セヴンⅡ」を繰り返し聴いた。これもまたそれまでには無い音楽体験だった。
私は自分の音楽観形成の恩師を、竹田賢一、間章、清水俊彦、小泉文雄、柴田南雄、近松敏文と思っている。しかし、音楽観を育てる素材そのものを提供してくれたのはまさに稲岡邦彌氏だったのだ。その意味では稲岡氏は、日々の食事を作ってくれた母親的存在とも言えよう。
そして今回上梓された『増補改訂版ECMカタログ』を手にすることは、私が食べて育ってきた料理のメニューを懐かしく眺めるような気持ちである。
ECMについて書きたいことはまだまだあるのだが、それはまた機会を改め、とにかく今回、我々が手にすることのできたカタログの重さを実感し、幸せに思うのである。有り難う、マンフレート!そして稲岡さん!

 

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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