「海を渡ったSAMURAI ・沖 至」 producer カポネ副島

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text by Capone Soejima カポネ副島

8月25日の夕方、ケイタイが鳴った。
「あの、、沖至さんが先程お亡くなりになりました」
沈んだ声はパリの森田歩さんだった。
彼女はパリに居られない家族の代わりに、1年近く沖さんの闘病生活を支えてくれていた人です。
この夜から沖さんの訃報を知った方々から、私に問い合わせやら弔問やら慰めの電話やメールが殺到した。
詩人白石かずこさんは「ねえ、私どうしたら良いの?だって、私達50年も一緒にやって来たのよ。パリに行って、ベッドから起こして上げたいけど」と嘆き。
ミッシェル・ピルツさんは「最高の相棒を失いました」と大落胆し。
ピアノの渋谷毅さんは「カポネ、がっかりしたでしょう。がっかりするなって言ってもムリだよネ」と慰めを。
ピアノの佐藤允彦さんは「本当に?こうなりゃ是非とも、沖やんとのDUOをCDにしなけりゃ!」と前を向かせてくれました。

翌日、前夫人のイレーヌさんからメールが届きました。
「綺麗な病室で沖さんは、私達の娘ミカと歩さん夫妻と私の4人で見送りました。和やかな最後でした。ミカは昨夜は沖さんの部屋に泊まりました。
想えば、沖さんはSAMURAIそのものという人でした」

50年位前、沖さんにこんな場面がありました。彼の腕に蚊が止まってるので私が教えると、叩き潰さずソッと手で追い払ったのです。優しい人だなぁと思いました。
その数ヶ月前の沖さんは究極の選択を迫られていました。
『スイング・ジャーナル』誌の読者投票で日野皓正さんを押えて1位だった沖さんは「日本のジャズを創らなければ」と、フリージャズへの転進を決意します。
このことを妊娠中の奥様に説明すると「家族と音楽とどっちが大事なの?赤ちゃんという大事な家族が増えるのよ」と猛反対されます。
たとえ家族と別れることになっても自分の信じる音楽へ進もうと、沖さんは離婚を承諾します。

1969年スタートしたニュージャズホールで、沖さんは様々な実験に挑みます。バケツの水にラッパを突っ込んで吹いたり、ゴムホースにマウスピースをつけてみたり、五線譜に見立てた針金の下を泳ぐオタマジャクシを見て演奏したり。諏訪優、白石かずこ、吉増剛造さん等と「詩とJAZZ」を演じたり、玉野黄市、山海塾など舞踏と共演したり、大胆な企画に飛び込んで行きました。

1974年沖さんは《ヨーロッパ永住宣言》を発してパリに飛びます。到着するとなんと、その夜に仕事が待っていました。
ところが、彼は「フランス語は気色悪い」と辞書すら持って行きませんでした。そんなことも手伝ってか、ヘミングウェイの『老人と海』の老漁師の様に、いくらあがいても仕事が入って来ません。
そんなこんなで半年過ぎたが、その間食事は長ネギ炒め+バゲット+1本百円のワインで通したと言います。
そしてある日ニュージャズホールで知り合ったミッシェル・ピルツを思い出します。ドイツのケルンまでの片道切符を買うと、財布は空でした。
駅からピルツさんの町までバスで相当の距離だが、歩くしかありません。真冬の凍てついた道を歩く内に足は凍え強烈な腹痛に襲われ道沿いの畑に倒れ込みます。
「ほんま、こん時はここで死ぬのか」、そう思ったそうです。
かなり時間が経った頃、やっと通り掛かった車に拾われて、何とかピルツ宅に辿り着きました。
「地獄で仏の有難さがようけ判りましたワ」と真顔で述懐していました。

やがて、アラン・シルヴァさんのオーケストラから声が掛かり、同時に彼のジャズスクールの教頭格で後進の指導の場を得ることになります。
その後、管楽器のメンテでも有数のリヨン市に移り、この町の蚤の市で中古ラッパを発見しその魅力にはまります。ラッパを入手する傍ら、楽器工房で修理の技を習得して行きました。これが沖至をヨーロッパでも有数なトランペット・コレクターにするきっかけとなったのです。
サキソフォンで有名なアドルフ・サックス製作のトランペットを始め、400本を超えるコレクションは全て演奏できる様に調整しました。更に沖さんオリジナルの朝顔が2つあるトランペットは多くのミュージシャンから製作依頼が舞い込み断るのに苦労したそうです。
これらのトランペットを並べた展覧会は時々開かれ、当時のオランド大統領も観に来たそうです。
沖さんは「オレの演奏料よりコイツらラッパの陳列料が高いんだゼ。ヘビーよ〜」と目を細めていたが、可愛い子ども達といった風情だった。出来得ることなら、沖さんの可愛いラッパ達が散り散りにならないことを祈りたい。

© Capone Soejima @Lyon

副島輝人がパリで沖さんに会った時にこんな言葉を聞いたそうです。
「ボクね、例えば今、舟が何処に居ようが、羅針盤はいつも必ずフリースタイルの方を向いている。そう思ってやってるんです」
兄は、「さすが沖やん、上手いこと言うナ」と微笑していた。
その沖さんに、フランス国営放送から
「今年度の作曲家大賞にあなたが選ばれました」と出席確認の電話が来た。
沖さんは、その場で断った。
「だってオレ、インプロヴァイザーじゃん。コンポーザーで賞を貰ったら恥じゃないですか」と言う。
私は勿体ないと思った。
するとこんな話もしてくれた。
有名なジャン・ジャック・アヌー監督から、『愛人〜ラマン』の音楽依頼が来た。監督と話してる内に、「アジア人のミュージシャン」役もしないかと言われた。
その上、「髪型は弁髪にしてくれ」と言う。
この要求を断固拒んだ沖さんは、結局音楽も降りてしまった。
自分はインプロヴァイザーだという自覚が彼をそうさせたのだろうが、「何もそこまでしなくても」と思うのは、私だけなのだろうか。

そう言えば、三重県のタウンホール支配人だった時、私は沖至のコンサートを企画した。
「沖さん、やってみたい事があれば何でも言って下さい」
すると彼は、「やっぱトランペッターだったら、一度は with strings をやりたいですワ」と喜んでくれた。
そのライブ盤が、『沖至六重奏団 with strings』というCDです。

話は数年前のことだが、「カポネ、オレ達100歳まで生きましょうネ」と迫られた。
「そうね。頑張らな、ネ」と返すと、
「ステージでヌシコク(〝死ぬ″の隠語)の夢ですよ。木口小平は死んでもラッパを離しませんでしたってネ(日露戦争でヒーローとなった喇叭手。正露丸のパッケージにラッパのマークがあるのは、この実話が元)」。
その沖さんが早々と先立ってしまうなんて。
今年の2月には闘病中に幾つかの奏法を考え出していて、「ボク、カンバックしたらズッと良くなってますから」と自信満々だった。
3月末には、医師から「8月末か9月には演奏旅行も良いでしょう」とのご託宣ももらえた。
想えば、昨年11月のニュージャズホール50年記念イベントに、沖さんは打楽器のyas-kazさんと雅楽奏者4人を入れた6重奏団を企画した。しかし、喉の違和感から検査入院を余儀なくされ、来日は取り止めとなり、急遽原田依幸さんに代打をお願いした。
尺八と琴という邦楽奏者を父母に持つ沖さんは一体どんなサウンドを描いていたのだろうか。
私は今年の秋にはそれを聴けると思っていたが叶わなかった。
しかし、沖至本人こそさぞかし無念だったことだろう。
彼は亡くなる2日前に、こう語ったという。
「出来ることならば、日本へ行って演奏したい。短期間で良いんだ。でも、恐らく実現しないだろうけど」


カポネ副島恒次(かぽね・そえじまつねつぐ)
1941年、東京・世田谷に生まれる。成城大学経済学部卒。
東宝、国際放映を経て、TBSに入社。
制作現場に配属される前は、沖至のマネージャーも兼務。その後、『8時だョ!全員集合』のディレクター。『クイズダービー』、日本人初の宇宙飛行士を生んだ『宇宙プロジェクト』のプロデュースを経て、三重県のタウンホール支配人を務める。
昨年11月には、兄・副島輝人の始めたニュージャズホールの50年周年記念イベントのプロデューサーを務めた。

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