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R.I.P. 近藤等則No. 271

「近藤等則さんの追悼のために」 improvisor 金野onnyk吉晃

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野 Onnyk 吉晃

若き日の近藤等則さんが語る、当時の現状と展望、そして自らの修業時代と後進への自筆の助言を拾って来た。

(  )内は補足。…は省略箇所。抜粋含め、これらの責任は金野にある。

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「その頃(大学時代)にはクリフォード・ブラウンが一等好きになっていた。なによりも彼の音の輝きに魅せられた。…三〇曲程ブラウンのソロをコピーしたが、自分のテクニックの未熟さをいやという程知るばかりだった。…ブラウンのソロは、今やトランペットにとって最高の古典的な練習曲の一つだ。

実際の演奏の時には、ブラウンのように吹こうとはしなかった。出来るだけ自分自身の音を出そうと思って吹いた。しっちゃかめっちゃかに音を出して終わる事がほとんどだったが。」(”SANDU”の譜面を添付している)

「(『マジオ金管教本』について)この本は、今まで僕が出会った教則本の中で最も素晴しいものだと思っている。」

「(サックスの多様な表現力に憧れ、トランペットの難しさに悩んでいた頃)実際、聞くレコードといえばサックスのものがほとんどだった。中でもオーネット・コールマンは初めて聴いた時、その新鮮さにショックを受け、それに較べエリック・ドルフィーは徐々に僕の中にはいりこみ、気がついた時にはとりこになっていた。確かにブラウンは大好きだったが、彼の中に新しい可能性をさぐることは難しかった。ブッカー・リトルだけが例外だった。…レスター・ボウイが、トランペットのさらなる可能性を僕の前に提示してくれたのは、もう少し後になってからだった。」

「アメリカの黒人はあれ程までに自由をうばわれたがゆえに、みせかけの自由ではない真の自由を目指す事が出来、そのことが彼らの音楽をあれ程生き生きとさせている、僕達はみせかけの自由を適当に与えられているが故に、真の自由に対して盲になっている、それが僕達の生を中途半端なものにしているのだ、ということははっきり認識できたように思う。みせかけの自由とは、例えば結婚の自由とか、職業の自由といった与えられた自由であり、真の自由とは、人間の生命力の中から湧きあがるサムシングを発現しようとする自在さである。」

「音の抜けを良くするために、上前歯二本をサンドペーパーで削った。」

「…自分の体力のなさをなんとかしようと、走った。その頃は西洋式のトレーニング法しか知らなかった。
トランペットの音はまぎれもなく肉体を通して発せられる。この単純きわまりない事実は、しかし、決定的に重要なことを僕に気づかせた。『音を知るなら、体を知れ』である。体を知るということは、西洋的な肉体、筋肉の強化をめざすものとは全く違う。体を通じて心を知るということである。音と体の一体性、心と体の不分離なことを知らねばならないと思った。…(自分はそれを楽器演奏だけでできる才はないので)僕には何か他の助けをかりねばならなかった。僕は玄米菜食、ヨーガ、新体道に興味をもち、実践するようになった。」

「(玄米菜食について)体細胞はたえず分裂し続け、(脳細胞でさえ)新陳代謝をくりかえしている。細胞のもとは血であり、血のもとは食物なのだ。まず食物が人間の基本だという訳である。…食品産業界のつくり出す食品を考えた場合、何でもよく食べるということは、まさにだれかさんの思うつぼで、あまりにも楽天的で無責任ではないだろうか。」

「ヨーガから、僕はまず第一に体をリラックスさせることの大切さを学んだ。…セシル・テイラーの日本公演を聞いて、その底に流れるくつろぎゆえに、いかに緊張に満ちた音楽となっているかを知り、僕達日本人特有のコマネズミのようにせわしない音のありかに気づいた。…くつろぎのない音楽は、決して聴く人の心を解放にむかわせはしない。…ヨーガの呼吸法は、肺の機能を生かすためのすぐれたテクニックで、管楽器奏者はやってみる価値があると思う。ヨーガの危険性は、それがひたすら自己の内部にむかうものであるために、現代社会とのかかわりあいをともすれば見失いがちになるということだと思う。…きわめてすぐれた指導者が必要なことを痛感する。

新体道は、肉体の徹底した鍛錬を通じて、死を正視出来得る心のあり方を求めた先人の生き方を、決して陰湿、悲壮に陥ることなく現代に生かすことを主眼においた新しい武道と言えよう。…例えば、新体道では視線を空のかなたの一点に集中させることが一つの重要なポイントになっている。視線をこうして、トランペットの音をそこまでとどかすつもりで吹いてみてほしい。…外にむけて自らを開くことの不得意な僕達日本人にとって、こういう練習によって、自らの音をよりかわいた、開放的な音にしてゆく必要があるのではないか。」

「…サックスやドラムのもつ『強さ』にあこがれ、それに対抗しようと練習した。しかし、それは結局トランペットのもっている『弱さ』をこそ生かさねばならないことに気づくための過程であった。…『弱い』がゆえに気づき、『弱い』がゆえに出来る音楽を目指したい。出す音の力は自分を圧迫し、他者を圧倒するものとしてあるのではなく、自分と他者の開放へのはずみ車みたいなものであるはずだ。」

<以上、近藤等則「トランペットを目指す人達に」、JAZZ誌、1976年8月号掲載記事より抜粋>

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「…EEUは基本的な一つの姿勢で一致しているから持続できるんだと思います。」

「(アンサンブルにおけるインタープレイという概念を批判したスティーヴ・レイシーの言葉を引いて)『けれど今度はそれに変わる全体の動き続けるサウンド・ストラクチュアーと個々のミュージシャンの自発性の間に回路を設けねばならないのです。いわゆる低い次元でのコミュニケートと馴れというものはできるだけ排して、もっと高い次元で自由なアンサンブルを生み出さなくてはならないのです』という言葉は、本当にEEUが目指し、やりたいと思っているところじゃないかな。」

「フリー・ジャズが六〇年代後半にあるひとつの明確な形をとって盛りあがったでしょう。あの頃のすべてをとっぱらって演りまくるという形のフリー・ジャズは、黒人運動が盛りあがったあの時代においては、ある種のアナーキーな自由さをその音の中に感じたわけです、実際に。しかし状況の変化と共に、それはすぐ形骸化して、いわゆるフリー・ジャズの形だけが残った。最初は高木さんにしてもぼくにしても、吉田君にしてもそれをやってきたのだけれど。ババッーと吹いてね、その瞬間、自分の気持ちの高まりも、汗を流して肉体的な快感もあるけれど、やがてたまらなくなってきたのです。」

「フリー・ジャズはドラムのもつ権力性によって足枷をされてるんじゃないかという事に段々気がついてきたんです。ドラムによって音の方向が規制されてしまう面が強いのがわかってきたのです。…そしてもっと自由なアンサンブルが出来るんじゃないかと実感してきて、やっとぼくらもドラム・レスの意味がわかってきて、今まで続けてやってきているんだけど。」

「三人で演ってる事のきつさが今はある。例えが変だけど、椅子が立つには最低三脚が必要でしょう。一脚でも欠けたら倒れてしまう。三人ってのはグループで演るぎりぎりの状態だと思う。デュオになったら関係が全然違ってくると思うし、ソロも全然違う。三人のグループ演奏が、アンサンブルの一番微妙で色々な事が露骨になる形だと思う。仮に四人いたら、自分が駄目だと思ってパッと抜けても、まだ三人いるから椅子はたおれない訳です。」

「ぼくらは出来上がったものを聴いてもらうというより、一回一回、何時も過程なんです。だから一回よりも二回、二回よりも三回って聴いてもらってその変わり方や違いをみてほしい。…でも当然ぼくらは一回一回の演奏に賭けているわけだけれど。」

「グループで演っても、それはまず個人ひとりひとりの作業ですから。そのうえグループがあるわけだし、個人があってはじめて集団があると思います。」

「ミュージシャンが自主的に活動をやっている時には、実際には協力してくれる人達がいなければ出来ないですよね。しかしそれを強制するのか、理解して自発的にやってもらうのか…」

 

「(舞踏家と一緒にイタリア・ツアーすることについて)ある意味でぼくらの音楽が駄目になるか、駄目にならないかの試練みたいなところがあるのです。踊りと一緒に演る中で、積極的に自分らの音をもっとふり返る、反省の場なり意欲的な場にしなければならないし、それこそレイシーの言葉じゃないけれど、高い次元でのアンサンブルができるようになるか、どうか……….。」

「異質なものとふれ合う中で、個人が受けた刺激が当然グループにあらわれてくる。グループというのは、何回も言うけれど、個人があってはじめて出来る。ぼくらはそれを絶対逆にしたくないですね。」

<以上、座談会「自主活動と演奏の“場”」(1977年3月8日、E.E.U.; 高木元輝、近藤等則、吉田盛雄)JAZZ誌、1977年4月号掲載記事より、近藤氏発言から抜粋>

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初々しく、純粋な近藤等則がここにいる。
「私の中に、少年の私がいる」と語ったのは、83歳の映画監督アレハンドロ・ホドロフスキー(2013年の自伝的映画「リアリティのダンス」で自ら出演したワンシーン)。
「大人は自分自身を意識するだけでなく、かつて自分がそうであった若者をも意識している…」、つまり「若者は大人の無意識である」(ウラディーミル・ジャンケレヴィッチ。倫理学者にして音楽家)。

若く、ナイーヴな近藤等則がここにいる。
71歳の老水夫のなかに、即興演奏の大海に漕ぎだしたばかりの若者がいた。
さようなら。いやボンヴォヤージュ。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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