近藤等則とエレクトリック・トランペット~2000年代の近藤等則とその機材たち
editor/engineer 沼田 進
text by Susumu Numata 沼田 進
近藤等則は、自身をエレクトリック・トランペット奏者と称していた。
エレクトリック・トランペット;
“俺がガキの頃、何でジャズに憧れたかというと、ラッパの音一音聴いただけで、サッチモだ、マイルスだ、クリフォードだとわかる事が、スゲーと感動したから。ここまで自分の音色を出せるとは!
ロックだってそうだ。ジミヘンがストラトのエレキギター、マーシャルのアンプ、ワウやファズのエフェクターに出会わなかったら、無名のブルースマンで終わっていたかもしれない。
俺がエレキトランペットに固執したのも、ジャズトランペットの先輩達が推し進めた音色の追求を更にブッ飛ばしてやろうと思ったからだ。楽しかったが、結構シンドイ作業でもあった。
だってエレキトランペット用の機材なんて売られてない。エレキギター用かスタジオ用の機材を使うしかなかった。前にも書いた様に、周波数帯域の違い等で四苦八苦。それに誰もやってないんだから、一人で悶々とやるしかなかった。(2013年6月 池部楽器店インタビューより)”
近藤等則はそのエレクトリック・トランペットのシステムづくりを「研究・開発」と呼んだ。
京都大学工学部に籍を置いた経歴。川崎のプライベート・スタジオの機器群も、出来るものは自身で修理していた。そうした彼だからこそ、自然に発せられた言葉なのであろう。
前例のない、だからこそ自らの進むべき道として、文字通り終生においてエレクトリック・トランペットの「開発」を続けた近藤等則。
“エレキラッパの最重要点は「マイク」と「プリアンプ」”
口元のマウスピースに“仕込む”スタイルのバーカスベリー(braces-berry)社のピックアップ・マイクからスタートした近藤等則のエレクトリック・トランペット用マイク。その後、トランペットのベル側(ラッパ側口)へのマイクのセッティングも試みながら、2000年代、デンマーク DPA社のミニチュア・マイクロホン『4060』と出会う。
この高性能マイクを「マウスピースへ“仕込む”」ために、マウスピースへ特注で旋盤加工を施し、自ら内部の細かな処理を行った。
“口元でピックアップするのが、音にスピード感があっていい”
この後、変わることなく近藤等則のサウンドの要を担う、重要なマイク・システムが完成する。
そこから、マイクロホンの信号を受け取るためのプリアンプへ。
“プリアンプを何度変えたか、もうだいぶ忘れてしまったが、Alembic, Custom Audio, ………
とエレキギター用の機種を色々使った。いつも問題になったのが、エレキギターとトランペットじゃあ周波数帯域が違うので、おいしいポイントがうまく決まらない。
それでスタジオ用のプリアンプに切り替えた。これも色々試したが、落ち着いたのが『Rupert Neve Designs Portico 5032』。
・・・2011年の夏だったか、ヨーロッパ・ツアーの最中、リスボンの空港で機材がロストバゲージとなり、結局出てこなかった。もう一度Neveを買うのもシャクなので、新機種を探した。
それで見つけたのが、apiの『Channel Strip』。音のファットさに少し欠けるが、ハイの抜けは良くなった。EQのポイントがシャープだからかもしれない。
(2013年5月 池部楽器店インタビューより)”
更に、上記インタビュー後間も無く、apiのプリアンプにもトラブルが生じたきっかけで「やはり(ひとつ前の『Portico 5032』と同サイズの)コンパクトなプリアンプを。」と新たな機種の検討に入り、英国発祥のPHOENIX AUDIO社『DRS-Q4M Mk2』を選択。以降、この機が終生のマイク入力を担うこととなる。
なお、上記、いずれのスタジオ用プリアンプもEQ(イコライザー)セクションが搭載されたモデルであり、このEQセクションを“トランペットに最適なおいしいポイント”を得るために、かなり積極的なセッティングで活用した。
そうして、プリアンプ、ミキサーを経た信号は、いよいよエフェクター群へと向かう。
トランペット奏者の足元に並ぶエレクトリック・ギター用ストンプ・エフェクター達。その光景が異様であることに、少しでも音楽事情を知る音楽ファンは気づき、目を見張り、驚きを覚える。そして更に、演奏中に手の届く場所に配置されたラックケース上にもストンプ・エフェクターが並び、そのケース内にはスタジオ用エフェクターがマウントされている。
LM楽器奏者、あるいはレコーディング、PAエンジニアであれば周知の、ごく当たり前の認識であるが、実は、いわゆるストンプ・タイプのギター用エフェクターとレコーディング /PA用エフェクターとの間には、その入出力において、相当な電気的な規格の差が存在する。本来、混ぜて使用する事を前提としていない。
こうして、ミュージシャンはスタジオ用の機器にあこがれ、エンジニアはギター用のエフェクターの自由気ままなカラフルさを羨(うらや)む、という光景が生まれた。
近藤等則は、その両フィールドから、自らの望むサウンドを生みだすエフェクターを探し続け、様々な組み合わせのトライ&エラーを試みた。
“俺のエフェクターの使い方の特徴の一つがWhammyをはじめに、Wahを最後に持ってきている事。二つをONにして両方のペダルを両足で踏むと、めちゃスペーシーな音になる。UFOを操縦してる気分というと、わかるかな~、わかんねーだろうな~(^-^)/~。(2013年6月 池部楽器店インタビューより)”
DigiTech社のWhammy(ワーミー)ペダルと最終段のWah(ワウ)ペダル。いずれも同じ様に、足を載せるペダルを操作し、音色に連続的な変化を与えるエフェクターである。特に「ワウワウ」という耳馴染みのある効果で知られるワウ・ペダルに関して、近藤等則は、「メーカーを覚えていない」くらい数多くの機種を試し続けた。そして、この「はじめにワーミー、最後にワウ」のスタイルは、最後の瞬間まで変わることなく使用され続ける。
近藤等則のエレクトリック・トランペットの始まり
1979年、ニューヨークでFred Frith, Henry Kaiser, Bill Laswell, Fred Mar と演奏した時、あまりの音のデカさに、アコースティック・トランペットじゃあダメだと、翌日マンハッタンの楽器店でマウスピースの中にマイクを仕込んでもらい、マーシャルのアンプにぶっ込んで吹いた。これが俺のエレクトリック・トランペットの始まりだった。
それからしばらくは、アコースティックとエレクトリックの両方やっていたが、1984年、東京に帰ってIMAバンドをやり始めてから、エレクトリック一辺倒になった。(2013年5月 池部楽器店インタビューより)
マーシャル(Marshall)のアンプ=王道エレクトリック・ギター用アンプにトランペットのサウンドを“ぶっ込んで”いた近藤等則。
80年代~90年代のIMAバンドにおいて、フリクションのレックと共にステージの両翼を担った酒井泰三は振り返る。
「(IMAバンドの前身)チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンドの頃だったか、僕とレックが初めて近藤さんに会った時、スピーカースタンドに立てられたEVのスピーカーがとにかく印象に残っています。」
この頃、近藤等則は、エレクトリック・トランペット用のスピーカーとして、EV=ElectroVoiceのPA用スピーカーを利用していた模様である。
しかしながら、IMA時代、再度マーシャルにこだわる時期もあった、と酒井泰三は続ける。
「IMAバンドの楽器用のスピーカーを全てマーシャルで、っていうライブもやりました(笑)確か、パルコで。」
なぜマーシャルだったのか?
「近藤さん、ジミヘン大好きだったから(笑)」
そうした試みを重ね、IMAバンド後期の近藤等則は、再びPAスピーカーをエレクトリック・トランペットの拡声装置とし、その後、オランダ/『地球を吹く』時代を経た2000年代においても、様々なメーカー、ブランドのPA用スピーカーを試み続ける事となる。
そう、近藤等則は、常に変化し続けた。
それは、流れに身をまかせる変化、ではなく、自ら悟り、切り拓く「進化」であった。
音楽性をも常に「進化」を求めた。
自らの音楽的なベースは「フリージャズ」である、と口にしていた近藤等則であるが、その「フリー」を基とし、様々なジャンルへのアプローチ、リーチを試み続けた。そしてその試みは、いつも評論家たちを翻弄していた。結果的に「クロスオーバー」という枠さえをも超えた、常に新しい何かに自ら身を投じる、真の意味の「フリー」な音楽性を体現し続けた。
そうした多方面へ向かう数多(あまた)の活動の中、決してブレなかったもの。それは「音」への追求。
例えば、ライブ・ハウスやJAZZクラブといった一般的なライブ演奏が提供されるスペースには、演奏を観客に届けるためのPAシステムが常設されている。演者は、自ら演奏する楽器を持ち込めば良いのである。
そこに、近藤等則は、背の丈以上する大型のPAスピーカー・システムを持ち込んだ。もちろん、自身のエレクトリック・トランペット用のPAスピーカー・システムとは別に、である。
“これまで、アメリカを軸とするロックに対応する音響機材の評価基準は、『音量』だった。スピーカー・メーカーは“ラウドに”再生する方向、音を大きく、効率良く鳴らす事に注力していた。
しかし近年、90年代以降、ヨーロッパのサウンドシステムが台頭し、アメリカ主導だった音響システムの有り方が変化して来た。『音量』ではなく、『音質』にプライオリティーがシフトして来た。
今までのロックを基準とした『音圧』を重視した音の捉え方から、もっとセンシティブで繊細な音楽の捉え方、いわばヨーロッパ的な、『音質』を重視する音の捉え方へ変わって来た。(2013年2月 池部楽器店インタビューより)”
なので、自らが「質」の高さを認めたスピーカー・システムを ライブ会場に持ち込む。しかも、それだけで小規模な音響会社が運営できる程のシステムを。
“例えば、肌着として、「木綿」と「絹」、身に付けた時にどちらの素材が気持ちいいか・・・それは、絶対に「絹」。素材の質が違う。それと同様に、これからは、音楽ももっと『質』を追求して行かなければならない。徹底して『音質』の追求をして行かないと。(同 池部楽器店インタビューより)”
上記の発言中の「例えば、肌着として、「木綿」と「絹」、身に付けた時にどちらの素材が気持ちいいか・・・」のくだりは、実際には「ネーちゃんが、シルクのパンティーと木綿のズロースと、どっちが喜ぶか。シルクに決まってるだろ?」という言い回しであったことは、近藤等則を知る者であれば、容易に読み解くことができるであろう。
話が逸れたが、そう、近藤等則は、肌感覚として、身体的なフィールとして、音を捉え、求めていた。
そして、楽器演奏のために自らの身体機能の向上をも求めた。海外のアーティストに負けない心肺能力を得るべく、ヨガも試みた。そして出会った、『新体道(しんたいどう)』。
“背中で気配を感じられる様にはなった。”
その半生を通じ、その道と共に歩むこととなるトランペット奏者・近藤等則にとって、『新体道』で学び得た呼吸法は、自らを楽器の一部として見る場合の、やはり「開発」、「革新」の一端であったのであろう。
『新体道』と近藤等則の関わりのエピソードを少しだけ。
近藤等則のプライベート・スタジオ、中央正面モニター・スピーカーの間に掲げられた、巨大な書。ややもすると殺伐とするスタジオ風景の中、圧倒的な生命力をみなぎらせ、うごめく「花龍」。これは、『新体道』創始者である青木宏之による書であり、見事に近藤等則のスタジオのあり様を定義づけていた。
さらに。後年の近藤等則のトレードマークとなり、多くのライブ、レコーディングを共にした“黒いトランペット”『spiri daCarbo Vario』。これも、青木宏之から近藤等則に贈られたものである。(正確には、青木氏より「これでトランペットを新調しなさい。」と手渡されたお金を、一度は「すべて飲み代に」してしまった後、今度は確実に、と青木氏が楽器店にまで念を押し、ようやく足を運んだ近藤等則が選んだ品である。)
近藤等則は、2013年、この『spiri daCarbo Vario』を手にした折り、
”音が、ツルッと出る。”
と、大いに喜んだ。そう、スイス・メイドの『spiri daCarbo Vario』は、世にも珍しいカーボン・ファイバーのボディを持った管楽器界の異端児であった。通常の金属菅のトランペットとは異なる響きを産み出し、いわゆる金属的な響きが、当然、薄い。この楽器の、他にない独創的コンセプト、そしてそのサウンドが、近藤等則の琴線に触れた。
新たなる(そして最後となる)この愛機を手にした頃、近藤等則のエレクトリック・トランペット開発は、何度目かの大きな加速の時期を迎えていた。
カーボン・ファイバー製トランペット『spiri daCarbo Vario』が産むダイレクトな響きは、近藤等則のエレクトリック・トランペット・システムのエフェクター群と無類の相性の良さを見せた。
よりクリアに、よりダイナミックに。
そのエフェクター群にも、以降のサウンドの重要な要素となる機器たちとの出会いが続けざまに起きていた。
80年代以降、近藤等則が生涯に渡り、常に求め、変化を続けたエフェクター群。
“アンデス山脈で吹いた時には、機材のセットはもっと大きく、16Uのラックを担いで上がった。それが今ではこんなにコンパクトになって。凄いよな!(2013年2月 池部楽器店インタビューより)”
19インチ機器群のための16Uラック。1U:高さ約4.4cm *16段 = 内寸だけでも約70cm以上。幅19インチ=約48cm、奥行きは各ユニットによりまちまちではあるが、総じて、決してコンパクトではなく、更には、各々が金属製の筐体にパーツがびっしりと詰まったメカ、である。一人でどうこうできる質量、重量ではない。
その巨大な物体が、近藤等則が活動を続けた期間のうちに徐々にダウン・サイジングされ、近年では片手で持てるサイズのエフェクター用ケース+4Uラックで収まる程度の物量にまでなる。機材点数が減った訳ではなく、これは、テクノロジー、機材の進化の賜物である。(それでも、一人のアーティストの機材としては、やはり常識外の物量であったが。)
2015年、日本のRoland(ローランド)社が開発したギター用シンセサイザー・エフェクター『BOSS SY-300』、リリース。自らの音を“変化”させたくてエレクトリック・トランペット開発に臨んだ近藤等則にとって、自らの音をリアルタイムに“シンセサイズ”できる事は、ある種の究極であった事は想像に難くない。それを一台のストンプ・エフェクターで実現出来る時代が、遂に来た。
『SY-300』発売後、Roland社より直ぐにデモ機を取り寄せ、そのままシステムに導入。以降、近藤等則のシステムにおいて欠かせない一台となる。
同じくRoland社BOSSブランドのディレイ・エフェクター『DD-500』との出会いも、カーボン製のトランペット『spiri daCarbo Vario』導入の余波の残る時期の事であった。
いわゆるエコー的な効果を生むディレイ・エフェクターは、近藤等則のサウンドにおいても多用された。それまでに愛用してきたディレイ・エフェクターは、Lexicon社、KORG社、Line6社製といった、19インチ・ラック・タイプのスタジオ用機器であった。齢を重ねてもなお、海外での演奏の為の移動が後を絶たなかった近藤等則にとって、機材、システムのダウン・サイジングは、常に意識し続けたテーマであった。それは、「19インチのスタジオ機器のクオリティーを果たしてストンプ型に代えられるか?」という問いかけでもあった。
そして、出会った、近藤等則のディレイの最終形態。
『DD-500』を選ぶ折、近藤等則のスタジオには複数台の同タイプ・ストンプ・エフェクター群が集められた。その中で、近藤等則の期待以上のサウンド品質で導入を勝ち得たのが『DD-500』であり、こちらも、その後、最後までシステムにあり続ける機材となったのである。
近藤等則のサウンドにおける、もう一つの重要な空間系エフェクトである「リバーブ」に関しては、終生、90年代にリリースされたスタジオ用リバーブの名作『Lexicon PCM80』のサウンドを愛し、購入後20年以上の歳月を重ねた同機を 何度も修理に出し、使い続けた。しかしながら、9インチの、しかも奥行き、重量もたっぷりとある同機は、ライブ用の持ち出し機器としてはどうしても外さざるを得ず、代わりを務めるためのストンプ型リバーブの保有は数種類に渡った。その中から、シチュエーションによってセレクト、使い分けていた。
近藤等則の音に対する感覚の研ぎ澄ませ方は、その「質」に加え、「空間」へも向けられていた。
『地球を吹く』では、地球に届けるための音をエレクトリックで増幅、そのサウンドはその場の環境音に包まれ、いわば自然と、地球と一体化する。この、自らがサラウンド音響の空間内に置かれる中での演奏を重ねてきた近藤等則にとって、屋内での「3Dサラウンド音響」によるライブは、ごく自然な成り行きであった。
2015年11月。会場には、いわゆる平面的に周囲を取り巻く「サラウンド」セットに加え、「高さ」要素までもが加わった3D音響スピーカー・システムが配される。その中で、自らが発音、演奏するライブ。
観客は、たった一人の演者の音に包まれ、浸る。
大掛かりな、かつ、間違いなく最先端のライブ。それを実現させてしまう、近藤等則の底知れぬエネルギー。
近藤等則のエネルギー体は、常日頃のライブ・パフォーマンスに於いても、惜しげなく放たれ、人々を魅了し続けてきた。
最晩年、コロナ下でのライブの「レスポンスの無さ」を嘆く近藤等則がいた。
近藤等則の放つエネルギーは、受け止め手があるからこそ、成り立っていた。それは、時に地球に、そして集いし人々に。
亡くなる約1年前の2019年10月29日、前年2018年に25年ぶりの再結成を遂げたIMA21を率いて行われた。このIMA21での事実上のラスト・ライブの模様が、その会場の熱さそのままにパッケージングされ、音源化された事は、やはり奇跡的であったと言えよう。(2020年6月リリース『KONDO IMA21 LIVE TYPHOON 19』)
本編では、主に2000年代から最晩年までの近藤等則のエレクトリック・トランペット・システムを軸に、筆者の関わりの範疇で総括してみた。
本編で語る事が叶わなかった、近藤等則の音楽活動における独特な制作理念、思想、そして音質へのこだわりのあり様については、また、どこかの機会で触れる事ができれば、と思う。
尋ねたいことは、まだまだあった。
何より、もっとその音を聴きたかった。
今は、近藤等則が、その生き様の記録として残した真摯な「音」を前に、ただただ感謝し、途絶えさせない記憶として記録し、後世に伝えるだけである。
沼田 進 (Susumu Numata)
学生時代より音響機器・楽器レンタル会社にて、PA・技術スタッフとして勤務。その後、楽器店のレコーディング機器専門フロアに製品アドバイザーとして従事、コンテンツ、動画制作業務にも携わる。
近藤等則、濱瀬元彦、オノ セイゲンらのライブ、機材レポートをWEBコンテンツとして執筆。
作曲家として楽曲提供他、レコーディング・エンジニアとして後年の近藤等則の活動に参加、いくつかのアルバムがリリースされている(近藤等則アルバム『KONDO IMA21 LIVE TYPHOON 19』、『Live at Hot Buttered Club』etc.)。