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R.I.P. 橋本孝之No. 278

橋本孝之さんのこと by 美川俊治

text by 美川俊治 Toshiji Mikawa

5月10日に.es、kito-mizukumi rouber、UHなどのユニットやソロ、その他多くの方とのセッションと実に幅広く活躍していた、橋本孝之さんがガンのため不帰の人となってしまった。彼と初めて出会ったのはいつのことだったのか、今となっては全然思い出せないのが情けないのだが、もう10年以上前のことであったのは間違いない。

非常階段が京都で演奏した時に、.esのお二人が見に来てくれて、リハと本番のわずかな時間に三人で飲みに行ったりしたのはなんとなく記憶に残っている。.esで橋本さんとデュオをなす saraさんが私の旧知であったことから、コンタクトしてきてくれたのだ。saraさんによれば、私と知己を得たいという意向が橋本さんにあり、それを受けてそのようなことになったとのことだが、誤解を恐れず正直に言うと、その頃の橋本さんは、私にとっていささか「調子ええやっちゃな、ちょっとウザいなぁ」という感じがしていたように思う。その時は何故そう感じるのかは良く分からなかった。その後、彼らが私を大阪に呼んでくれて、.esの本拠地であるGallery Nomartでセッションをしたのは2012年9月1日、その翌日には、難波ベアーズで共演ライヴを行った。両日の演奏は、香港のRe-RecordsからCDとしてリリースされている。基本的にはピアノとサックスのデュオである .esに私がエレクトロニクスノイズで絡んでいくというのは、私にとっても斬新な経験であった。音を重ね合わせて、音で会話をしたことで、私が抱いていた彼に対するネガティヴなイメージは雲散霧消したのだった。

2012年9月2日 難波ベアーズ
Photo by Sachio Hata

それから何度か、.esとの共演を行ったが、近年はその機会はなかった。今年こそはと、年始の挨拶で毎年のように再共演を誓い合っていたのだが、実際のところ、.esと一緒にやったのは2016年8月の六本木スーパーデラックスが最後だった。橋本さんの演奏を最後に見たのは、その2年後の2018年9月、彼が加入したkito-mizukumi rouberと共演した時のことだったから、これももうずいぶん前の話になってしまった。出会った最初の頃から思えば格段に演奏の幅を広げ深みを増した彼の表現は、褒め過ぎかもしれないが唯一無二の境地に達していたように思う。フリージャズと呼ばれる音楽で往々にしてありがちな、行き場のない暑苦しさは微塵もなく、にもかかわらず、力強さと鋭利さとしなやかさが同居する不可思議な音空間を、手にする楽器の別にかかわらず常に創出していたのは特筆されるべきことだ。しかし、彼と演奏を共にする機会は、今にして思えば驚くほど少なかった。共演・セッション合わせて多分八回ほどでしかない。回数を重ねれば良いというものではないのは分かっているが、これはやはり悔やむべきことなのだろう。音楽家橋本孝之の姿をもっともっと見たかったし、体験したかったし、その行く末を見届けたかったという想いは今でも強くある。

一方、音楽の現場を離れて彼と言葉を交わす機会はそれなりにあった。もちろん、仕事の上で会話したとかそういうことではない。まあ、要は音楽繋がりの遊び友達との呑み会といった体だが、その中で記憶に強く残っているのが二つある。一つは、単身赴任していた彼のマンションに音楽関係の友人で押しかけて料理しながら酒を酌み交わすという、持ち込み呑み会であった。自炊ということを全くしない彼のマンションには、ダイニングキッチンはあるが調理器具が殆どなかった。仕方がないので、参加者各人が材料を含めなにがしか持ち寄ってキムチチゲだのなんだのを作りつつ、酒をあおった。当然、馬鹿話に花が咲く。彼は料理はしないのだが、場所を提供したホストとしての振る舞いは完璧で、もてなしの極意を心得ているなという接客態度だった。そう、友人呑みなのに「接客態度」という言葉が相応しいのだ。酔いが進んで思考能力が低下していく中で「なんなのこれ?」とか思っていたのだが、結局、それは彼が優秀な営業マンであることを意味しており、そのバックボーンとして皆が認める人格者であることの証左に他ならないのだった。その真摯な態度は、酔っ払って彼のマンションを辞した私と入れ替わりに参戦した、岩田裕成さんに対しても変わらず向けられたのは言うまでもない。

もう一つは、中華茶房8の赤坂店でサシ呑みした時のことだ。この時は、音楽の話のみならず様々な話をしたのだが、彼から繰り返し「仕事と音楽の両立」について尋ねられたのが印象に残っている。「いや、お前(=筆者)のやっているのは音楽等というものではない」とお叱りを受けそうではあるが、それは措くとして、大手広告代理店に勤務しつつ様々な音楽活動を志す彼にしてみれば、音楽と言えるかどうかはともかく(くどい)、そういうものを学生時代から就職後もなんだかんだ紆余曲折はあるもののなんとか続けてきている私の話を聞いて参考にしたいのではないかと思えたので、出来るだけ真摯に思うところを説明したつもりだが、話しているうちに、最初にコンタクトしてきた時に「ウザいと感じた」ことを思い出した。考えてみれば、音楽関係者で私の周りにいる人間の多くは、相応に胡散臭い感じがするのが普通なのだが、橋本さんは初対面の時から真っ当な社会人感全開で、彼との会話は職場で仕事先の方と交わしているかのような印象を無意識のうちに抱いてしまっていたのだと思う。「.esと銘打った即興ユニットをやっているということなのに、えらくまともじゃん」という意識下の驚き、それが「ウザい」と感じさせる違和感に繋がっていたのである。既に十分親しくもなっており、そのような感覚は全く忘れていたのだが、この時改めてそれを意識した私は、彼の問いに対して「こういう(金にならない)音楽(のようなもの)を続けていくためには、まずは生活の経済的基盤を確保する必要がある」という私の長年の信念をもって真摯に回答したつもりだが、それを聞いた彼が「誠に我が意を得たり」というような表情になったのはよく覚えている。だから、3月に突然電話をもらって、月末で退職して大阪に帰るという話を聞いた時、その背後で動いていた事情を知る由もなかった私は些か訝しく思ったものだ。だが、その後、Nomartの林聡さんの投稿を見て、何が起きていたのか知った私は、橋本孝之はやはり橋本孝之であったとの思いを強くしたのである。

ということで、橋本孝之さんという人物の人となりを知ってもらいたくて、音楽を離れた一面についてあまり他の人が書きそうにないことを書き連ねてみた。単に優れた音楽家というだけではなく、真っ当な社会人にして人格者としての側面もあったということだし、それは間違いなく彼の本質であった。これは追悼文だが、人間橋本孝之に対する追悼文なのであり、そういうことに言及することも必要だろうからそれはそれで良いだろう。しかし、一方で、追悼ばかりしていても始まらないとも思うのだ。素晴らしい音楽家であった橋本さんや先にも名前を出した岩田さんが志半ばで早世したというのは、ご本人にとっての無念はもちろんのこと、世界にとっても大きな損失だし、彼を、彼らを悼む気持ちはもちろん人一倍ある。橋本さんが亡くなったことを知った時は、混乱し、泣き、色々なことを悔やんだ。ご家族や関係者の方々のお気持ちを思い、悲嘆にくれた。だがしかし、いつまでも無念だ、残念だ、悔やまれるとばかり繰り返していても仕方がない。涙をぬぐい、頭を上げて、前に進んでいく、それが生き延びている者の責務だろう。結局のところ、言いたいことはそれだけだった。

 



美川俊治 Toshiji Mikawa
会社員。ではあるが、非常階段、Incapacitants、mn(沼田順とのデュオ)、MikaTen(tentenkoとのデュオ)、GOMIKAWA(五味浩平 a.k.a. Painjerkとのデュオ)、UNDER-T(Yvko Under とのデュオ)等のメンバーとして、長きに亙りノイズ即興を続け、また近年ではソロやその他の多くのアーティストとの共演という形でのライヴ演奏も活発に行っている。作品多数。

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