ミスター・ジャズ祭〜野外ジャズ・フェスの父、ジョージ・ウィーン氏死去 by 外山喜雄
text by Yoshio Toyama 外山喜雄
photos ©Yoshio & Keiko Toyama 外山喜雄・惠子
1954年、NYロングアイランドの保養地、別荘地としても知られ、富豪のお屋敷が立ち並ぶニューポートで開催された初めてのニューポート・ジャズ祭。こうした野外音楽祭は、その後どんどんポピュラーとなり、ジャズ界のみならずロック、クラシックその他分野にも拡大、数々の伝説を生むイベントとして世界に広がった!!!こうした‘世界的傾向’となった野外ジャズ・フェスティバルの『父』とも呼ばれるジョージ・ウィーン氏が、9月13日(月)NYマンハッタンの自宅で亡くなった。95才、NYタイムスは『ジャズフェスの先駆者逝去』と同日、2,000語を超える長文の記事を掲載した。(英語の発音がウエインかウィーンかは微妙だが後者に統一)
ハリウッド映画『上流社会』を生んだニューポート・ジャズ祭
野外でのジャズ・フェスは、草分けとなった第一回ニューポート(1954)以前にも1948年パリとニースで開催されている。しかし、ニューポート・カジノや、周囲のテニスコート等スポーツ施設をも会場にするという大スケールのものは、この時が初めてだったという。1958年のニューポート・ジャズ祭の模様は、名写真家バート・スターンが監督を務めた『真夏の夜のジャズ』として映画化され大ヒット、以来ニューポートは世界的名声を得ることとなった。(『真夏の夜のジャズ:4Kデジタル版』が、2021年夏、KADOKAWA からブルーレイで発売されている。)
映画となった翌1959年、ジョージ・ウィーンは『ニューポート・フォーク・フェスティバル』も開催、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ等のフォーク・ミュージシャンが有名になるきっかけも作っている。1965年のディランの『(電気)エレクトリック・バンド』での演奏は、フォーク界に電撃的衝撃を与えたという。1969年の『ウッドストック』の伝説も、ジョージの『ニューポート』の成功が無かったら生まれなかったのかもしれない。
ニューオリンズでジョージさんと知り合いに!
ジャズの故郷ニューオリンズで長年開催されてきている『ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』もジョージ・ウィーンの発案で、1970年に第1回目が開催され、もう半世紀、50回の開催を超えているはずだ。私達外山喜雄、恵子がニューオリンズ・ジャズ武者修行で、1971年4月、2度目の渡米をしてすぐ『第2回ジャズ&ヘリテイジ』が開催され、誕生間もない時代の『ジャズ祭』を体験し、72年は英国の楽団とヨーロッパを楽旅中だったが、翌1973年には出演の機会も頂いた想い出のジャズ祭だ。
当時ジャズ・フェスは、『コンゴ・スクエア』と呼ばれた公園を中心に開催されていた。現在サッチモの銅像が建ち『ルイ・アームストロング公園』となっている『コンゴ・スクエア(広場)』は、昔奴隷たちが日曜日に集まってアフリカの踊りを踊った場所としてジャズ史に知られる。
私達のニューオリンズ・ジャズ修行の学校となったのが『プリザベーション・ホール』だった。サッチモ(1901年生)よりずっと高齢のジャズ・パイオニア達も演奏する〈伝統ジャズ保存館〉。音楽学校でもジャズ学校でもなく、来る日も来る日もフリーパスをもらったホールに通い、『門前の小僧』式にジャズの原点のリズムを体に染みつける毎日!私達のアパートはホールのすぐ裏手、部屋の中にまで懐かしい『マイ・ジャズ・スクール』の音が聞こえてきたものだ。
このホールを世界的にしたオーナーのアラン・ジャッフェには大変可愛がってもらった。彼はユダヤ系で、1960年代にホールを任されると大変な手腕を発揮、『ジャズの原点』としてのプリザベーション・ホールの名声を世界的なものにし、ニューオリンズ・ジャズ復興の立役者となた。ヘリテイジ祭のアイデアと共にニューオリンズにやってきたジョージさんとは、同じユダヤ系という事もあって、『家族愛』も感じるような関係になっていた。お陰で私達もジョージさんと当時親しくさせて頂いたのが、大変懐かしい。
ジャッフェとジョージさんが意気投合し『ヘリテイジ(ニューオリンズの遺産)・フェスティバル』のアイデアが生まれ、ジャズのみならず、ゴスペル、ブルース、ソウル、カントリー、そしてフォークアート、ソウルフードまでを提供するジャズ祭のアイデアが生まれ、この時からジャズ祭の新しいジャンルが作られたと思う。コロナ禍で現在休止はしているものの、『ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ』は、現在世界を代表するジャズ・フェスのひとつとなっている。
株式会社フェスティバル・プロダクションズ発足『世界規模の帝国』に
NYタイムスの記事をもとに、ジョージ・ウィーンとジャズ・フェスの軌跡を少したどってみよう。
ニューポートにジャズ・フェティバルの将来を見たジョージさんは、1960年『フェスティバル・プロダクションズ INC』を設立、彼のアイデアはとどまるところをしらず、奥様で黒人美女のジョイスさんを副社長に、彼の会社は、世界中で『ジャズ・フェス』を開催するいわばジャズ祭の『世界規模の帝国』となっていく。一時期、一年に世界50都市でジャズ・フェスを開催しツアーを仕切っていたこともあるという。日本でも1982年から2003年、ニューポートが斑尾で開催された良き時代があった!
初期のニューポート出演を通じてチャンスをものにしたジャズメンも少なくない。コロムビア・レコードの大プロデューサー、ジョージ・アバキアンの目にとまり、マイルス・デイビスはメジャーデビュー、そしてその後の道をたどった。当時人気が下降気味だった偉大なデューク・エリントンにも、ニューポートが人気回復の機会となり、コロムビアからのライブ盤リリース、そして雑誌『タイム』の表紙になるというビッグな機会をも提供している。ロックが台頭し、ジャズの地位が奪われ、ジャズがどんどん落ち目となって行った時代、ジョージ・ウィーンは後のジャズ界に『真夏の夜の夢』のようなきっかけを作ってくれたわけだ。
ジャズ・ピアニスト、ジョージ・ウィーン
ジョージは1925年、ボストン近郊で1925年、お医者さんの父と、アマチュア・ピアニストだった母の間に生まれた。8歳からピアノを始めジャズ・ピアニストを目指し、大学卒業後はプロのピアニストとして活動を始めている。テディ・ウィルソン系の演奏で、ご自身の趣味的にはデキシーランドからスイング系の中間派と呼ばれるジャズが大好き。コルネットのルビー・ブラフなどと、必ずニューポート・オールスターズとして『ジャズ祭に出演』もしていた。93歳となった2019年にも、久しぶりに演奏を披露したそうで『これがジャズ・ミュージシャン・ジョージ・ウィーン最後の舞台です』とアナウンスしたという。
ジョージのピアノは、ちょっと失礼だが、『おめでたい』ところのあるピアニスト(笑)...本人もピアニストとしてやっていく自信はなかった...と語っている。私も、某有名ピアニストとジョージの話題になったら、「ピアノが弾けるつもりなんだから、全く...」と、ちょっと敵意も込めた言葉が返ってきてびっくりしたことがある...ジャズマンの中には、ユダヤ人への人種的な偏見もあり、『あの商売人』という感情を持っている人が多くいたことも確かである。1960年には、こうした反感から、マックス・ローチとチャーリー・ミンガスが、『反乱フェスティバル』をニューポートで対抗して開催するような動きもあった。しかし、『商売人』でありながら、ジョージさんがあくまでも『大きな夢を追いかける』人だったことを感じるのが、1954年ニューポート・ジャズ・フェスティバルは赤字だった、という事実だ。
赤字だったフェスティバル
『ニューポート』の始まりは、ジョージさんがジャズ・ピアノ一本の人生に不安を抱き、1950年ジャズクラブ『ストーリービル』をボストンで開業したことがきっかけだ。ある日クラブを、ニューポートのお金持ち夫妻で、ジャズファンだったエレイン・ロリラードさんとご主人が訪れ、自分の街でジャズ祭を開催したいと相談を持ちかけてきたのだ。
(1956年に公開されたハリウッド映画『上流社会』は、グレース・ケリー、ビング・クロスビー、フランク・シナトラが出演、大ヒットした名画だが、モデルとなったのは、ニューポート・ジャズ祭を主催する大富豪...エレイン夫人の写真は、グレース・ケリーにイメージがダブり面白い!)
夫妻がスポンサーとなり2万ドルを出資、コロムビア・レコードのジョージ・アバキアン、ジョン・ハモンドの知恵も借りて開催された初回ジャズ祭には、ビリー・ホリデイ、ディジー・ガレスピー、オスカー・ピーターソン、エラほかのスターたちが出演、新アイデアのジャズ祭には2日間で何千人もの観客が訪れ、映画『上流社会』のアイデアとなるほど多くのメディアの注目を浴びる結果となったのだ。しかし、その収支は、わずか142ドル50セントの黒字。それも、ジョージさんが5000ドルのプロデューサー料を辞退しての黒字だったそうだ!ロリラード夫妻は1961年まで資金的支援を続け、ジャズ祭は『ノンプロフィット(NPO)』非営利事業として開催された。
スポンサー!!という名アイデア!
ジョージ・ウィーンの商売人としての『ビジネスセンス』を代表するのが、ジャズ祭にスポンサーを付ける、当時は斬新だった名アイデアだという。何年にもわたって非営利で、収支ギリギリの状態で運営されたニューポート・ジャズ祭。1960年に『フェスティバル・プロダクションズ INC』として企業化するとともに、ジョージの卓越したアイデアが 1960年代、70年代に始まる『企業スポンサー付き音楽祭』の流行に火をつける。ビール、タバコ、オーディオ等、いわゆる『冠スポンサー』のアイデアの登場で、ミラー、シュリッツ(ビール)、クール(タバコ)のタイアップが続いた。1971年、ジャズ祭にソウル系のスターも出演することになり、群衆が押し寄せフェンスを破って乱入、ジャズ祭が中止となる事件が起こった。翌1972年から場所をニューヨーク・マンハッタンに移し、カーネギーホール、リンカーンセンター、ラジオシティー・ミュジーック・ホール他の会場で、大規模に開催される都市型ジャズ祭に変わり、ニューポート・ジャズ祭本来の魅力は薄くなったが人気を保ちながら現在も続いている。1984年から2003年は、日本ビクターのスポンサーで「JVC Jazz Festival Newport, R.I.」として開催されていた。
有名になったジャズ祭として、他にもジョージの関連していないカリフォルニアのモンタレーや、スイスのモントルー・ジャズ祭があるが、半世紀ほどの間、どこかでジャズ祭があったらほとんどがジョージ・ウィーン制作という時代が続いたのである。絶頂期は、全米のみならず、ワルシャワ、パリ、ソウル、日本他世界のいたるところのジャズ・イベントにかかわったといわれる!!
ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ祭の始まったころ
さて、話を戻すと、私達は1968年、移民船ぶらじる丸に乗ってニューオリンズへジャズ修行に出かけ、一度帰国、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった故児山紀芳さんに特派員の資格を出していただき、再度ニューオリンズに住んだ。1971年4月に着いた直後、運良く第2回目だったヘリテイジ祭を体験することができ、ジョージさんとも親しくさせていただいた。1970年の第1回ヘリテイジ、そして71年第2回目は、前述した『コンゴー広場』と、隣接する『ニューオリンズ市公会堂』を中心にコンサートが開催された。
72年4月のジャズ祭は、残念ながら私達が英国のバンドと共にヨーロッパ各国を演奏旅行しロンドン滞在中、その後アメリカ国内をぐるっと一周り演奏し夏にニューオリンズに『帰郷』した。翌1973年4月の第4回『ヘリテイジ祭』は、満を持してSJ誌に詳細をレポート、しかもフェアーグラウンド(競馬場)のステージに英国からの楽団のゲストとして出演することができた。‥‥このジャズ祭の日本人初出演者となった訳だ!!
この73年は、すでにコンゴー広場から、現在も会場となっている広大な敷地の市の競馬場(フェアグラウンド)にメイン会場が移り、テントのステージが数か所設置され、音楽的にもゴスペル、ケイジャン、モダン、スイング、ニューオリンズ、何でもあり、そして、絵画や民芸のフォークアート、郷土と言うかほとんど黒人系のソウルフードのブースも並ぶ『ジャズ祭のスタンダード』が出来上がっていた。
71年、73年の両年、屋外とならび市公会堂でも開催された夜のコンサートでは、ニューオリンズ・スタイルはもちろん、年によってディジー、ミンガス、ローランド・カーク、ラムゼイ・ルイス、ジェリー・マリガン、ハービー・マン等モダンの分野、ベニー・グッドマン、ミルト・ヒントン、ズート・シムズ、また映画監督でジョージ・ルイス風のクラリネットを吹くウディ―・アレンのバンド迄出演。中でも、地元の黒人の人々に人気だったのはソウル・ミュージックとブルースだった。BBキング、ハウリング・ウルフ、ボビー・ブランド、アルバート・キング...とか、『真っ黒い!』雰囲気の会場での、教会のような異様な盛り上がりを覚えている。当時人気のステイプル・シンガーズも出演していた。
その他、ミシシッピー河を行くリバーボートも会場となり、クルーズをしながら地元ジャズを堪能。ルーズベルト・ホテルのボールルームでは、ディジー、ハケットが競演、ジョージ・ウエインがピアノを担当し、ニューオリンズのドラム、ベースで演奏した場面も写真撮影、カセットテレコで盗み録りして今も残っている。
伝説のジャズマン、キッド・オリー、52年ぶりの帰郷
1971年4月末に開催された第2回のフェスティバル(当時、一般にはニューオリンズ・ジャズ・フェスティバルと呼ばれていた記憶があるが、写真を見ると『(ビールの)ミラー提供ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』とちゃんと書いてある。)
このフェスティバルの目玉は、ジャズの創始者バディー・ボールデンのたった9歳下、1886年生れでジャズの創始者の一人、サッチモを最初に雇ったトロンボーン奏者としても知られるキッド・オリーが、1919年ロスへ移住して以来52年ぶりに帰郷、コンサートに出演することだった。空港に到着するオリーをジョージさんたちと迎えに行ったり、リハの会場に入り撮影、カセットで隠し録りをする等々貴重な体験もさせてもらった。
もう一つ忘れられない想い出は、サッチモの7歳年上の1894年生れ、トランぺッターでサッチモを思わせるボーカルを歌い人気だったパンチ・ミラーが病気から回復し、ジャズ・フェスのステージでカムバックした。1963年ジョージ・ルイス楽団と来日したパンチは、私達のとっても憧れのジャズマンで、このカムバックの後、半年ほどニューオリンズの私達の部屋のすぐ階下の住人となり、一緒にサッチモのレコードを聞いたり、脳梗塞の後遺症があった彼の身の回りのお世話をしたりしていたのが懐かしい。
1971年、73年の両フェスティバルともに様々な演奏場面に出席、撮影もできたのは、故児山紀芳さんからSJ誌の特派員の肩書を頂いていたお陰が大きい。SJ誌には『現地特派員』レポートとして長文のレポートも書かせていただいた。
ジョージさんからプレスパスをもらったり、自費でチケットを購入したり、キッド・オリーから、パンチの晴れ姿、ミンガス、マックス・ローチ、ガレスピー、グッドマン、...フォーク・アートやソールフード...様々な写真が残っている。
天国に召されたジョージさん、1959年に結婚された黒人の奥様で『フェスティバル・プロダクション』副社長として長年活躍、2005年に先立たれたジョイスさんと意気投合、今頃は、多くのジャズの巨人たちを集めて、天国でジャズクラブ『パラダイス』を開店しているか?(笑)はたまた、ニューポートならぬ、『ニュー・”ヘブン”・ジャズ・フェスティバル?』などアイデアを相談しているかも...。
ジャズ・フェスの父、ジョージさんのご冥福をお祈りいたします。
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インタヴュー https://jazztokyo.org/interviews/post-67448/
外山喜雄・惠子(とやまよしお・けいこ)
喜雄・トランペット&ボーカル(日本のサッチモと呼ばれる)、惠子・ピアノ&バンジョー。早稲田大学ニューオーリンズ・ジャズ・クラブで出会い、1966年、喜雄・経済学部、惠子・文学部をそれぞれ卒業後結婚。1967年から5年間ニューオリンズで武者修行。帰国後、1975年、「外山喜雄とデキシーセインツ」を結成、内外で活躍。1983年、東京ディズニーランド開業以来2つのバンドで2006年まで出演、人気を博す。1994年、ニューオリンズとの国際親善を目指し、ルイ・アームストロング・ファウンデーション日本支部設立(1998年、日本ルイ・アームストロング協会に改組、喜雄、会長に就任)、「銃に変えて楽器を」を掲げてニューオリンズの子供達に楽器を贈る運動に取り組み、2005年「外務大臣表彰」を受ける。2005年、ハリケーン・カトリーナの被災支援に取り組み、ニューオリンズ名誉市民を授与。2012年、「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」にジャズ音楽家として夫婦で選ばれ、国家戦略大臣表彰。2017年10月日本ジャズ大賞、2018年1月文部科学大臣表彰。2018年、「スピリット・オブ・サッチモ・アワード 生涯功労賞」、2019年、第31回(2018年度)ミュージック・ペンクラブ音楽賞ポピュラー部門特別賞をそれぞれ授与される。喜雄は、随筆、ジャズ評論の執筆活動の分野でも活躍し、また、ジャズ演奏を納めた16mmフィルムやジャズ創世期の貴重な資料のコレクターとしても知られる。
「ルイ・アームトスロング生誕120年 没50年」の今年、夫婦での共著3冊目となる「ルイ・アームストロング 生誕120年 没50年に捧ぐ」(冬青社)、CD「デキシー・マジック・ビビディ・バブディ・ブー Again」(Nola Music) を刊行。