Peter Brötzmann 追悼 by 末富健夫
text by Takeo Suetomi 末富健夫
ペーター・ブロッツマンが 6月22日に亡くなったという知らせを複数の知人友人から受けた時は、大きな星空に常にひときわ輝いている星が突然視界から消え失せた感覚だった。私の世代だと、ペーター・ブロッツマン、エヴァン・パーカー、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、ペーター・コヴァルト、ハン・ベニンク、ミシャ・メンゲルベルク、ウィレム・ブロイカー、デレク・ベイリー、フレッド・ファン・ホーフェ、マンフレート・ショーフ、ギュンター・ハンペル、アルバート・マンゲルスドルフ等々は、「ヨーロッパ・フリー」と呼ばれていた。その中のサックス奏者(ブロッツマンはクラリネット、タロガトも演奏するが)を見れば、ブロッツマンとパーカーがその後の影響力も含めて東西両横綱と呼ぶ事に異論がある人は少ないと思う。
1980年4月ペーター・ブロッツマンとハン・ベニンクの二人が来日。私は、中野文化センターと市ヶ谷ルーテルセンターの演奏を聴きに行った。90年代以降のような海外からのミュージシャンのコンサートなんて滅多に無い頃の事、せいぜい自分の持っているレコードを聴くのがやっとといった時代だ。それはもう来日のニュースを知っただけで興奮していたものだ。さて、そのコンサートだ。ベニンクとブロッツマンのコンビに国内勢の EEU(近藤等則、吉沢元治、高木元輝)+1(河野優彦)が加わっての集団即興演奏。日本勢は、一か所に固まって演奏をしていたが、ブロッツマンとベニンクの二人はステージを右に左に自由に行き交いながら使う楽器も様々に持ち換えながらの演奏。特にベニンクに至っては演奏開始はドラムスならぬピアノからのスタートだった。その後は、一人奔放にやりたい放題といった塩梅。そんな相方に対応するブロッツマンの姿は正直存在が少し小さく感じもした。日本勢は、もっと小さく感じたのが、今となっては私の本音だ。それだけ、ベニンクの存在感が大きかった。
だが、厚木市で行われたベニンクとブロッツマンのふたりだけのコンサートの模様を記録した豪華なジャケットの作りのLP『厚木コンサート』(Gua Bungue) を聴き、またそのコンサートをノーカットで収録したヴィデオテープ(β)を見てからは、私のブロッツマンの印象は改めて彼がサックスのヘラクレスと呼ばれる意味、そして彼がヨーロッパ・フリーの代表格だという意味が分かったものだった。せめてLPは再発して欲しいと強く望む。あの豪華なジャケットのままで。
市ヶ谷でのコンサートの後、イスクラでブロッツマンのインタヴューを行っている。渋谷の寿司屋(寿司を頼まずビールだけという・・・Sabu)で行ったのだが、その後フリーペーパーの「パフォーミング」にインタヴューを掲載し発行されている。ベニンクにもインタヴューを依頼をしたが、「音楽で全てを語ってる。」と断られた。あの風貌から怖いイメージを持ったが、後年山口でのコンサートの折りに接した彼は、怖いどころかこんな愉快で楽しい人もいなかった。
その後は、私とブロッツマンの直接の接触は無く、せいぜいどこかのライヴやコンサートを観客として見た程度で終わってる。レコードやCDでもっぱら聴くだけだった。だが、私がブロッツマンのCDをプロデュースする機会がついに訪れた。この秋、No Business Chap Chap seriesの1枚として『Peter Brötzmann & Sabu Toyozumi / TRIANGLE』だ。
出来上がってブロッツマンに直接手渡せないのが残念でならない。