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Monthly EditorialEinen Moment bitte! 横井一江No. 247

#09 時代と共振しながら〜架空の物語の同時代性
多和田葉子『地球にちりばめられて』、ユーラシアンオペラ東京2018

text & photos by Kazue Yokoi  横井一江

 

日常生活に溺れていると、混沌とした時代に生きていることを忘れがちだが、本を読んだり、ライヴやステージを観たりした時にふと様々なことを思い巡らすことがある。そのようなきっかけになった小説と舞台について、今回は取り上げたいと思う。

 

*多和田 葉子『地球にちりばめられて』

タイトルが気に入って、ついつい本を買ってしまうことがある。多和田葉子の新刊『地球にちりばめられて』もそういう一冊だった。しかし、なかなか読書の時間が見いだせずに、机の上にしばらく積まれていた。ところが、ある時ふと手にとって読み始めたら、止まらなくなってしまい、あっという間に読んでしまった

デンマーク留学中に故郷である国が消失してしまったHirukoはどうやら日本人らしいのだが、生きていくためにスカンジナビアではどこでも通じるような人工語「パンスカ」を作り出す。「汎」を意味する「パン」にスカンジナビアの「スカ」をつけてそう呼んでいるのである。その反面、Hirukoは自分の国の言葉を話す人を見つけることに関心を持っている。彼女がテレビ番組に出演したことがきっかけとなって出会い、親しくなるのが言語学を研究しているデンマーク人のクヌート。そこにアカッシュ、ノラ、テンゾと国籍も母語も違う若者達が加わり、ドイツのトリアー、オスロ、南仏アルルへ旅する。謂わば冒険譚である。彼らはアルルでHirukoと同国人と思しき寿司職人Susanooを見つける。しかし、彼は声をだせなくなっていた。Susanooを連れてストックホルムの失語症の研究所に皆んなで行こう、というところ物語が終わる。おそらく続編も書かれるに違いない。

この小説は日本語で書かれているのだが、それぞれのシーンの中でHirukoのパンスカも含め、同時に様々な言語が飛び交いつつ、旅が、物語が進行していく。そのためか、書かれている言葉も身軽である。私自身の日常の中で、日本語と英語を行ったり来たりしながら会話したり、そういう時は概ね日本人と外国人と複数で話をしている時なのだが、そこにまた別の言語が割り込んでくるという状況が普通に結構あるだけに、場面を想像しながら、妙にリアリティを感じながら読んだのだ。外国人の日本語に、日本人にはない面白い表現や造語を見つけたりすることもある。そういうことを考えながら読み進んでいったら、登場人物であるクヌートはこんなことも語っていた。少し長くなるが引用しよう。

「実は僕もネイティブという言葉には以前から引っかかっていた。ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、化学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それからネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」ということだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語から翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いのだろうか。」

ふと、私はそこで音楽シーン、とりわけジャズ〜フリージャズ、そして即興音楽のことを思い浮かべていた。これは音楽の世界ではずっと以前から起こっていることだ。とりわけ出入り自由な即興音楽では、様々なコトバが飛び交う。それが日常である。

日常の中に他言語が入り込んでくることは一般的な日本人にはまだまだ遠い世界のフィクションかもしれない。しかし、今は人々が移動する時代である。言葉なしに私たちは生きられない。しかし、言語は生き物であり、生々流転していくのである。そういえば、2016年にドイツの小説家に与えらえるクライスト賞を多和田葉子は受賞しているが、その贈賞理由は独特なドイツ語の使い方で新たな表現の可能性を開いたということではなかったか。この小説にはドイツに住み、ドイツ語での創作も行っている彼女ならではの現代を見る視座があるように思った。

 

*ユーラシアンオペラ東京2018
ヤン・グレムボツキー、河崎純

9月29日、座・高円寺にユーラシアンオペラ「Continental Isolation」を観に出かけた。これについては公演前に紹介記事を書いている(→リンク)ので、その報告を兼ねて書こう。

ユーラシアンオペラは音楽詩劇研究所を主宰する河崎純によるプロジェクトだ。今回の公演以前に、2016年にアルメニアとモスクワ、2017年にはブリヤート共和国とイルクーツク、またイスタンブールとオデッサで現地のアーティストとのコラボレーションを重ねてきた。そのような活動の中で出会ったサインホ・ナムチラク、サーデット・テュルキョズ、アーニャ・チャイコフスカヤ、マリーヤ・コールニヴァを招聘し、日本人ミュージシャンやダンサーと共演する作品として新たに制作されたのがユーラシアンオペラ「Continental Isolation」なのである。

当日手渡されたパンフレットには、こう書かれていた。

孤独な現代への「架空の民族」からの贈り物

ーーユーラシアの精霊たちと共に織り上げる〈現代の神謡集〉

その昔、小さな島国の中で移動しながら暮らす民族がいた。国を持たず、文字を持たず、移動しながら生活していたが、やがて国家という巨大な仕組みの中にのみ込まれていく。一族は新しい自由と安定を求めてそこに向かうが、それは同時に一族に離散という影を落とすことになる。そこへ、ユーラシア大陸から4人のマレビト達が現れ……

渡り歩く者たち、生まれた土地を離れ定住する者たち、あるいは……
それぞれが織り上げる「生命のオペラ」

ここから読み取れるように、オペラのストーリーには現代、そのベースとなっている西洋の近代文明に対する批評性が内在している。作品そのものもそうだが、西洋ではなくユーラシア大陸の東部のオルタナティヴなシーンを繋ぎつつ、多様なバックグランドを持つ多ジャンルのアーティストが会するプロジェクトであるということ自体がそうなのだ。河崎のこのプロジェクトについて知った時に、90年代に齋藤徹が主宰した日韓伝統音楽・邦楽・ジャズの総合オーケストラ「ユーラシアン・エコーズ」(2013年に第2章の公演を行なっている)、同じく齋藤による東京中心文化圏、地方→東京→欧米という流れに対抗するオルタナティヴとして、インドネシアから発し、琉球、九州、朝鮮半島、日本列島の日本海側を流れ、稚内に辿り着くもうひとつの黒潮の文化圏をイメージしたゼロ年代終わりのプロジェクト「オンバクヒタム」を思い出した。齋藤のプロジェクトはアジアの東側にスポットを当てているが、河崎の場合はユーラシア大陸の懐深くに入り込んだ企画という違いがある。だが、根幹にある思考に共通性を感じたのだ。ただし、ひとつ言えるのは河崎のユーラシアンオペラは、領域国民国家という西洋近代がもたらした大きな価値観が揺らいでいる今日ならではの作品ということなのである。

「Continental Isolation」には舞台構成があり、セリフや歌でその物語を進行させていったのは、三木聖香、伊地知一子、吉松章、津田健太郎、坪井聡志、またダンスの亞弥、三浦宏予。楽器演奏を担ったのは河崎純(コントラバス )、八木美知依(箏)、ヤン・グレムボツキー(ヴァイオリン)、小森慶子(クラリネット)、小沢あき(ギター)、チェ・ジェチョル(韓国打楽器)、大塚惇平(笙)である。そこにマレビトとして、4人の異なるバックグラウンドを持つ歌手、サインホ・ナムチラク、サーデット・テュルキョズ。アーニャ・チャイコフスカヤ、マリーヤ・コールニヴァが加わる形でステージが形作られた。日本人出演者によるリハーサルが繰り返された後、来日歌手達を加えてさらにリハーサルが行われたが、全てが台本あるいは楽譜に書き記された作品とは違い、即興性の高い作品だけに、このような共同作業を短い期間のリハーサルで仕上げるのはさぞかし至難の技だったと想像する。

予備知識なしで観た人も多かったと想像するので、ひとつの舞台の流れの中での歌と音楽とパフォーマンスのみで、この作品におけるドラマトゥルギーがどこまで伝わったどうかは不明だ。しかし、出演していたのは、いずれも力量ある歌手やミュージシャン、ダンサーだったのでパフォーマンス自体は見応えのあるものだった。言わずもがなかもしれないが、サインホ ・ナムチラクがステージに現れた時に空気が変わったように、彼女の存在感は傑出していた。以前と変わらぬ透明で美しい声、パフォーマーとしてアーティストとして表現領域を広げてきただけに、ポップな表現も含めて、観客を捉えたのである。まるでその姿は、しなやかな手指の動きといい、まるで菩薩のようでさえあった。ふと、ますます瀬戸内寂聴に似て来たなと思ったのである。また、サーデット・テュルキョズのシャーマン性を感じさせるヴォイスにもぐいと人を惹きつける計り知れないパワーを感じた。それと好対照だったのがアーニャ・チャイコフスカヤ、マリーヤ・コールニヴァの美しい声、三木聖香もまた好演していた。

作品を観る前は河崎のこの数年の活動の集大成であると思ったのだが、実際に舞台を観て、これはひとつの出発点のような気がした。確かにポストモダンの先は見えていない。それは、作品のエンディングが妙にポップで明るく、それなのに暗さを抱え込み、混沌とした集団即興は、破綻しつつある西洋近代の価値観、しかし答えを見出せないでいる現在を象徴しているようでもあった。だが、河崎のプロジェクト自体が新たな領域を拓いたといえるのではないか。そしてまた、表現分野での試みが我々に想像力を駆使することや思考を促していることは間違いない。

出演者等を下記に記しておこう。

作曲・演出:河崎純
舞台美術:サインホ・ナムチラク
出演:サインホ・ナムチラク サーデット・テュルキョズ アーニャ・チャイコフスカヤ マリーヤ・コールニヴァ
演奏:八木美知依(箏)ヤン・グレムボツキー(ヴァイオリン)小森慶子(クラリネット)小沢あき(ギター)チェ・ジェチョル(韓国打楽器)河崎純(コントラバス )大塚惇平(笙)
ダンス:亞弥、三浦宏予
ヴォーカル:三木聖香、伊地知一子、吉松章、津田健太郎、坪井聡志
舞台監督:白澤吉利 照明:岡野昌代 音響:増茂光夫(楽屋) 演出助手:三行英登

 

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本稿を書いているうちに、私も旅に出たくなった、忙しさにかまけて、机の上のMacの前に座っていることばかり多い日々、それは思考や感覚を鈍らせるし、人間性を壊すからだ。と、秋晴れの空を眺めながら思ったのである。

 

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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