#118 『ロジャー・ターナー&マリ・カマダ / Junk Percussion – Notes for the Future』
Text by Akira Saito 齊藤聡
Terra Nova Editions (2022)
https://www.terranovapress.com/books/junkpercussion
英国の極めてユニークな打楽器奏者ロジャー・ターナーがパートナーのマリ・カマダとともに書き上げた本であり、ターナーが演奏に使う道具がひとつひとつ紹介されている。だからといって本書が「謎解きロジャー・ターナー」になるわけではない。なぜならば、ターナーは「パーカッショニスト」だからだ。
ここでいうパーカッションとは、店で販売されているものではなく、「アウトサイダー」・アコースティック・パーカッションやどこかで見つけたブツのことだ。実際、たとえば初期ジャズのミュージシャンたちは料理器具だろうとカウベルだろうと使っていたわけだとターナーは言う。それが楽器としてカテゴライズされるのは、後の時代になってからのことである。自由の中から表現のヴォキャブラリーを拡張してゆくことが「パーカッショニスト」たる所以である。
かれらはこのネット時代に世界中の音楽に接しうることに疑いの目を向ける。二次情報ではダメなのだ。マーケットや露店で見つけたものであるからこそ、独自表現の道具たりえている。
数年前にターナーにコントラバスのガット弦の話題をしたところ、カーフスキンのドラムを使った体験を思い出して共感してくれたことがある。曰く、気温や湿度によって音が異なるからこそとても良いのだ、と。すなわち、一見非効率であっても標準化されていない道具をひとつずつ発見して自分のものにすること、それは直接の体感を通じたものでしかありえないこと、マテリアル性を重視すること。
ターナーは、近年『Turner Solo』(2005-16年録音)、『Turner Solo 2』(2018年録音)、『Roger Turner Solo 3』(2019年録音)というソロアルバムをそれぞれ65枚、50枚、50枚と限定数で制作している。いずれのアルバムにも1枚ごとに異なるアートワークの数々が封入されており、この表現に向き合うかれの態度は本書を読むことで納得される。
それにしても不思議で奇妙な道具ばかりである。ボウルにばねを付けたもの。ソーのように使うヘンな形の板ばね(持ち歩くのが大変だ!、と)。無数の1cmのボールベアリングが中にある丸い容器は、フィル・ミントン(ヴォイス)との共演で酷使したため形がぼこぼこだ。ソースパンの蓋からは、シンバルを回転させるアイデアをあたためている。歌舞伎の効果音に使われる駅路(うまやじ)を探していて、富岡八幡宮の露店で見つけたシェイカー。
ターナーを象徴するような細く長いスティックも紹介されている。アラン・シルヴァ(ベース等)が「the needles」と呼んだものだ。これさえもマーケットで見つけたというのだから驚いてしまう。しかも30本の束だから一生大丈夫。
ほとんど使っていないものもある。本人は「ポケットサイズのアンソニー・カロの彫刻ではないよ」という、湾曲した金属板の内側を細い2本のバネがつないでいるもの。どうやって使うべきか悩みつついまも棚にある。想像力もまた演奏の一部なのだ。
鎖を使うのは愉しいが難しい。セシル・テイラー(ピアノ)と共演したときもその速度に鎖は追いつかなかったという。それに加え、鎖が想起させる歴史的記憶とも切り離せない。ターナーは、たとえばチャールズ・ゲイル(サックス)と鎖を使って共演することなど想像もできないと呟く。ゲイルもまた、ニューヨークでホームレスの生活を送りつつ自己表現に拘り続けた人であり、それはかれがアメリカ黒人であることと無縁ではない。ターナーは、道具が背負うものも視野に入れている。
最後を飾るのは使用済みの紙である。薄紙から段ボールまで、かれにとって特別な音楽的状況に応じて使うことができる偉大な楽器だ。そしてターナーは愉快なエピソードを紹介する。演奏のためベルギーへの国境を越えたとき、警察に足止めされ、ドラムケースの中身をすべて出すよう要求された。それは壮観だった。道にあらゆるものが並べられた。もちろん紙もひと役買った。陽が照り付け、風が吹き、さながら・・・。ここから先は伏せておく。
(文中敬称略)