#2126 『海原純子/ゼン・アンド・ナウ』
『Junko Umihara / Then and Now』
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野 Onnyk 吉晃
Nadja 21/King International ¥4500 (2枚組/税込)
『海原純子/Then and Now』 KKJ-9012
1. Quiet Nights (Corcovado)
2. Bebop Lives (Boplicity)
3. Then And Now
4. Devil May Care
5. You Must Believe In Spring
6. Waltz For Debby
7. Blue Skies
8. Turn Out The Stars
9. Now’s The Time
10. I Get Along Without You Very Well
11. 雨の日の天使
海原純子 (vocal)
若井優也 (piano)
楠井五月 (bass)
海野俊輔 (drums)
『海原純子/Talking to You』 KKJ-9013
1. 2020-2021
2. ジーン・リースの魅力
3. Skiesは変化するこころ
4. レジェンドに捧げる
5. 同じ春は来ないけれど
6. Then And Now
7. 雨の日の天使
海原純子 (talk)
若井優也 (piano)
録音・Mix・Mastering:Studio Dede 東京、2021.6-8
エンジニア:吉川昭仁
「私はただ聴くだけの耳である」
このアルバムについては、JT.No.281上で、小針俊郎氏によって十二分に語られている。私が屋上屋を重ねる必要はさらさらない、と言ってしまえば終わってしまう。
私のようにジャズスタンダードをヴォーカルで楽しむ習慣の無い者にとってはなおさらのことだ。なにしろ、<Waltz For Debby> も <Now’s The Time>もまともに歌詞を聴いたのは初めてというほどの門外漢である。
しかしこのアルバムの特徴は二枚組、しかも一枚は歌で、一枚は楽曲と呼応するような「小噺」をメインにした「語り」であることだ。
では私は、「語り」いや声自体に焦点を合わせてみてもよいだろうか。
さて、昭和40年代後半から、日本では中波ラジオの深夜放送全盛期があった。そのマイクの前にいた人々は当初ディスクジョッキーと呼ばれ、レコードを紹介しながら話題を提供していたが、次第に語りや投稿が主となってパーソナリティと呼ばれるようになった。
まさに声が人格そのものとなって一人歩きしだしたのである。そこで主流は男性達だったが、それ故に女性パーソナリティは一層引立った。
文化放送のパーソナリティ、レモンちゃんこと落合恵子は、其の声を以て全国の若者〜おそらくその殆どは思春期の男子〜の人気を独占した。彼女の声の柔らかさと、どこか甘えた響き、しかし時々諭すような口調は、触れようにも捉えられぬ電波の妖精と言うべき存在だった。彼女は今でも絵本の語り聴かせなどで、年齢相応の深みを感じさせる声を伝えている。
海原純子の歌ではなく、「語り」が耳に触れたとき、それは私に落合恵子を想起させた。
声のパフォーマーでは実に優れた女性達が席巻している。個人的な偏りというより、ある特性に依って列挙させてもらうが、ローリー・アンダーソン、ディアマンダ・ギャラス、メレディス・モンク、タミア、ジュリア・ヘイワード、ジョアン・ラ・バーバラ、ヒグチ・ケイコ、HACO等々。
私は以前からこの「声の女達=セイレーン達」が、機械と一体となって、声の身体を曝し、かつ隠しているのだと感じている。
古代、女性は人前で話す事さえも許されなかった。確かに女性の声はすぐ共鳴する。一番それを感じるのは乳児であり幼児達であろう。
女性の肉声、それはヌードだ。「女性の声は裸体である」と二世紀のユダヤ教タルムード(律法解釈集)には書かれている。つまり成人した人間にとって、女性の肉声は隠すべきものになった。
女性達の声が表現として復権したのは中世以降の歌曲であり、多くの歌姫を輩出し、ついに現代において新しい衣装をまとった。それが機械〜メディアと一体となった声だ。
殊更に声の電子的変調装置、効果を言うのではない。あらゆるメディアを通じた女性の声は、新たなコスチュームに包まれた裸体である。レコードに吹き込まれた声は包装されている。放送された声は電気の信号だった。
彼女達はマイクロフォンの向こうにある無数の耳、鼓膜に向けて語りかけ、歌いかけ、誘う。東京ローズのように。
声はすなわち表情である。声は人生を反映する。声は演技し、嘘をつく。感情的?違う。それはつかの間に消え去る幻影だ。そこでは語る内容が問題ではない。では耳は、私は何を聴いているのか。
それは「声の肌理(きめ)=grain」である。これはロラン・バルトの声楽論だ。そこで彼は肌理(あっさり言ってしまえば声質)を「歌う声における身体」と定義し、「歌う身体と私との関係をエロティック、淫売的に聴く」とまで書く。しかし同時にそれを「主観的な関係ではない」ともいう。
少なくともこの関係性は譜面に記述できない。機械と一体化して、ここで聞こえるのに彼方にあるメディアの斎宮、釆女となった歌手の「声=身体」を感得する事。バルトに反して、私はそれを極めて私的な環境の出来事だとしたい。バルトはウォークマンなど使わなかっただろう。
私はかつての仕事柄、言語聴覚士という人達との付き合いが多かった。その学会にも参加した。そこで気づく事は、圧倒的に女性が多く、言語医学、音声治療の分野での権威的な人々もまた女性であった。かつて抑圧された女性は声の世界で圧倒的勢力を得ていた。声と女性の関係はただ者ではない。看護、保育、療育、養育の分野でも女性は常に「声かけ」を忘れない。
何故だろうか。それはこの分野がエクリチュール=書字ではなく「声」の世界だからではないか。
声は常に人に染み入り、内側から包み込み、そして支配する。
さて、海原純子の関わる領域を参照してみよう。
ストレス性疾患治療、心身医学、ヘルス・コミュニケーション、「心の健康サポート事業」、生活習慣病予防、ポジティブ・サイコロジー医学...。
どの領域も、心身を包括的にケアしていく必要がある。症状や疾患を個別に分析するのではなく、むしろ統合化するスタンス。
そして大学教授、人生相談、エッセイスト...このマルチでスーパーな存在は、同時にジャズシンガーであるのだ。
しかしジャズ、そのシンガー、ミュージシャン達のネガティヴ人生とさえ言える闇を、輝く彼女はいかに照らすだろうか。ジャズは闇から生まれ、敗者の音楽でさえあった。ことに彼女の歌うスタンダードの時代には。ここでは、スーパーであることが負性でさえないだろうか。ジャズの闇が深ければ深いだけ、その反作用、反動で彼女は輝く。いや、ブラックホールからエックス線が放射されるようにといったほうが、量子論的、医学的だろうか。
しかし何故スタンダードナンバーなのか。そして何故英語で歌われるのか。
ある種の人々はすんなり理解できる日本語を求め、歌詞の意味を好きだから歌を聴くという人も少なく無い(わざわざ訳して歌う事もある)。
あるいは昔ながらの日本の歌に癒しを求める人達もある。そんなことも思いながら通して聴いた最初のとき、最後の一曲の日本語で醒めた。そのラストトラック<雨の日の天使>は海原純子のオリジナルの作詞である。
私がヴォーカルを聴いて来なかった理由が再び見えてしまった。あるいは日本におけるジャズの大いなる受容と需要の理由も。
英語のネイティヴ・スピーカーにとっては、ジャズ・スタンダードは、ある意味、演歌であり民謡であり童謡であり子守唄なのだ。
そして私は、英語というフィルターを通す事で、意味と文脈を回避し、海原純子の「声の肌理」だけを味わっていた。私は「意味」など聴きたく無かったのだ。
そして彼女の声にずっと浸り、愛撫されていたかっただけなのだ。
参考資料:
「『声』の秘密」アン・カープ著、草思社、2008
“Le grain de la voix”Roland Barthes (「声の肌理」ロラン・バルト) 1972