#2291『Terry Riley / STANDARDⓈAND -Kobuchizawa Session #1-』
『テリー・ライリー/スタンダードⓈアンド -小淵沢セッション
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
STAR/RAINBOW RECORDS 星と虹レコード
SHIGERU-001, 2023年 ¥3,000(税込)
Terry Riley (YAMAHA S400B, Nord Stage 3, Voices)
1.Isn’t It Romantic?(Lorenz Hart / Richard Rodgers)
2.Blue Room(Lorenz Hart / Richard Rodgers)
3.The Best Thing for You (Would Be Me)(Irving Berlin)
4. ‘Round Midnight(Bernard D. Hanighen, Thelonious S. Monk & Charles Cootie Williams)
5.Ballade for Sara & Tadashi (Piano) (T. Riley)
6.Pasha Rag (T. Riley)
7.Ballade for Sara & Tadashi (Synth) (T. Riley)
8.Yesterdays (Jerome Kern / Otto Harbach)
9.It Could Happen To You (Jimmy Van Heusen / Johnny Burke)
10.Gotcha Wakatcha (T. Riley)
Produced by Tadashi Miyamoto
Co-Produced by Sara Miyamoto
All Songs Arranged by Telly Riley
Recorded at Yatsugatake Hoshi to Niji Recording Studio, Kobuchizawa, Yamanashi, JAPAN, on 11,12 and 13, March, 2020
『涅槃楽としてのテリー・ライリー』
0. ミニマルミュージック四天王
今更、テリー・ライリーについては説明を要しないだろう。
そして、レビューなど読まず虚心坦懐に向き合うのがいいだろう。
どうしても背景を知りたいというなら下記に飛んでほしい。
https://tower.jp/article/feature_item/2023/09/05/1110
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/35423
断っておくが、このアルバムに収録されたジャズ・スタンダードについての解説を書くつもりはない。この一文は、いわばテリー・ライリーの軌跡を思いつつ、1960年代後半から現在までの音楽の一側面を回顧しようと言う試みだ。
演奏集団 SOFT VERDICT の作曲家で、舞踏演出家ヤン・ファーブルとのコラボもあるウィム・メルテンは、著書『アメリカン・ミニマルミュージック』(細川周平訳、冬樹社、1985年)において代表的ミニマル・ミュージック作曲家4人を分析する。
その四人は同世代の、テリー・ライリー(1935〜)、ラ・モンテ・ヤング(1935〜)、フィリップ・グラス(1937〜)、スティーヴ・ライヒ(1936〜。ライク、ライシュともライチとも発音されている。一応慣例に従う)である。
彼らは、全員が民族音楽に大いに影響された。ライリーとヤングは共にインド古典歌唱法キラナの大家、パンディット・プラン・ナートに師事し、グラスはラヴィ・シャンカールに影響され、そしてライクはガーナのエヴェ族のポリリズミックなドラミングを学んだ。
この傾向は、1889年パリ万博を契機に西欧音楽家達が、一斉にアジアの音楽や黒人音楽に、限界に達しつつあった西欧楽理と消えかかった霊感を賦活化されたことを思い出す。
さらに彼らは、60年代後半急速に進展した電子的テクノロジーをもうひとつの足場にしている。演奏を即興的に行ったのはライリーとヤングである。グラスもライヒも演奏での恣意的解釈や即興を拒否している。両者の差異は、神秘主義的傾向の有無というよりは、決められたプロセスを経て終結するものとしての作品完成か、作品それ自体の完結は無いという態度の違いだろう。つまりそれは世界観の違いといっていいかもしれない。
1. ライリーの勃興期
ライリーは60年代初期にパリに滞在していて、63年のチェット・ベイカー・コンボのライブ演奏をテープ操作でリミックス作品を制作した(『MUSIC FOR THE GIFT』、2000年初リリース後、人気で再発が繰り返されている)。ライリー自身、ジャズピアノの即興で糊口をしのいでいた時期があったというが、彼にとってジャズのアドリブ〜即興は既に馴染んだ方法論だった。また同時にそれはインド音楽のモーダルな要素とも呼応していた。
1964年、ライリーは現代音楽界で、『IN C』(レコード化は68年、CBSより)によって注目された。
53個の小節の無い短い様々な楽譜を、複数の演奏者が、C調の1オクターヴ内で同一パルスによって演奏するため、あたかも西欧楽器で演奏したガムランのように聴こえる(もっともガムランは同じ楽器の調律をずらすという裏技が入るけれど)。また短いフレーズの繰り返しは、電子的ディレイのようでさえある。ある意味ライリーはサンプリングと電子的ディレイ効果を人力で成し遂げようとしたかに思える。
ラヴェルの〈ボレロ〉(1928)に感じられるように、あるいはマッサージに眠りこんでしまうように、人は反復刺激に陶酔する。ところが「単調な繰り返しの生活」「単純労働」には辟易するのだ。ヒトは矛盾を生きる存在だから。
そして69年、彼の演奏によるソロアルバム『A RAINBOW IN CURVED AIR』(CBS)は世界的なまだ醒めやらぬフラワームーヴメントの音楽ファンを中心に大ヒットとなる。
ここでは純正調に調整された電子オルガンが、オリジナルの電子的ディレイ(当時はまだ珍しかった)により、延々と短いフレーズが演奏されつつ繰り返され、柔らかな音の漣となり、また音色が多様に変化して聴覚的色彩の妙を覚える。その夢幻的、ドラッグ体験的な音響は、現在でさえ人気なのだ。B面〈Poppy Nogood…〉では彼のソプラノサックスのソロ即興を同様にディレイで重ねている(タイトルは意味深だが)。
彼の名はプログレッシヴ・ロックの領域に浸透し、英国にはCURVED AIR というバンドが登場、THE WHOさえライリーへのオマージュと言えるミニマルな曲を作ったし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの創設メンバーであるジョン・ケール(ライリーとはラ・モンテ・グループの同窓生)との共作も知られている(『Church of Anthrax』1971、CBS)。
72年、フランスのレーベルSHANDARから長時間の純正調に調律された電子オルガン(YAMAHA YC-45D)によるソロ即興『PERSIAN DERVISH SURGERY』がリリースされた。
ちなみにこのSHANDARはセシル・テイラー、アルバート・アイラー、サン・ラー、サニー・マレー、ラ・モンテ・ヤング、フィリップ・グラス、シュトックハウゼン、パンディット・プラン・ナートをリリースした希有な会社だ。
その後、フランス映画『眼を閉じて』(1972)の音楽も担当し、邦盤も発売されて話題になった。
この時期、世界中の前衛的音楽祭で彼の独奏は目玉となった。ベルリンのメタムジークフェスティヴァルでの『DESCENDING MOONSHINE DERVISHS』(1976)、佐藤聡明の解説がついた『SHRI CAMEL』(1980)は、どちらもYAMAHA YC-45Dによるソロ。私見では『SHRI CAMEL』が、このオルガンによる即興演奏者としてのライリーの頂点のひとつと思う。
77年7月の初来日では長時間の野外ソロ演奏も話題となり、時代の人というべき感があった。高橋悠治はシニカルにも「水飴のような音楽」と評した。
作曲家としても委嘱は増えた。メルス・フェスティヴァルでも活躍したロヴァ・サクソフォン・カルテットは彼の曲調によくあった。
また弦楽四重奏団クロノス・カルテットは、グラスの作品も演奏しているが、余程ライリーと気が合うようで、フルアルバムで多数の委嘱曲をリリースしている。
80年代半ばには、ミニマリズムのブームが表面的には去ったかにおもえた。
が、しかし思い起こしてみれば、それは現代人の音感の中に浸透してしまったが故に意識に登らなくなったというべきなのだ。
2. 伏流としてのミニマリズム
丁度70年代初頭から、ロック、ポップスにおいて、シンセサイザーとシーケンサーによるプログラミングとリズムボックスの使用が始まった。
KRAFTWERK 『AUTOBAHN』(1974)を嚆矢としたテクノポップの潮流である。それは、ミニマリズムの特徴である「パターンの繰り返しとその漸時変化」という手法が、まさに大衆音楽のスタイルに合致した瞬間だった。テクノポップには、それまでのロック以上にミニマリズムの影響が見られる。
元来ロックには、ブルーズよりも短いフレージングの反復を強調してノリを作るというクリシェがあった。ジョン・ケールらのヴェルヴェット・アンダーグラウンドはそれを基盤としたバンドだった。
しかしテクノポップは、アシッドロックのような反復刺激による陶酔を求めるのではなく、むしろ無期的な <ロボットと人間の相互接近>を演出する志向があった。まさにKRAFTWERKの傑作『MAN MACHINE』(1978)がそれを象徴している。
(2021年のフランス映画『ショック・ドゥ・フューチャー』では、事実関係に不正確な点は多いがテクノポップ黎明期の雰囲気は掴める)
ここで誤解無きよう付言すれば「テクノポップ」というのは、現在言う「テクノ」とはちょっと違う。しかし間違いなくテクノはテクノポップの延長上に在る。その発展は、コンピュータの小型化、民生化と歩調を合わせた。
コンピュータの使用に関しては、かつてクセナキスやブーレーズが膨大な計算を、施設に固定されたシステムで延々計算した上で、譜面を書いた事態とはまるで違う。
作曲は直接音響を操作する作業になった。しかしそれは現場で楽器を演奏することや即興とは異なる。自宅のパソコンで、シンセ音源、サンプリング音源の音響を、CRT画面上で、パラメータ操作しながらコピペし、ミックスし、プログラミングされたリズムに乗せ、いくらでも増殖できる。音楽は譜面ではなくデータになった。データは、保存され編集され送受信され変容され、メディアによって音響として拡散する。出力としてのスピーカーのコーンの振動となる。
もはや我々はライブ会場で、生音の楽器や声でさえPAを通さないと気が済まないようだ。
実を言えばロックやダンス音楽の反復手法と、ミニマリズムの「繰り返し」は違う。前者の反復パターンが曲の中で固定され最後まで変化しないのに対し、後者では漸次変化が楽曲進行の要である。
その意味では初期テクノポップのシーケンサーでは能力不足であった。テクノの基盤であるパソコンの処理能力、高速化は多様多彩な漸次変化を可能にしたということで、ミニマル・ミュージックの彼岸に到達したといえるのではないか。
これまでの数々の西欧音楽様式が、多層化しつつ、我々の日常生活の中に浸透し、改めて音楽作品として意識されなくなったように、<テクノ/ミニマル>は既に「音楽の壁紙」「家具の音楽」「聞き入る事も無視する事もできる音楽」である。さて、これはいつ誰が言い出したのであったか。
しかしそれより前に、「音や声を伴う行為」、つまり儀礼、娯楽、労働など生活状況のなかから、音響の関係だけが抽象化されて<音楽>という概念化されてしまったことを思い出すべきだ。
西欧列強に支配されるまで、あるいはキリスト教が伝道されるまで、西欧的意味での<音楽:作曲家と演奏家と楽譜の関係性>はなかっただろうし、その意味でニホンジンには明治以前に<音楽>はなかった。
いま、音楽を示す記号に「音符」が用いられる事に疑問を持つ人は(私以外?)ほぼいない。音楽と言えばメディアと譜面と楽器とカラオケだろうか。どこでも音楽が鳴っている。あらゆる種類の音楽が垂れ流されている。
そうした音響廃液のひとつにテクノがランクインし、その原料のひとつにミニマリズムがあるという訳だ。
あるいはまたターンテーブル奏者やDJの活躍によってクラブシーン、レイヴパーティの主役として、聴くドラッグとして、踊る身体に浸透していく。
ミニマリズムを内包したテクノは、音楽の遺伝子増殖、PCR手法ともいえるだろう。シンセサイザーとコンピュータの進化は、テクノポップをテクノというワクチンに変容させた。ミニマル・ミュージック作曲家たちの革命は「弱毒化」いや「無害化」されたのだろうか。それは拡大する消費社会の精神に同調したのだろうか。
3. アルバムレビューとしての終章
その潮流の中で四天王はどう生きて来たか。
フィリップ・グラスや、スティーヴ・ライヒは自らのアンサンブルを作り、またオーケストラでの演奏が多くなった。
グラスはオペラ『浜辺のアインシュタイン』(1976)やフランシス・フォード・コッポラのドキュメント『コヤニスカッツィ』(1982)三部作への作曲、交響曲『ロウ』(1992)、および『ヒーローズ』(1997)でイーノやデヴィッド・ボウイーとの共演も果たした。
ライヒは、『テヒリーム』(1981)から『ディファレント・トレイン』(1988)にかけて、出自であるユダヤに回帰していった。そしてオペラ『ザ・ケイヴ』(1993)を妻との協力で完成する。パット・メセニーのために書かれた『エレクトリック・カウンターポイント』(1987)も付記しておく。
彼らの名声と業績を数え上げればきりがない。ただ、西欧音楽史において作曲家として名を残す為にはオペラと交響曲を書く事が条件になるようだ。だとすれば彼らはもう殿堂入りである。
ヤングはほとんど仙境に入っている。彼は常時、自分でチューニングした持続音をイアホンで聴き続けている。
純正調ピアノソロ6時間演奏(”THE WELL-TUNED PIANO” 1964–73–81–Present)はいかにも彼らしいと思うのだが、純正調エレクトリックピアノによって爆音バンドSWANSのメンバーと「ブルーズバンド」を組んで二枚組ライブを出してファンを驚かせる(”THE FOREVER BAD BLUES BAND / JUST STOMPIN’”1993)。いずれ彼は「永遠の音楽」という脅迫的な意識で音と一体化すべく、孤高の存在となっている。
さて、ライリーはどうか。ようやくここからCDレビューになる。
ジョン・ケージとは別の意味で東洋思想に耽溺し、服装や生活も全て修行僧のような雰囲気を漂わせ、それはポップ・オカルティズムの典型にも思えた。
ライリーの志向は、60年代カウンターカルチャーの発展型としての「ニュー・エイジ運動」に連なる。
これらは、東洋志向と電子テクノロジーの融合と括って良いだろうか。
平均率が西欧楽理の帰結とすれば、純正調への回帰はそれへの反発とも言える。しかしライリーはごく普通のピアノ演奏に戻って来た。それは何を意味するだろう。2020年以来、彼は日本に滞在するようになった。その経緯は関連サイトを参照してほしい。本人に言わせれば運命だそうだが。山梨県北杜市で、弟子の宮本沙羅の父のスタジオで録音された本CDは、タイトル通り、ジャズのスタンダード曲が10曲中6曲。
その昔、ジャズピアノを弾いていたライリー。老境に達した者が初心に戻るのは稀どころか当然といえる。なるほど60年代パリのラウンジやレストランで、こんなカクテルピアノを弾いていたのかと思ってしまう。全く個性のない無色透明な演奏だ。オリジナル曲ではヤマハのグランドピアノだけではなく、かつてのフェンダーローズのように人気のあるNord Stage 3も使っている。
ミニマル・ミュージックの特徴は影を潜め、遊園地のリード・オルガン(カリオペ)のようなノスタルジックなサウンドも現れる。これは以前からライリーの演奏中にも時折顔を出した音色だ。
最後のトラック、どこかの部族の合唱?による短い幻想、それもこれも彼の郷愁なのだろうか。聴いている事を忘れそうになるほど、アルバムは全体として極めて穏やかに過ぎてゆく。
2001年、同時多発テロが起き、喧騒と闘争の世紀が始まった。
ささくれだった時代へのトランキライザーがあるだろうか。
レイヴパーティの終りには、DJも参加者もチルアウトを欲する。
ミニマリズムの潮流とディレイのさざ波が運んで来た小さな砂粒=(S)ANDは、音楽文化の潮目としての列島に砂州を作る。STANDARD(S)AND?
テリー・ライリーの音楽は、完結しない世界なのか、永遠の安寧としての涅槃なのか。