#1112 高橋悠治作品演奏会Ⅱ/般若波羅密多 Prajna Paramita (プラジュニャー・パーラミター)
2019年10月29日(火)@東京オペラシティ・リサイタルホール
Reported by Kayo Fushiya 伏谷佳代
作曲:高橋悠治
指揮:杉山洋一
演奏:波多野睦美(Voice)/有馬純寿(Electronics)/泉真由(Piccolo)/鷹栖美恵子(Oboe)/伊藤圭(Cl)/原浩介(Cb.cl)/栃尾克樹(Br.sax)/松山萌(Tp)/村田厚生(Tb)/
會田瑞樹(Perc.)/神田佳子(Perc.)/黒田亜樹(Piano)/大田智美(Accordion)/
山宮るり子(Harp)/尾池亜美(Vn)/山澤慧(Vc)/佐藤洋嗣(Cb)/山田岳(Elec.g)/
植竹佑太(Piccolo tp *録音での参加)
●スコア浄書
和弊(ニキテ):大西義明
般若波羅密多:栃尾克樹
●プログラム解説:小野光子
散ったフクシアの花…fallen fuchsia blossoms… (2010)
伊藤圭(Cl) 尾池亜美(Vn) 黒田亜樹(Piano)
石 Stone (1993)
山澤慧(Vc)
メタテーシスⅠ Metatheses I (1968)
黒田亜樹(Piano)
ローザス I ver.2 Rosace I ver.2 (1975)
尾池亜美(Vn)
タラとシシャモのため Fuer Dorsch und Stint (2015) *世界初演
栃尾克樹(Br.sax) 大田智美(Accordion) 黒田亜樹(Piano) 山田岳(Elec.g)
<休憩>
和弊(ニキテ)Nikite (1971)
鷹栖美恵子(Oboe) 伊藤圭(Cl) 松山萌(Tp) 村田厚生(Tb) 山澤慧(Vc) 佐藤洋嗣(Cb)
般若波羅密多 (プラジュニャー・パーラミター) Prajna Paramita (1968) *日本初演
波多野睦美(Voice) 有馬純寿(Electronics) 泉真由(Piccolo) 原浩介(Cb.cl)
松山萌(Tp) 村田厚生(Tb) 尾池亜美(Vn) 山澤慧(Vc) 山宮るり子(Harp)
神田佳子(Perc.) 會田瑞樹(Perc.)
青柳いづみこによる悠治論も記憶に新しいが、元号が変わろうとも高橋悠治は人々の関心の惹きつけてやまない。そもそも、時系列の時の流れを超越したところに飄々とたゆたっているのが高橋悠治の存在=巨大な音楽空間、であるのだ。若年期から近年に至るまでの散逸譜を含むその作品群に現時性から斬り込む本プロジェクトは、長い共演歴をもつ波多野睦美と指揮者の杉山洋一による企画。高橋「本人による」演奏を耳にしている人は多いだろうが、「本人についての」第三者の演奏に接する機会は存外すくない。「本人について」という距離感がすでにポスト・モダンなのだが、主役が楽曲になると、プレイヤーのエゴイスティックな部分が前面に出る通常の演奏会とのギャップが意識されて、すでにおもしろい。客席中央部に陣取る高橋悠治をまえに演奏するというのは、本日のプレイヤーたちが名うての逸材揃いとはいえ、いかなる心境なのだろうか。技術的完成度や王道の解釈、こなれ感といった「修練」の部分とは異なる、ひとりの演奏家としての無自覚の部分での力量が否応なく試される高橋作品であるからこそ、場の空気が引き締まるのを感じる。自由裁量でどうぞ、と言われても、表現したいという意思の外で、あらゆる狭間から図らずもグロテスクな時空が浮き彫りになるところに、その真骨頂があるのだ。
ソロという最小ユニットから録音やエレクトロニクスの総動員に至るまで、楽器の組み合わせの妙や規模、幾通りにも立ち現れる音像に新鮮さを覚える一方で、ある種の共通した感慨は、いずれも中央が抉られた音楽であるということ。キワからキワへの移行、その過程で生じるギャップや震え。カオスが一転してほとばしる、極端な跳躍。ヴォイスにおける、おそらくは言語によって異なるであろう、コトバの滞空時間。音と空間との、のらりくらりとした呼応関係。そのバトンタッチのように推移してゆく瞬間々々が、思わぬ深淵をのぞかせる。ばらばらの断片の呼応関係が、ユーモアと怖(こわ)しさの日常的な混在を示する(『タラとししゃものため』)。極端な発音・噛み合わない音律同士の楽器の並奏(西洋楽器+トムトム・小石・木鉦)は 、一回性に左右されるいびつな振動の堆積で、聴き手の意識を自然と想念のレヴェルにまで底上げしてしまう。ビートが、神性を帯びた儀式のように響いてくるのだ。『和弊(ニキテ)』とはそもそも祭具であるから、楽曲の形式はここで内容と一致し、無化してしまう。
この状況がさらに大規模に推進されるのが、『プラジュニャー・パーラミター』である。高橋悠治のニューヨーク時代、1968年作。スコア紛失も重なり半世紀を経ての本邦初演だ。50段にもわたるスコアは録音パートと生演奏パートにわかれ、この日のために栃尾克樹が浄書。アンサンブルとして成立させるだけでも想像を絶する大仕事だが、50年前のバッファローにおける初演時には、作曲もできる演奏家たちを想定して書かれたというから、要求される基準も自ずと窺い知れる。会場にはスピーカーが左右に3台ずつ、6台設置。録音パーツが生演奏へとなだれ込む、時空が混在した壮大な音浴体験が企図される。演奏時間のみ16分と確定されているが、ピッチはところどころ不確定。現時の音楽が如何ように変貌を遂げるかは、エレクトロニクスによる音響デザイン的な手腕に多くを拠ることとなる。ライヴとは本来、現時から未来へ向かって素直な時間軸に開かれているはずであるが、録音テープという過去の介入はいかにも不自由だ。時の流れが混濁し、ときに逆流する。こうした足枷(あしかせ)を嵌める、不自由の放置とその自律性の生成への期待。さまざまな音色が共振するが、我々の聴覚はどれほどそれらを拾っているのだろう。「今、この音」として変換されているのは、果たしてスコアの意図どおりの音か。いや、そもそも解答をもたないスコアなのだ。生き物のように、毎時、聴き手の可聴域に挑むスコア。固執し続けられた形式は、ついには形骸と化す。残るのは、とてつもない濃度を内包する、縹緲(ひょうびょう)とした境地である。半世紀前の「今」も遠くて近い。捉えようとするほどにすり抜ける、高橋悠治そのもののようだ。(*文中敬称略)
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