ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #96 R.I.P. Carla Bley<Baseball>
Carla Bley (カーラ・ブレイ) が今月17日に亡くなった。享年87歳、脳腫瘍だった。筆者のカーラとの出会いはGeorge Russell (ジョージ・ラッセル) だった。残念ながらカーラ本人と会う機会はなかったが、ジョージはカーラを気に入っていた。後にPaul Bley (ポール・ブレイ) に会った時、ああ、これがカーラの元の結婚相手だったのか、と思ったものだ。
筆者は1987年にニューイングランド音楽院の修士課程に入学し、ジョージ・ラッセルのティーチング・アシスタントの職を得た。彼の最初の一言は、「きみはぼくのアルバムを何枚持っているのかね?」だった。ジャズを碌々知らなかった筆者はジョージの名前すら知らなかったので、冷や汗行水状態だった。代講するアンサンブルクラスのために50曲ほど譜面を渡された。その譜面を抱えて学校の図書館に飛んで行き、ジョージのアルバムを聴きまくった。そこで出会ったのがジョージの『Stratusphunk』(1961) に収められているカーラの<Bent Eagle>だった。ジョージが好んで学生に演奏させる曲の中でジョージ本人の作品ではないものは3曲しかなかった。<Milestone>と<Kige’s Tune>とこの<Bent Eagle>だった。
カーラは当時ジョージの写譜屋を勤めていたそうで、その関係でカーラの作曲作品がジョージの目に止まったらしい。貧乏学生の筆者も学校外でジョージの写譜をしてお小遣いをもらっていた。筆者の作曲作品はジョージの本に掲載された程度だったが、それでもなんとなく親近感を持った。カーラが後述するインタビューでジョージの写譜をして多くを学んだと語っていた。特に『Ezz-thetics』(1961) に収録されている<Lydiot>が大好きだったそうだ。筆者もこの曲からは多くを学んだ。ちなみにこのアルバムでのジョージのピアノ演奏はすごいものがあるので是非ご一聴頂きたい。
ジョージはJimmy Giuffre (ジミー・ジュフリー) と仲がよく、筆者も親しくしてもらっていた。パーキンソン氏病を患っていたジミーのアンサンブルクラスの代講を頼まれることが時々あったので、Jimmy Giuffre 3『1961』をまず手に入れてジミーを知ろうとした。すると、なんとカーラの作品が4曲も取り上げられているではないか。<Jesus Maria>、<In The Mornings Out There>、<Ictus>、それと<Temporarily>だ。特に<Ictus>はむちゃくちゃカッコいいと思ったものだ。ここでカーラのアルバムを聴き始めて大問題にぶち当たった。こんなことを公衆の面前で口にして闇討ちに合うかも知れないと危惧しながらも、ここは正直に白状するしかない。筆者は、なんと、Steve Swallow (スティーブ・スワロー) のベース・ギターがどうにも苦手なのだ。これだけ世の中で認められているアーティストが苦手と言うからには、きっとこちら側の問題に違いない。筆者は了見が狭いらしく、ベースがバンドをドライブする役目をしない音楽に対して自動的に耳が塞がってしまうのだ。スワローはピックを使い、しかもアップストロークを多用するのでオン・トップ・オブ・ザ・ビートでドライブするのは物理的に不可能だ。ジミーの『1961』や上記の『Ezz-thetics』などでは彼はアップライト・ベースで、思いっきりオン・トップ・オブ・ザ・ビートでドライブしている。エレクトリック・ベース対アップライト・ベースという問題ではない。カーラのバックビート系の曲でわかるように、スワローはグルーヴでドライブする役割ではなく、それよりも音楽的に貢献しようという演奏をする奏者に変身したようだ。バックビートが気持ちいいVictor Lewis (ヴィクター・ルイス) がドラムの時はまだいいが、そうでない時は耳がシャットダウンしてしまう。なんと不幸な身体なのであろうか。そして、カーラの作品の殆どにはスワローが漏れなく付いて来る。話は変わるが、それにしてもカーラの活動範囲の広さはには驚かせられる。
“At that time, we were into free playing,” she said. “There might be a motif or melodic idea or figure, and then it was whatever comes to mind. Eighty percent could be good and twenty bad. Or the opposite. It encouraged me to write for musicians whom I thought needed something”.
「最初はフリーな演奏を楽しんだわ。モチーフとかメロディのアイデアを気の向くまま発展させたりね。8割良くて2割悪かったり、その逆だったり。これが始まりで、何かが足りないミュージシャンに (必要なその何かを補うために) 曲を提供するようになったの。」PleaseKillMe.comインタビュー
カーラは意外なアーティストの作編曲並びにプロディースを務めてジャズ界を騒がせたことも多々あったようだ。例えばPink Floyd (ピンク・フロイド) のNick Mason (ニック・メイソン) の初ソロアルバム、『Nick Mason’s Fictitious Sports』(1981) はカーラの魔術満載だ。ニックのインタビューによると、カーラがカセットテープでアイデアを送って来たのだが、それがまさに自分のやりたいことを提示していたのだそうだ。その他にもカーラはCream (クリーム) のJack Bruce (ジャック・ブルース) に曲を提供していただけでなく、なんとツアー・バンドにまで参加していた。
ところで、カーラはあちらこちらのインタビューで、「自分は作曲家であって、インプロビゼーションは得意でない。何せ自分の作曲の作業は恐ろしく遅く、1小節に2、3週間かかったりすることもあるのだから、即興は苦手だ。」と言うが、筆者はカーラのソロが好きだ。確かに迷いが聴こえる録音もあるが、彼女は抜群のグルーヴ感を持っているので、いつものようにグルーヴ良ければ全て良し、なのだ。
Carla Bley (カーラ・ブレイ)
1936年にカルフォルニア州オークランドに生まれたカーラの本名はLovella May Borg (ロベラ・メイ・ボーグ) 、つまりスウェーデン系アメリカ人だ。蛇足だが、Borgはスウェーデン系のキリスト教会の名称で知られるが (正しくはSwedenborgというスウェーデンの神学者が創設) 、学生時代にギグでスウェーデンボーグ教会に呼ばれてそのことを知るまで、この教会はスター・トレック・ネクスト・ジェネレーションに登場する恐ろしい民族、「ボーグ」を崇めるカルト的な教会なのかと勘違いしていて、えらく恥ずかしい思いをしたことがあった (汗)。
カーラの面白いインタビューを見つけた (YouTube→)。カーラの生い立ちの記述はネットのあちらこちらで見られるが、本人の話はもう少し詳しく興味深いものだったのでここでご紹介する。例えば、あちらこちらのインタビューで、自分の稚拙なピアノ演奏を恥じ、もっと早くからピアノを習得しておけば良かった、という意のことを言うが、彼女の母親はコンサート・ピアニスト、父親は教会のクワイヤー・マスターであり (クワイヤー・マスターという職は、聖歌隊の責任者という日本語訳になるかも知れないが、アメリカでのこの職種はそんなに単純ではない。教会の音楽全てと、会衆の子供の音楽教育までもを司どる) 、彼女は生まれた時から歩くことや言葉を覚えることと全く同レベルでピアノを学んだそうだ。四歳で教会での初演奏をした彼女に、では「もっと早く始めればよかった」とはいったい何歳のことを言っているのか、と聞かれ、「1歳」と答えたカーラに吹き出した。
高校を卒業していないカーラは、幼少の頃父親から受けた音楽教育だけが全てだった。好奇心の強い彼女は父親にピアノを習いながら、この曲はどこから来たのか、と常に聞いたそうだ。つまり、幼少の頃から作曲に興味があり、父親から手解きを受ける。音数が多すぎる。音数を減らせ、と最初のレッスンで言われたのをよく覚えているそうだ。そんなカーラだが、8歳で音楽をキッパリ止め、ローラースケート選手を目指した。ところが13歳の時、地元のアリーナのLionel Hampton (ライオネル・ハンプトン) のコンサートに友達と出掛けて、この音楽は教会の音楽より良い、と思ったそうだ。翌年、14歳の時サンフランシスコのBlack Hawk (ブラック・ホーク) でGerry Mulligan & Chet Baker (ジェリー・マリガン&チェット・ベイカー) を見てクールだと思ったそうだ。これがきっかけでマイルスを聴き始め、どうしてもNYCに行かなくてはならないと感じ、17歳の時ヒッチハイクをしてNYCに到着。その足でCafé Bohemia (カフェ・ボヘミア) に行きマイルスを見て釘付けになったと語っている。
NYCに到着して一文無しだったカーラはグランドセントラル駅でホームレスをしていたが、ジャズが聴きたいから、とBirdland (バードランド) でタバコ売り娘として働き始め、頻繁に出演していたCount Basie Orchestra (カウント・ベイシー楽団) を聴いてビッグ・バンド音楽の書き方を勉強したそうだ。そんな中、出演していたPaul Bley (ポール・ブレイ)と出会い、あっと言う間に結婚。このポールがカーラの作曲の才能を見出し、世の知れるところとなったという経緯だ。ポールはビジネスの天才で、ニューイングランド音楽院で教えていた時も音楽よりビジネスを教えていた。
カーラは性格が普通と違って面白い。インタビューアーが「インタビューにお越しいただきありがとう。」と始めると、普通なら「招いてくれてありがとう。」と応えるのが礼儀だが、いきなり「どういたしまして。」と返してちょっと驚いた。少し横柄な印象を与える応え方だったからだ。女性蔑視の激しい時代に男性社会のジャズ界で台頭するには苦労が多かったことだと思う。どこかのインタビューで「当時自分は壁の蝿だったわ。」と言っていた。つまり発言を許されない状況という意味だ。しかし、彼女の強い性格の理由は他にあったようだ。このインタビューによると、母親が8歳の時に亡くなり、そのせいか父親は自分を自由にさせてくれていたのだそうだ。そう言えばカーラが音楽をキッパリ止めたのも8歳の時だった。母親の死の影響と思われる。
カーラは運動家としても著名だ。まず1965年に2人目の結婚相手、Cecil Taylor (セシル・テイラー) のバンドで活躍していたトランペッター、Michael Mantler (マイケル・マントラー) と「the Jazz Composers Orchestra Association Inc. (JCOA)」という「the Jazz Composers Guild」から発展した有限会社を設立し、ナイトクラブでその日凌ぎの金を得るジャズ・ミュージシャンの生活向上を試みた。他のインタビューで、これのおかげでたくさんの著名なジャズ・ミュージシャンたちに一生感謝されるような貸しを作った、と笑って話していた。そして1972年にNew Music Distribution Service (NMDS) を設立し、大手レコード会社に対抗するようにインディー・レーベルの配布を司どる会社を設立し、コマーシャルに乗らないミュージシャンたちの救世主となった。その4年前、1968年にCharlie Haden (チャーリー・ヘイデン) と始めたthe Liberation Music Orchestra (リベレーション・ミュージック・オーケストラ) はかなり政治色が強かった。ベトナム戦争に対する徴兵制度非難、アメリカの帝国主義的思想の非難、警官の横暴への非難、人種差別問題などを音楽で訴えようと試みた。この時期のアメリカと世界の変動は本誌No. 245、楽曲解説#34でアレサ・フランクリンを取り上げた時に表記したので是非ご参照頂きたい。
カーラは死ぬまで書き続けていたそうだ。書くのは机に向かってだが、アイデアはピアノに向かってまずコードを弾くのだそうだ。チャーリー・ヘイデンが亡くなった時、まず彼が好きそうなコードを弾いたそうだ。自分が好きなサウンドのコードではなく、彼が好きそうなコードを、だ。そこからアイデアを発展させて、『Time/Life』(2016) のための1曲を書いた、と語っていた。このインタビューが2016年なので、この時点ではまだアルバムはリリースされておらず、「どの曲のことを言っているのかはまだ秘密」と真面目な顔で言っていた。筆者の勝手な印象だが、ちょっと怖い印象のカーラはその反面、奇抜なユーモアのセンスもあったようだ。アルバムジャケットのデザインやプロモーション写真などを見ると、ちょっとおふざけのポーズが多々ある。奇抜なポーズのアルバムジャケット写真はかなり売り上げを助けていたと思う。
このインタビューでスティーブ・スワローのことも話していた。彼はカーラの3人目の結婚相手になるが、彼女にとってNYC生活最初からの音楽上の相棒だ。絶対的な信頼を置いていることが言葉の端々から伝わって来る。「スティーブは毎日取り憑かれたように自分のベースのサウンドを追求しているわ。色々な楽器やアンプを試したりしてね。ベース製作者が近くに住んでるから、売人が近所に住んでるヤク中のようなものよ。」と言って大爆笑だった。
このインタビューの最後でインタビューアーが若いアーティストたちへの助言をカーラに求めた。自分は自分の娘にさえ教えたことがないので、どう答えたらわからない、どんなアドバイスも無意味だ、などとかなり悩んだ末、「聴いて学ぶしかない。好きな音楽を見つけて、自分にもあんなことができたらどんなにいいだろう、という目標を定めるしかないだろう。」と言っていた。その娘だ。2人目の結婚相手、マイケル・マントラーとの間にできたKaren Mantler (キャレン・マントラー) はB3/シンセサイザー奏者としてカーラのツアーバンドに参加しているだけでなく、9枚のカーラのアルバムにも参加している。また、今回初めて知ったのだが、日野元彦の『It’s There』(1993) にも参加していた。そして、キャレンは完璧にカーラの着こなしから髪型までコピーをしている。彼女にとって母親がヒーローなのだ。
面白い動画を見つけた。キャレンはDavid Sanborn (ディビッド・ダンボーン) の息子、ベース奏者Jonathan Sanborn (ジョナサン・サンボーン) と高校の時から「Karen Mantler & Her Cat Arnold」というバンドをやっており、ここではリード・ボーカルをしながらハーモニカを吹いている。母親と全く違うことをしているのだ。だがこの歌詞は「どんなに頑張ってもダメだわ」という内容で、明らかに母親を意識していると同時に、これは母親譲りのブラックユーモアに違いないと思った。是非お楽しみ頂きたい (YouTube →) 。興味が沸いたので調べてみると、なんとリーダー・アルバムが6枚も出ているではないか。これがなかなか面白い。まず歌い方に実に味がある。そのうちじっくり聴いてみることにする。
『SELECTED RECORDINGS』(2004)
筆者はこのアルバムだけは持っていた。ベスト・オブ・アルバムだったからだ。と言っても、友人からコピーさせてもらったカセット・テープだったのでクレジットは全くわからなかったが、今回取り上げるアルバム1曲目、<Baseball>の印象が強く、カーラの譜面の凄さに感嘆したものだった。このアルバムが好きな理由は他にもある。これだけ色々詰め込まれいるのに、選曲とシーケンシング (曲の並べ方) が実に素晴らしいのだ。今回調べてわかったのだが、これはカーラ本人による選曲とシーケンシングだった。カーラの名曲<Lawns>が含まれていないのが意外だったが、アルバムの完成度を考えれば実に腑に落ちた。このアルバムに限ってなぜか苦手なスワローがそれほど気にならないのは、それぞれの曲に変化が富み、グルーヴへの期待感を維持しなくていいからなのだと勝手に解釈した。カーラ恐るべし。
<Baseball>
このアルバム1曲目は『4 x 4 』(2000) に収録されていた曲らしい。ご存知の通り「4 x 4」とは4輪駆動車のことだが、ジャケットの写真は8輪駆動車で、しかもバンドメンバーの顔がはめ込みされている。ユーモアたっぷりと言ったところだ。この<Baseball>という曲は、当然野球のことだ。筆者は子供の時のトラウマから野球を始め団体競技が苦手でテニスとスキーしか観戦しないのだが、学生時代にボストン・フェンウェイ球場の真横に住んでいたので (野球渋滞と駐車規制からの悪夢も野球が嫌いな理由の一つだ) 野球場の騒音は知っている。アメリカの野球には必ずオルガン (発祥はB3だが現在はエレクトーン) の演奏が付きものなのだ。そして、アメリカ全土で共通のモチーフがある。そのうちの一つにCharge Music、つまりそれ行くぞ的な場面で使われるモチーフがこれだ (YouTube →) 。
このCharge Musicのラインはこの曲のエンディングに登場するが、カーラのこの曲のイントロは5拍子捻りの似て非なるものだ。音列も違うのに聴衆は何が始まるのか即座に察知できるところがすごい。採譜をご覧ください。
次に続くのがイントロの発展と思いきや、なんとこの曲のヘッド (日本ではテーマ) だ。このヘッドがまたすごい。一度聴いたら頭から離れないのだ。
まずこれがヘッドの第一テーマの前半だ。繰り返しで最後4小節のメロディーが変更されているが、フォームは同じだ。まず目に着くのは、イントロの変拍子が移動しているだけでなくイントロの2フレーズ目、つまりモチーフの第一展開のDドリアンのモチーフから始まっており、イントロの頭でわざとそれを外していたというわけなのだが、聞き流すと全く気が付かないほど小さな細工なのだ。変拍子の移動すら自然に聴こえる。そして、この第一テーマの前半が変拍子のストップタイム、後半は3対2フレーズでグルーヴという細工だ。なんてオシャレだろう。カーラ凄すぎである。
このコード進行にご注目頂こう。ドミナントコードとそれに対して半音上に位置するSubVコードがこの曲のメインテーマだ。後述するソロセクションで説明する。ヘッドの17小説目から始まる第二テーマを見てみよう。
5/8小節モチーフの位置でお分かりのように、第一テーマでは2小節フレーズだったのが第二テーマでは3小節フレーズに発展し、それを二回繰り返す6小節フレーズと中途半端にし、8小節から2小節足りないことからストップタイム感を見事に強調している。もうひとつ注目すべきはコードだ。1小節目も2小節目もF#7コードだが、メロディーが示唆するテンションが違う。最初の小節はCナチュラルがメロディーなので#11コードとも考えられるが、カーラは♭9をヴォイシングしているのでCナチュラルは♭5扱いになり、これはオルタード・コードと判断するが、2小節目のメロディーはDとF#、つまりb13とナチュラル9thだ。つまりこれはオルタード・コードではない。筆者が想像するに、カーラは二階建てコードを想定しているのだと思う。1階(例えば左手)がF#7、2階(例えば右手)がD7だ。筆者の大好きなタイプのサウンドだ。もうひとつ、ベースラインの最後の音は付点8分音符で次のコードを先取りしているが、これがコードとぶつかってなんともふわふわ感を醸し出している。オシャレだ。続いてヘッドの第一テーマがもう一度再現されてソロ・セクションに入る。
さて、今回この曲を選んでみたかった理由のひとつに、このソロ・セクションのコード進行にやけに惹かれたのだ。ソロは最初にLarry Goldings (ラリー・ゴールディングス) のB3、次にカーラのピアノ、最後にGary Valente (ゲイリー・ヴァレンテ) の強力なトロンボーンソロだ。この比較的長いソロフォームで全く飽きない展開に実に感心したのだ。採譜してみた。
ご覧のようにフォーム自体は順当な【A】【A】【B】【A】形式だが、全てがドミナントコードとそのSubVコードで、全てが2度でふわふわと移行し、最後の【A】は最初の【A】と全く同じなので切れ目感がゼロという、ソロイスト泣かせの進行だ。このアイデアはすごいと思った。しかも、最初聴いた時脳みそがふわふわ状態に陥り全く気が付かなかったのだが、聴き返すとなんと3人ともソロのコード進行が違うではないか。カーラのソロのコード進行を採譜した。フォームはなんと二倍の長さだ。
カーラのこのソロは実に味がある。ちなみに筆者はこのカーラの左手のタイム感が好きだ。ビートの後ろにゆったり乗っかってグルーヴしている。次にヴァレンテの強力なトロンボーン・ソロの進行だ。これにはストップタイムも含まれており、むちゃくちゃカッコいい。
まず、バリバリのエキサイティングなソロになるようにコード進行は単純化されている。まずD7とE♭7の繰り返しが2倍の長さの32小節になっており、ブリッジに当たる【B】はピアノソロの後半に登場したE7とF7の繰り返しだ。その後に続くのがストップタイムだ。ここで注目したいのは、キックの入りがズレているのであたかもモチーフの5/8拍子が登場したかとの錯覚を起こさせられる。実に巧妙だ。カーラ実に恐るべし。
特筆すべきはそれぞれのソロの間に入る間奏だ。毎回テーマを発展させて登場させている、そのやり方がまた素晴らしい。トロンボーン・ソロの直前の間奏では、なんとホームランを打つ劇中効果音のスネア・ロールまで入っている。やっぱりカーラは相当おふざけ屋さんに違いない。是非お楽しみ下さい。