ジャズ・ア・ラ・モード#40  ジャコ・パストリアスの『ボヘミアン・ヒッピー・ルック』

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40. Jaco Pastorius’s Bohemian Hippie Look
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos: Pinterestより引用

日本が生んだ世界的なファッション・デザイナー、高田賢三氏が今年の9月にCOVID-19の感染により亡くなったのは大変な衝撃だった。1970年代に高田賢三に憧れてファッション業界に入った人達は、私自身も含めて数多いはずだ。日本のデザイナー達がパリに進出し始め、華やかな時代だった。1950年代がクリスチャン・ディオール、1960年代はイヴ・サンローラン、1970年代はケンゾーと言われたほど高田は時代を牽引していたデザイナーだった。

高田賢三は1939年、兵庫県姫路市生まれ。神戸市外国語大学を中退し、文化服装学院で学ぶ。文化服装学院卒業後、1969年にデザイナーの登竜門でもある第8回装苑賞を受賞。1965年に渡仏。アパレル・メーカーに務めた後に独立し、『ジャングル・ジャップ』のショップ(現KENZO)をオープン。その後パリ・コレクションで注目されるブランドに成長し、高田自身もパリ・コレクションの重鎮となって行った。1993年『KENZO』ブランドを売却し、1999年には一線を退くが、2004年にはアテネ・オリンピックのユニフォームのデザインを担当。今年1月には自身がデザインするホーム&ライフ・スタイルの新ブランド『K三』を立ち上げたばかりだった。
毎日ファッション大賞、フランス芸術文化勲章シュバリエ位(1984年)、紫綬褒章(1999年)、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ位(2016年)他、数々の賞を受賞している。

ファッションの流れは1970年代に入ってから大きく変化した。男女問わず『ファッションの多様化』の時代が始まる。プレタポルテのファッションも徐々に変化し、デザイナー達も思い思いのコレクションを発表し、買い手も好きなデザインを選んでいくようになる。
そんな多様化していくファッションに先駆け、ファッション界に君臨していたのが、日本人デザイナーの高田賢三だった。高田の服は西洋の服にはない色合わせ、モチーフ合わせ、重ね着など、服そのものよりも『コーディネート』が重視され、ファッションの流れが急速にカジュアル化して行く中、『エスニック・ファッション』の大きな流行を引き起こした。
『エスニック』というのは『民族的な』という意味で、主としてユダヤ教、キリスト教以外の民族調ファッションを指す。高田は、日本から中国、インド、エジプト、アフリカ、そして東欧などから影響を受けたファッションを毎シーズン発表していた。(コラム#26. アフリカン・ファッションに身を包んだジャズ・ミュージシャン達より復習)
そして、その異文化ファッションをミックス、融合させたスタイルも高田のファッションの大きな特徴と言える。

*高田賢三の1970年代のコレクションより

エスニック・ファッションは多くの若者の間で様々な形に変化し、ポピュラーになって行った。
特に『ボヘミアン・ルック』には人気があった。『ボヘミアン』とはボヘミア地方(旧チェコ・スロバキア)のという意味。遊牧民やジプシー、自由な生活をしている芸術家達などの事を言う。ボヘミアン・ルックは、そういった要素をファッションに取り入れたもの。小花柄、ペイズリー柄、絞り染め、刺繍やリボン、テープなどが施された装飾的なシャツ、チュニックやドレス。ベルベットやスエード素材のアイテム、破れたり切りっぱなしのTシャツ、マクラメ編みやフリンジのついたアイテム、レディスではマキシ丈スカート。メンズではベルボトム・パンツやソフトなフレア・パンツなどが代表的なアイテム。長い髪、ヘアバンド、羽飾りなども入ってくる。
ベトナム戦争による反戦ムードが強い時代だったため、同時期に流行った『ヒッピー・ルック』とオーバーラップするところも多々ある。『ヒッピー・ルック』についてはまた別コラムで取り上げようと思う。
現在でも、『ボヘミアン・ルック』をコレクションに取り入れているデザイナーはいる。

*ボヘミアン・ルック

*ヒッピー・ルック

高田賢三他界のニュースを聞いた瞬間、高田のエスニック・ファッションとほぼ同じ時代にエスニック・ファッションに身を包みジャズ・シーンで活躍していたジャコ・パストリアスの姿が、真っ先に頭をよぎった。

ジャコ・パストリアス (John Francic Pastorius III世:1951年12月1日 – 1987年9月21日)はペンシルバニア州ノリスタウン生まれのエレクトリック・ベース奏者。ジャコというニックネームは父親が付けた。7歳の時に両親の離婚によりフロリダ州フォート・ローダーデールに母、兄弟と移る。音楽的素養は幼い頃からあった様で、本格的な教育は受けていない。ジャズ、リズム&ブルース、ポップ、キューバン・ジャズ、レゲエ、カリプソ・ミュージック等、幅広い音楽が日常にあり、音楽的偏見のないフォート・ローダーデールで育つ。フランク・シナトラやチャーリー・パーカも好きで良く聴いていたようだ。
ドラマーだった父親の影響を受け、最初はドラムをやっていたが、13歳の時に手首を骨折しベースに転向した。ハイスクールを卒業した17歳の頃、地元でソウルバンドを始め、エレクトリック・ベースを本格的に始める。
1971年~1974年マイアミ大学の音楽科で教える。大学で同じように教鞭をとり、良き音楽仲間だったパット・メセニーの1976年の初リーダー・アルバム『ブライト・サイズ・ライフ:Blight Size Life』にベーシストとして参加。翌1976年『ジャコ・パストリアスの肖像』をリリース。
1976年から1981年までウェザー・リポートのメンバーとして、ベーシストとしてだけでなく曲の提供も含め活動した。パストリアスは1970年代後半、パット・メセニーやジョニ・ミッチェルのアルバム『逃避行:Hejira』に参加、ツアーにも参加している。 パストリアスのベース演奏は、ファンク、叙情的なソロとベースコード、フレットレス・ベースを使用した革新的なハーモニクスを生み出していた。
1982年、ウェザー・リポート脱退後、パストリアスは21ピースのビッグ・バンドとして『ワード・オブ・マウス:Word of Mouth』でツアーを行う。この頃から、精神を病み、日本ツアーの際、バンドのメンバーを驚かせるために、頭を剃り、顔を黒く塗り、ベースギターを広島湾に投げ込んだ。ツアー後に双極性障害と診断された。パストリアスは診断前に双極性障害の兆候を示しており、度々警察沙汰になっていたが、これらの兆候は奇行、性格の欠陥、そしてパストリアス自身の自由奔放な性格の正常な部分として却下された。
パストリアスはドラッグ中毒と精神的不健康状態に苦しみ、彼に対する多くの称賛にもかかわらず、人生の後半には周りの人達からの信頼も失い仕事も減ってきた。経済的にも苦しく、1980年代半ばにはホームレスだった事がある。1987年にフォート・ローダーデールのクラブの楽屋に入ろうとしところ、あまりの見窄らしさに
ミュージシャンとは思われず、ガードマンに制止され、それでも無理やり入ろうとして、クラブ・オーナーに殴られ顔面骨折し、結果として亡くなった。享年35。

1970年頃まで、ほとんどのジャズ・ベーシストは、アコースティック・ベースを演奏しており、ベーシストはドラマーと一緒にバックグラウンドに留まっている傾向にあった。パストリアスは、ベーシストの為に多くのアイデアを持ちエレクトリック・ベースを主役級にまで押し上げた。大きな音、速いスピードで演奏し、冗談を言って群衆に話しかけたりした、画期的に新しいジャズ・ベーシストだった。2017年の時点で、ダウンビートジャズの殿堂入りした7人のベーシストの中で唯一のエレクトリック・ベーシストであり、史上最高のエレクトリック・ベーシストの1人として称賛されている。

パストリアスがミュージシャンとして活動をし始めた頃のティーン・エイジャーから1970年代初期頃のファッションは極めてシンプルだった。ほとんど無地のT-シャツにパンツが中心だった。髪もまだ短く、端正な顔立ちがシンプルな服によって、より美しく引き立っている。
ウェザー・リポート時代初期にもファッションにそれほど大きな特徴がない。
1970年代の半ば頃から変化が見られる様になり、エスニックな要素のある服を着始めた。
当時『ウッドストック(1969年)』にも参加していたジョニ・ミッチェルのファッションやロック・ミュージシャン達、また一般の若者達にも広がったヒッピー・ルックに影響されたかもしれない。パストリアスのファッションは、『ボヘミアン・ヒッピー・ルック』とでも言ったらいいだろうか?手刺繍の施されたシャツ、チュニック、絞り染め、エスニックなモチーフのジャケット、ベルボトムのパンツや、幅広のパンツ、紐ベルトなど、カラフルなのも特徴。
特にブルーの刺繍入りのシャツ、赤に刺繍を多用したチュニックはお気に入りだった様だ。赤のチュニックに至っては随分長い期間着ていた。チュニックの下に イエローやブルー、白の長袖Tシャツをその時々によって取り変えたり、暑い時は1枚で着たり、時にはウエストを紐ベルトで締めたりしてよく演奏していた。全てカジュアル単品のコーディネート。マルチカラー・ストライプのトップスもよくみられた。
そして何と言っても、彼の美しいロングヘアーにトレードマークになったヘアー・バンドとカラフルなニットの帽子は欠かせない。

*ジャコ・パストリアスのファッション

パストリアスは、絵を描くのがとても上手だったようだ。そんな彼の色彩感覚もファッションに表れている。1978年6月のADLIB 誌の松下佳男氏のインタビューで、どんなアーティストが好きかという質問に、「ピカソは好きだな。ニーチェのような哲学者もイエス・キリストも哲学者としては好きだ。イタリアの画家カラヴァジォはいいね。(中略)シャガールやエルヴィス・プレスリーとか。僕はあまり幅広くは知らないけど、今みんな無知になってるね。考えないように教育されているんだろうな。それに比べると、僕はユニークなものなら何でも好きなんだ。勿論ステージ衣装もね!」と答えている。

パストリアスは自分で服を選んでいた。1970年代初期からから1980年後半、亡くなるまで『ボヘミアン・ヒッピー・ルック』を好み、時々『超シンプル・ルック』に戻ったりしていた。フロリダという暖かく解放的な土地で色々な音楽を聴いて育ったパストリアスの野性味溢れる音楽とファッションはとてもよくマッチしている。
パストリアスのスタイルは、高田賢三が発表した温かい印象のエスニック・ルックから表現の仕方は変化しているが、明らかに高田が1970年代に打ち出したファッションがルーツであり、その流れを汲んだ典型的な1970年代のファッション・スタイルだ。

今回のコラムを書くにあたり、私の良き友人であるフロリダ、フォート・ローダーデール在住のジャズ・ギタリストのランディ・バーンセンが、パストリアスの話をしてくれた。バーンセンはジャコ・パストリアスと一緒に育った仲で、長い間家族ぐるみの付き合いをしている。バーンセンのアルバム3枚にもパストリアスは参加している。現在はパストリアスの息子達、フェリックスとジュリアスと一緒に時々プレイしている。
ランディ・バーンセン曰く、「ジャコのファッションは、彼の音楽と同じ。ゲームをプレイしているようなもの。」だそうだ。

ランディ・バーンセン(左)&ジャコ・パストリアス、1972年

*You-tubeリンク、1978年ドイツでのライブ。シンプルな赤の上下。ミステリアスな雰囲気でよく似合っている。2本目は1986年。お気に入りの赤のフォークロア・スタイルのチュニックを着ててターコイズブルーのニット帽を被っている。

<A Portrait Of Tracy>ドイツ・1978

<Teen Town>イタリア・1986年

 

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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