風巻 隆「風を歩く」から vol.5 「Vedda Music Workshop 」
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
1977年、20歳の大学生だったボクは、夏のある日、家の近くの書店で「ジャズ・マガジン」というジャズ雑誌を買って帰った。高校時代からドラムをはじめ、友人たちとのロックバンドで演奏していたけれど、バンド活動がうまくいかず悶々としていた頃、スタジオミュージシャンを目指してジャズスクールに行くことを考え、バイトしてお金をコツコツ貯めていた。ジャズのことはほとんど何も知らなかったので、雑誌でも買って勉強しようと、たまたま棚にあった7月号を手に取ると、たしか巻頭は写真入りで「V.S.O.P.」というマイルス門下のミュージシャンの来日を特集していた。
その雑誌の中で「V.S.O.P.」よりも誌面を割いていたのが、ミルフォード・グレイヴスという黒人ドラマーの来日記事で、彼をニューヨークから招聘した間章というジャズの批評家/オーガナイザーが、ミルフォード・グレイヴスというミュージシャンがいかにこの時代に突出しているかということを、音楽家、活動家、思想家、武道家、治療家、アフリカ音楽研究家といったさまざまな横顔や、アフロアメリカンの文化に根差す彼の特異な音楽観を紹介しながら、熱い言葉で伝えていた。その文章の中で、ボクははじめて「即興演奏」という言葉に出会い、衝撃を受けたのだった。
自分も「即興演奏」をやってみよう…、そう思ったボクだったけれど、ミルフォード・グレイヴスのコンサートはもうすでに終わっていて、それからの数年は、「即興」を探す旅のようなものをずっと続けていた。EEUを名乗っていた近藤等則、高木元輝のコンサートへ出かけ、そこに集まっていた島根孝典、河野優彦らと練習を始めるようになる。楽器を木胴のドラムに変え、浅草の和太鼓の店で分けてもらった牛の革を細工してドラムヘッドを自作していた。1978年には東京芸術大学の小泉文夫教授の「民族音楽ゼミナール」に加わって、沖縄・八重山をフィールドワークした。
トランペットの近藤さんに勧められて「新体道」という武道を始めたり、吉祥寺の羅宇屋の若林忠宏さんから北インド古典音楽のタブラを習ったりしたのも、即興を自分のものにしたいという思いから始めたことだけれど、即興というものはなかなか手ごわいものだった。そもそも即興は「何をやってもいい」という前提に立っているので、楽器のうまい下手は関係なく誰でもできるものと思われているけれど、いざ即興で演奏しようと思っても、これまでの音楽のイディオムをただなぞるだけだったり、自分の好きな音を自分に向けて投げかけるだけに終わってしまうことが多い。
1979年からボクは、ドラムの土取利行さんに紹介され、ジャズ評論家の竹田賢一さんが主宰する即興演奏のワークショップに参加する。Vedda Music Workshopというその活動は、毎週月曜日の夕方、早稲田のJORAという、「水玉消防団」というバンドで活躍するカムラさんや天鼓さんがやっていたスタジオ+カフェといったスペースを借りて行われていた。参加費を500円払えば誰でも参加自由という集まりで、何も決めないでただ即興で演奏したり、それぞれの持ち寄ったアイデア(案曲)をもとに音を出したりしながら、自主的なコンサートを定期的に行っていた。
さまざまにプリペアドしたエレクトリック大正琴を弾く竹田さん。中国の二胡という胡弓を独特の奏法でうねるように弾く向井千惠。カセットテレコやマイクを使ってハウリングやノイズを作り出す鈴木健雄。グラフィックアーティストでクラリネットを吹く河原淳一。そうしたメンバーがコアになって、そのときどきでさまざまなミュージシャン/非ミュージシャンが自発的に参加していた。スリランカの少数民族で、一人が一つの歌を持ち、同時に演奏してもけして合奏しないというヴェッダ族の「音楽以前」の音のあり様が、この集まりの音を実験的で無秩序なものに導いていた。
ヴェッダに参加した人達を思いつくままあげてみると、ベースとパフォーマンスの河本きの、ステレヲズのギタリスト大木公一、フランスパンをかじった山岸重雄、カルミナで活動していた高橋鮎生、映像作家の乙部聖子・福本健修夫妻、ディジュリドゥを演奏する臼井弘行、不失者で有名な灰野敬二、クラリネットのヤタスミ、第五列のGESO、ヴォイスパフォーマンスのカムラさん、ガセネタの大里俊晴、タコの白石民夫etc…、まあ、言ってみれば80年代の東京のアンダーグラウンドシーンを騒がせた人物がそこに集まり、それぞれの個性的な音をそこに放出していた。
パフォーマンスアーティストの霜田誠二さんがヴェッダに参加すると、それまで、ともすれば自閉的な音のたまり場になりかけていた活動に方向性といったものが加わっていき、81年5月の関西ツアーや、9月の「10ミニッツ・ソロ・インプロヴィゼーション・フェスティバル」、82年2月の長野ツアーといった形で具体的に動き出す。関西ツアーの際には大阪市大新聞の5月号が全面ヴェッダを特集し、霜田誠二と向井千恵の対談、竹田賢一によるヴェッダ論、詩人の青木はるみによる霜田誠二論が掲載され、ヴェッダのライブや霜田誠二の「豚会」の広告が賑わった。
豊島公会堂で2日間行われた「10ミニッツ・ソロ・インプロヴィゼーション・フェスティバル」は、66人の出演者(海外からのテープ参加2名)による、1日7時間にわたる大掛かりなイベントで、吉沢元治、梅津和時といったジャズ・ミュージシャンや、鈴木昭男、ヒグマ春男といったパフォーマー、灰野敬二や園田游といったロック・ミュージシャン、そして東京のアンダーグラウンドシーンで活動していた多くのミュージシャン/非ミュージシャンそして作曲家やダンサーも加わっていた。そのイベントは、「即興」という方法への期待値の高さといったものを感じさせるものだった。
ある意味で、この国の即興芸術の幅の広さや実験性といったものを80年代初頭に牽引したのがヴェッダだったと言えるのかもしれないが、早稲田のJORAや吉祥寺のマイナーといったスペースが無くなり、竹田さんがA-MUSIKという政治性を前面に出したバンドを始め、向井さんがChé-SHIZUという歌モノのバンドを始めた頃から、練習場所が変わったりメンバーの出入りが続いて、ヴェッダの活動は次第に下火になっていった。鈴木健雄と霜田誠二を中心に、「第五列」で2本のカセットテープを作り、たしか83年頃には、ヴェッダは自然消滅していたと思う。
当時、カセットで気軽に演奏を録音できるようになり、ダブルカセットでテープを編集したりダビングすることも手軽にできるようになって、インディーズといったブームが起こってきた。東京のアンダーグランドシーンの中からもバンドを渡り歩くようなミュージシャンが出てきたけれど、そうした音楽シーンを奔走する「かっこいい」ミュージシャンを横目に、自宅や野外や路上に即興の場を求める人や、音楽というよりは音を使ったパフォーマンスを展開し、「かっこいい」ことはしなくていい、「かっこ悪い」くらいで丁度いいといった不思議な美意識に包まれた一群の人達がいた。
ヴェッダという活動を支えていたのは、ミュージシャンとしての上昇志向を持たずに、場所を選ばず、音楽という余所行きのバリヤーから離れて、勝手気ままに音を出したいと思う、即興愛好家といった人達だったようにも思う。一人一人の音の営みは自由奔放で、何をやるのかわからないスリリングな展開や、共演者の度肝を抜くようなハプニングといったものが「表現」の中心になっていた。ヴェッダの活動の中で、ボクは次第にドラムセットを解体し、片面のタムタムにギターのストラップを付けて肩から下げるという演奏スタイルにたどり着く。自由に動ける演奏スタイルは、次第に路上にまで表現を広げていくことになる。ボクの「即興」を探す旅はまだまだ続いていたけれど、「即興」というものはある種の身体感覚で、それまでの自分の殻を破ることで自分の体の内側から新しい音が現れてくる…、その新鮮さや驚きといったものが、どうやら「即興」というものらしいということが、ようやく少しずつわかってきた。