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GUEST COLUMNNo. 257

デレク・ベイリーを論ず(3) 

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野 onnyk 吉晃

1.非時と音響
最近、複数の知人からAIによるフリージャズがネット上にアップされていると教えられたが、何も不思議は無いし、フリージャズがイディオムとクリシェを主としているなら、別にフリーに限る事無く可能だし、ノイズというジャンルならさらに向いているように思う。
問題はそこで音響として提起される以前、つまりモチベーションであり、またいかに終了すべきか、そこでそれが現象化した意味だろう。それは演奏者のみならず、聴衆や環境の問題、あるいはコンテクストにある。

そうなると、ジャンルを問わず、何故人は即興演奏をする事を欲するかと問い直してもよかろう。
それは非生理的、非生産的行動である。音楽の社会的機能の一面、生殖行動、宗教儀礼、社会紐帯、恍惚酩酊への演出にも通じない事は無い。同様の衝動である舞踏、舞踊とはまた異なる。知的な欲求である、言語〜物語テクスト生成や共有の欲求でもない。
純粋に「遊び」への、しかも「おわりなき遊び」への欲求となる。 ホイジンガ、カイヨワが看破したように、人間は遊びを欲する、ホモ・ルーデンスである。
そして「おわりなき」というのは、ヒトが終わりある存在であることの裏返しだ。終わる存在たる人を越えようとする衝動。
言葉でなく、声でなく、鳴き声でなく、自然界の発する音響でなく、人の作り出す制御された音響としての「音楽」、「演奏」、それはアイオーンへの渇望となる。 ラ・モンテ・ヤングはミニマリズムではなく、エターナリズムを創出した。それは厳しく形式への反発と、一方で伝承的形式の必然性をもった。 彼はヒンドゥスタニ伝統的唱法「キラナ」のマスター、パンディット・プラン・ナートに(テリー・ライリーとともに)学んだ。ヒンドゥスタニ系古典声楽は主に音階名で即興歌唱をするが、キラナは違っている。言葉の無い歌、声の芸術、声の楽器化、器楽の声化を追求したとも言いうるだろう。

従って、ヤングの声は、分節化されぬものを志向する。
時間による存在の分節化が我々の生だとすれば、死すべきもの=モルシマは、不死のもの=アモルシマに近づこうとする。
これを、神への漸進という希求と捉えるか、世界精神の自己展開と考えるか。

声は人間そのものの楽器化である。
しかし、楽器という媒介物、人工物を通して、同様の追求をできないか。
衝動の源泉として、また受け皿としてのオブジェ=楽器。
楽器、それは物質=素材でできている。その意味では人に似ているが、すでに一つの天然の生を終えている、人によって終わらせられた天然素材の第二の生としての楽器。それによって神=無限の存在に近づく、訴える、呼びかける。
スーフィズムにおいては、神を呼ぶ其の祈りの声自体が、神からの応えだと言うが。

このような想いは可能だろうか。
人は動物を飼いならそうとする。人が神に飼われているがごとく。
あるいはまた、人は神の楽器である。
神が自然を支配するごとく、人は楽器によって音響を支配する。

「人は弱い。それゆえに強いのだ」という逆説を用いたのはパウロだが、それを「人は儚い。それゆえに無窮だ」と言ってよいだろうか。そして永遠性の保証として「霊魂」という観念を生み出すのか。
音楽批評において、霊的とか精神性といった言辞が弄ばれる時、観念論に堕すのは仕方の無い事だろうか。

AIに即興演奏をやらせてみよう、という実験的精神、あるいは興味本位、好奇心が生まれたのは何故か。その意志そのものが、即興演奏の無限性をどこかで希求していないか。

2.アナーキスト列伝
ロックギターの手練れ達がジミヘン、ザッパ、三大ギタリストをいくらコピーしようと、その向こう側にあるR&Bやブルーズメンのアーカイブに達し無い限り、そのコピー元以上にはなるまい。日本のロックギタリストには殊更感じる事だ。
それを諦めた所からパンク、ニューウェーヴの異様な、ユニークな、訳のわからないギターが始まった。私はアート・リンゼイ、あるいはスネイクフィンガーや、アンディ・パートリッジの感覚を支持する。
これは、多くのサックス奏者がバードのアドリブコピーを諦めた時点から新しいサックスが聞こえ始めたのに近いかもしれない。
そして「バード」の羽ばたきは、ジャズの天頂まで達してしまう。調性のある即興演奏の限界が見えたのだ。
急速な転調や移調のなかで、複雑なフレーズを繰り返し〜それこそがビバップだ〜アドリブパートで彼のフレーズは、すでに無調的に半音階的なジャンプとパッセージで上昇下降の飛行術によって「聴覚のめまい」を惹起する。もう、すぐそこにフリージャズが来ているではないか。
サックス奏者たちはこぞって、その飛翔を真似ようとした。そしてイカロスのように墜落した。

オーネットの挑戦はちがっていた。彼は調性の呪縛を断つことをいち早く志向した。
この試みを彼よりも大胆に、そして大きなアンサンブルで実践したのがサン・ラである。驚くべきはすでに40年代後半に完成度の高いアルバムとして記録されていることだ。ここで触れる余裕が無いのは残念である。
オーネットは、しかし自らのサックス演奏に留まらず、木管五重奏曲を作曲した。これはシェーンベルクが12音主義を確立した記念碑とも言える木管五重奏曲に倣ったのかもしれない。勿論事情としては英国のギルドの制約により、否応無く要求されたとしても。
しかしまた、オーネットの弦楽四重奏曲は、シェーンベルクよりも、バルトークやショスタコーヴィッチへの近親性を感じさせる。

これもまたハーモロディクスなのだろうか。モロッコのジャジュカ村の演奏家達との共演。これもまたハーモロディクスで解釈できるだろうか。
ダブルカルテットの相克、プライムタイムの延々と続く集団即興。ハーモロディクスとはなんだったのか。それは存在の永遠性のアナロジーたりうるのか。 67年、SME=スポンテニアス・ミュージック・アンサンブルを結成していたドラマー、ジョン・スティーヴンスと若きサックス奏者エヴァン・パーカーの2人は、西ベルリンからフリーミュージックのベーシスト、ペーター・コヴァルトを迎えて興奮していた。
このセッションはエマネムからCDでリリースされている。このCDの意義、それはゲストを加えたトリオとSMEの2人だけの演奏と比較して聴く事ができることだ。
確かにここには差異がある。なにが違うのか。

それは、そこで生まれた音楽の終わりが見えているということだ。
始まりも終わりも無い、つまりテーマの無い演奏に終わりを見つけること、それが音楽たりうるか否かの分れ目になる。
フリーミュージック、結局それはクリシェ、イディオムの連続であり、重ね合いだ。そうであるが故に、やはり彼らの音楽的伝統のなかにあるイメージで構成するしか無いものだ。
テーマの無い、形式の無い演奏を延々と続け、しかも終わるには彼らの共通言語が必要だった。それは音楽文化と言っても良い。ジャズ的な演奏フォーマットと経験を積んできた連中が、それを抜け出そうとするとき、無調に走ってみる、あるいは逆に伝統的な手法に行くだけでは限界がある。

音楽には言語と文化が現れてくる。ドイツと英国でさえその差はあるが、それはアメリカの黒人の置かれた状況と欧州との差異よりは小さい。その差異を見たいと思うならばBYGのシリーズを聴く事だ。
音楽に国境は無いかもしれないが、文化には大きな障壁がある。

セシル・テイラーが90年代にFMPの面々をなぎ倒したような演奏をしたのも、その差異が埋まっていなかったこと、むしろ西欧フリーミュージックが独自性というか隘路にはまっていた事を示す。
いやテイラーだって隘路には在った。だからますます差異は大きくなったのだ。この差異はうまく働いたかもしれない。つまりこの出会いには弁証法的な止揚があったように思う。
この意味で67年のコヴァルト参加のSMEデュオ(パーカー、スティーヴンス)と、FMPでのテイラー十番勝負は貴重なドキュメントだ。
67年、コヴァルトは既にフリーミュージックを音楽として終わらせる事ができた。後の複合的作品『ヤールマルクト』の俯瞰的視野は、彼の音楽が共時性と通時性を有していることを示してくれる。
テイラーもまたイディオムの連射がトータルな流れを形成している事を意識していた。だからこそ大編成の指揮が執れたのである。それは『Aの第二幕』よりは『アキサキラ』に、そして『ユニット・ストラクチャーズ』に現れている。

3.旅には終わりがある
ここまで、デレク・ベイリーの名はタイトル以外に出て来なかった。
ここまでがベイリーの存在意義を示す為の予備的作業だったとも言える。
ジャズは、基本的な要素としてのブルーノート、そしてアフロアメリカンが否応無く被った歴史意識としてのソウル、乃至ブルーズ感覚を内包している。ソウル、ブルーズを所有しない階層や他の文化圏においてジャズは、共感はあったとしても、あくまで様式として許容されたが、演奏衝動の核として何を置換したのか。
スウィングやバップよりも、クール、サードストリーム、フリージャズ、そしてフリーミュージックは、ブルーズ、ソウルなき音楽として可能だった。フリージャズの根源がアフロアメリカンの闘争意識に在るにも拘らず、その現象としては従来の形式を拒否する事が容易だったから。「禁止の禁止」といわれた所以である。

作曲者の死後も存在し続ける楽曲と、演奏者の消滅とともに消え去る即興。しかし、その両者の目指すところは永遠性として合致していた。
両者の合間にデレク・ベイリーはいた。12音技法、ヴェーベルンを発見しつつ、ジャズギターを弾く事。
そして永遠性とは、長時間演奏を持続するという意味ではなく、可能なイディオムを、可能なサウンドで、その組み合わせのなかで提示するだけで十分だ。誰も永遠に弾き続け、聴き続けることはできないのだから。数秒で終わる演奏も2時間の演奏も、永遠に比較する事は出来ないし、長さに依って価値を決める事は出来ない。
彼は作曲を救わなかった。
彼の到達した即興技法は、どのような場面でも機会でもそう違いは無い。どれを聴いても差異がないと言うのは暴言に近いが、12音技法にも言われた批判である。現代音楽、それは鼻歌にならない。

即興演奏批判として、ベイリーの盟友であったギャヴィン・ブライアーズは、演奏者と演奏の同一視を挙げている。彼がジョセフ・ホルブルックを辞めて作曲家になった動機も理解できる。楽曲は、その場限りの即興よりも社会性、他者性を保ち、解釈の多様性を保証する。
ベイリーは僅かな楽曲を残したのみだが、それらが演奏されることよりも、膨大な彼のエピゴーネンが輩出した。彼自身が想像したよりも遥かに大きな影響が残った。

いま一人の即興巧者を召還しよう。
リー・コニッツ、彼は何故、灰野敬二、今井和雄、デレク・ベイリーと共演できたのか。何故半世紀以上、変わらず即興をやり続けていけるのか。あたかも民族音楽のマスターのように。
コニッツはある意味スティーヴ・レイシーに似ている。ただ、彼の使うテーマがよりジャズ的だと言うだけだ。
暴論に近い事を承知でいえば、フリージャズは形式がある。フリーミュージックにはない。 あるいは、テーマがあればフリージャズ、なければフリーミュージックになる。フリーミュージックならば延々と即興が可能だ。
テーマがあれば、その回帰に依って終わらなくてはならない。楽曲的な印象が残る。だからテーマの無い即興〜フリーミュージックは落としどころが難しい。この傾向がさらに押し進められれば、サウンド自体の凝縮と非分節化が「ノイズ化」を招く。アイラーのサックスのある瞬間は既にその次元にある。つまりノイズは、形式を否定しつつサウンド自体の永遠性を求める衝動に合致している。
イディオム、クリシェの破壊を試みたのはノイズである。しかしそれによってノイズはまたひとつの様式となった。

繰り返しになるが、曲とは延々たる演奏を可能にする形式の拒否、否定である。楽曲と永遠性の中間に、共同体内部での忘我、恍惚への誘いがある。ブルーズや、輪舞に伴う民謡に見られる無限の繰り返しがそれだ。
青森県南部、岩手県北部に分布する「なにゃどやら」はヘブライ語説もある民謡だが、昭和初期にこれを見物した柳田國男は、其の有様を「一晩中、女性だけで伴奏なしで歌い続けながら円になって踊っている」ことを記している。 現在このような形式は見られない。歌詞がつき、伴奏が付いて一連の歌詞が終われば踊りも終了する。
「なにゃどやら」は無限の音楽〜民謡だったのである。
音楽そのものに構造やドラマが無いのだから、地球の自転による終結しかあり得なかったのだ。
かつてナイター中継を途中で切られる事へのフラストレーションがあった。野球はシナリオのないドラマだからだ。しかし、何故かプロレスは放送時間内で片がつくのだった。

ヴェーベルンも、シェーンベルクも、ベルクも到達点は文学だった。何故なら12音主義は、徹底すればする程それ自体で終結感を持つ事が難しくなるからだ。語りもの文学、琵琶法師、ごぜ、浪曲、パンソリ、ユーカラ、ヨイクその他世界の口承叙事詩、これらは初めと終わりとプロットはあるが無限にバリエーションを作りうる無名性の文学だ。
無限の音楽に「始まり」と「終わり」を齎すのは、物語、文学の役目である。 朝鮮半島、現状で言えば韓国という国のジャズの不毛は、その音楽文化において、極めて「語り物文化」、そして感情を刺激する歌への欲求が高い事に依るのかもしれない。

間章は、アイラーの演奏した「サマータイム」を「歌殺し」と呼んだ。そして 阿部薫の「アカシアの雨がやむとき」も同じ文脈で評価した。
高柳昌行はその逆のコースを辿ったと言えるかもしれない。
ボサノバから始まりタンゴ、クール派ジャズの「うたごころ」を排し、非分節的なサウンド、ノイズへ向かっていった。
『解体的交感』は、そんな2人の軌跡の交差点としてあるのかもしれない。
パンクロックの曲の短さは、ヴェーベルンの到達と同じ理由を考える事が出来る。パンクもまたどれを聴いても大差がない。タイトルと歌詞が違うだけだとさえ言えるかもしれない。
様式化の果てに差異が消えるのはハードコアもメタルも同じ穴の狢である。

デレク・ベイリーは結局『バラッズ』でソロを、『タイム』でデュオによるジャズのスタンダードを演ずるに留まった。歌は不要だった。
もう彼の旅も終わりに近かった。

4.次代の未明から
David Holland, Derek Bailey 『Improvisations For Cello And Guitar』https://ecm.lnk.to/ImprovisationsForCelloAndGuitar
最近上記がアップロードされたと教えてもらった。
初期ECMにおいては非イディオマティック即興が比較的多くリリースされていたが、その代表的作品であり、70年代初頭、日本でもすぐにプレスされた。 まだベイリーの演奏は固さがあり、ホランドの自在さが目立つ。
また特異な作風の詩人e.e.カミングスの詩を掲載したのは両者の合意だろうか(インカスの11番『バランス』にも彼の詩は掲載されている)。

私がECMに惹かれ、ブルーノートを始めとするモダンジャズに入れなかった訳は、おそらくブルーズ感覚をどこかで拒否しようとしていたからだろう。というより、それは真似ても求めても意味が無いと思ったのである。
ホランドとベイリーのデュオ、そこには全くブルーズ感覚が存在しない。そしてもはやジャズではないと言いうるかもしれない。。

タブラ奏者のバダール・ロイのリーダーアルバム『アシルバッド』を油井正一氏は「これはジャズではない」と評した。稲岡編集長と児山紀芳氏はこの件で論争になったと本サイトに回想が紹介されている。
インド音楽のテイストは強いが、デイヴ・リーブマンらのアドリブを配したこの作品は、敢えて比するならジョン・マクラフリンの『マイ・ゴールズ・ビヨンド』に近いだろうか。こちらでもバダール・ロイとデイヴ・リーブマンが参加している。
インド音楽とジャズの相似性は長く論じられてきたが、インド人ミュージシャンが60年代に残したジャズは、決して高い評価を得なかった。

日本は飛鳥白鳳時代、雅楽という音楽を輸入し、以降1200年、それを保持してきた。ジャズやロックを外来音楽と思う日本人でも雅楽をそうとは思わない。

インドにおいても、ヒンドゥスタニ音楽はアラブ音楽の影響が顕著である。本来のカルナータカ音楽は南インドに保持されている。そしてこちらの方が儀式性が強く、宗教的である。それは北インドのめくるめくような即興とは異なる次元だ。

間・小杉が、ある意味、音楽のハルマゲドンとしてインド音楽とタンゴの相克を予言したのは、非イディオマティックな即興という、西欧音楽の生んだ鬼子が、そう長くは生きながらえる事はないだろうと思ったからではないか。
その理由のひとつはテクノロジーの進展である。高度精彩なサンプリング技術やAIの発達は、逆に演奏衝動を単なる実験、試験に変えてゆく。

一方、ラテン諸国、メキシコ、中南米、アラスカ、オホーツク、シベリア、東南アジア、インド、アラブ系諸国、中央アジア、小アジア、地中海沿岸部、そしてアフリカ大陸、オセアニア、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシア、こうした文化圏における音楽は、極めて厳格なルールと倫理観に抑制されつつ、無限の即興性を許容する。
それはモードとリズムの支配のなかでの即興演奏だ。其の両者を供に精緻に発展させた例として北インド古典音楽、ヒンドゥスタニ音楽をイメージするのは妥当だろう。
そしてまた極めて即興性を抑圧した、移民音楽としての西欧音楽がタンゴである。ダンスを支える強烈なリズム感覚と、郷愁に溢れる旋律、歌、高度なアンサンブルと和声感覚。
日本人がいちはやくアストル・ピアソラに耽溺したのは何故だろうか。
間章のみならず、竹田賢一も、斎藤徹も、ピアソラに注目した。ピアソラ以前のタンゴ受容も熱狂的だった。サルガンもプグリエーセもマニアックなだけではなく受容され、藤沢嵐子のような傑出した歌手も居た。ジャズと同等にタンゴ追求の一時代があった。
しかし、インド音楽もタンゴも決定的にジャズとは異なる位相が在る。
それは、曲の一部ではなく、無伴奏の器楽即興独奏を完全に独立させていないことだ。
シタールもバンドネオンも即興の無伴奏独奏は例外中の例外である。決して不可能ではないが、選択されないフォーマットだ。
ジャズのみが無伴奏のソロを自立させてきた。其の理由に付いてはここでは触れないでおこう。

間と小杉の予言が成就する時。それはインドとアルゼンチンに、デレク・ベイリーが出現するときだろうか。(未完)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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