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GUEST COLUMNR.I.P. ミルフォード・グレイヴスNo. 277

【ミルフォード・グレイヴズ追悼】 ひとつの音、一人の人

text by Shuhei Hosokawa  細川周平

photo ©1977 Toshio Kuwabara 桑原敏郎

 

ミルフォード・グレイヴズ(1941-2021)の訃報を聞いて、「世界からひとつ音が消えた」という感慨に襲われた。気取った言い方かもしれないが、それだけ強烈な印象を残した音と人だった。人となりとサウンドがこれだけ一体化したアーティストは唯一無二だったと思う。60年代のフリージャズの開拓者の一人として一般には知られるが、最初の10数年を除けば、ジャズ本流にはあまり関わらず、フリー・リズムにもとづく即興を究めた打楽器奏者というほうが全容を捉えているだろう。数度の来日公演の記憶から追悼してみたい。

初めて聴いたのは1981年のデレク・ベイリーと田中泯のトリオ(MMD)、表現手段の違う三者が対等に反応し合って、即興の極みに達したようなパフォーマンスに圧倒された。〈踊る〉と〈叩く〉と〈弾く〉がこんなかたちで一体になるのか、からだと音と声がもつれてからまってひとつになるのか。ダンサーが音を出しているようにも、ミュージシャンが踊っているようにも感じた。立ち上がってダンサーと絡む場面もあり、トーキング・ドラムを初めて聴いた。わけがわからなくなるポジティブな目まいや耳鳴りをよく「渦に巻き込まれる」というが、まさにその体験だった。足し算ではなくかけ算、ダンスx打楽器x電気ギターの相乗効果で、音の外に開かれ、たぶん「音楽」でもなかった。

1988年夏、ミルフォードは田中泯の招きで第一回白州・夏・フェスティバルに参加した。開幕のイベントだったか、のぼりや飾り物を囲んであぜ道を行くのを、アフリカの両面太鼓ではやし立てた。田遊びとしかいいようがない。みそぎを済ませた神社の社殿でも、彼は同じ太鼓を叩き、声を上げていた。すると顔を歪めて踊る田中泯のからだが大きくなったかのように見えた。ミルフォードにとって舞台の上か外に大きな違いはなく、どちらも膜の打撃が空気を震わせてつくりだす力を人に伝える、それだけを望んでいたのかもしれない。それをジャポニズムの演出にすぎないという人には、そう言わせておけばよい。場所の聖なる力を受ける皿を持った二人の相互反応は、劇場の場合とは奥行きが違っていた。

このときには幸いインタビューをすることができた(8月3日)。彼について何も知らなかったので、まず生い立ちから話してもらった。「わたしの祖先が生まれたサウス・カロライナ州には独特のリズムやトーンを持った黒人英語があり、祖父が話していました。ギーチーghecheeといいます。言葉はすべてのパフォーマンスの基本にあり、私の演奏のどこかに祖父の話しぶりが残っていると信じています」。アフロアメリカの文化遺産を強く意識した言葉で、その日の会話のすべてがそこに行き着くと後で気がついた。生まれ育ったニューヨークのクイーンズ区ジャマイカの家には、旅の男が置いていたドラムスがあり、二、三歳のころに叩いていた。五、六歳のころ、またいとこにアフリカの楽器をたたくことを教わったし、近所にはキューバの教団があって、母と行ったことがある。高校で地元のラテン系ダンス・バンドに加わり、やがて頭角を現した。

ミュージシャンとしての経歴はラテン・ジャズから始まる。「1960年代初め、カル・ジェイダーやハービー・マンとやっていました。チック・コリアがバンドに加わったこともあります。1961年から翌年、カール・ジェイダーのバンドでは朝8時から真夜中まで働きづめでした。ウィリー・ボボやモンテゴ・ジョーをご存知ですか。コンガやタンバリンを叩いていましたね」。ラテン・ジャズという出発点が、ドラム・セットや4ビートの枠の外に自由を求めたきっかけなのだろうが、フリージャズへはずいぶん遠い。コルトレーン・カルテットのエルヴィン・ジョーンズがラテンのスリー・フォー(一拍を三分割する4ビート)を演奏しているのに動かされた。その頃、ドラマーのドン・アライアスから電話があり、ボストンに引っ越し、楽譜や音楽理論、世界の民族音楽、哲学や技術について勉強しまくった。フリージャズ運動と接近したのもそれと連動してのことだろう。

1964年、有名なニューヨーク・アート・カルテット(NYAQ)を立ち上げたときには、オーネット・コールマンもセシル・テイラーもアーチー・シェップも知らなかった。「ジャズの4ビートは概念として、とても制限されています。ドラム・セットに縛られていて、自分の真の感情を演奏しているドラマーはあまり多くありません。そこから自由になりたかった」。ジャズ・ドラマー(彼はスティック・ドラマーとも呼んでいた)のなかでは、アート・ブレイキーを特にほめていた。確かにブレイキーは手のひらでボンゴのようにスネア・ドラムを叩くことがあった。「私にとってスティックは指の延長です。人差し指が長いので、そのままスティックとして使えるんです。手には触覚がありますし、細かいニュアンスをつけられます。ジャズはスティックに縛られています」。

『ラブ・クライ』を大学生時代に聴いていた者として、アルバート・アイラーとのことを訊いておきたかった。「アイラーは単純なメロディーをコード進行とは別のかたちで即興していました。弟のトランぺッター、ドン・アイラーとはデュオもやりました。二人は胸板が人の二倍も厚く、呼吸も二倍の力があって、特別なトーンを持っていました。アルバートは独裁者のようなところがあり、ある場面ではうまくいかないところもありましたが、エネルギーや霊(スピリット)のことをよく話しました。1967年、アイラー・カルテットでスラッグスに六日間出演した時はすごかった。毎日三セット、初日の第一セットの後、あんまり飛ばしたんで『スローダウン!』ってアルバートに言われました。たくさんのミュージシャン、ドラマーが聴きにきました。録音しなかったのが残念です」。

ジャズの話題はそこで途切れ、後はアフリカ文化のことをこちらが質問するまでもなく話し始めた。まず1957年にヨルバに伝わる格闘技を始めた。「格闘技といっても相手を攻撃することではなく、破壊的な力といかに調和するかが課題で、柔道や武道も同じ目標を立てているはずです。自衛の手段ではありません。本来はゆっくりした動きなのです。そのために特別な身体の動きや呼吸法を学びました」。ちょうどカポエイラやクンフーと同じように、傍目にはダンスのように見える。アフリカの格闘技にほかの地域の伝統を加えて、独自の動きを編み出し、ヤラと名付けた。

身体への関心は医学への関心へと広がり、民俗治療の研究を始めた。アフリカ文化が基本だが、世界中の伝承を組み合わせて自分独自の普遍性に到達する。この哲学を実践してきた。「アフリカにも中国にもインドにもヨーロッパにも医学があり、それをすべて混ぜ込んで独自の療法を確立しました。薬草や呼吸法はもちろんですが、音、リズムでからだのなかのマイナス要因(つまり病)を取り除く研究で、からだと不可分のこころの病も対象にしています。心臓の鼓動は特に大切です。メトロノームのように規則正しい、機械的なリズムを刻んでいるのではなく、自然のリズムは本来いつも変化しているのです」。

フリー・リズムはジャズの約束事には反していたかもしれないが、自然の摂理には適っている。音楽演奏というより、音を使って聴き手のからだに入り込み治療する。そう考えていたようだ。この心身哲学は自然のエネルギーの循環の理論に通じ、「うちの庭にはたくさんの種類の草を栽培しています。それを食べて太陽の放射エネルギーをからだに取り込み、太鼓を通してそれを放出しているのです」。打楽器が出発点で看板であることは間違いない。しかし医学や格闘技や食事や庭園や造形物や絵画や詩も同じぐらい本質的で、その全体が彼の人となりを作っていた。

最後に聴いたのは2016年、京都ローム・シアターでの土取利行とのデュオ公演だった。MMDの記憶にあるのと同じ速度で左右のシンバルとハイハットを交互に叩き、バスドラのペダルを踏んだのには驚いた。見ているだけで華やかだ。「いつまでも若い」のではなく、楽器を前にしたときの身体作法に変わりがないのだ。円熟もあたっていない。「丸くなった」わけではないから。二〇代で自分のものとした哲学と技術にぶれはなく、その時々の身体条件と相手と場に最大限反応する、それだけを変わらずにやってきた。ひとつの音が消えたと感じたのも、アーティストという以上に、生き方と知性と音にずれがない人として尊敬してきたからだ。人がいなくなり音も消える。世界中のカミの集うところに旅立ったのだろう。

細川周平

細川周平 Shuhei Hosokawa 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は音楽、日系ブラジル文化。主著に『遠きにありてつくるもの』(みすず書房、2009年度読売文学賞受賞)、『近代日本の音楽百年』全4巻(岩波書店、第33回ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞)。編著に『ニュー・ジャズ・スタディーズ-ジャズ研究の新たな領域へ』(アルテスパブリッシング)、『民謡からみた世界音楽 -うたの地脈を探る』( ミネルヴァ書房)、『音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー』(アルテスパブリッシング)など。令和2年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

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