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GUEST COLUMNNo. 288

特別寄稿「ロフト・ジャズとは何だったのか」エド・ヘイゼル

このエッセイは、エド・ヘイゼルが 2010年にリトアニアの NoBusiness Recordsからリリースされた 3枚組CDセット『Muntu Recordings』に同梱されたブックレットに寄稿した長文の論考から「ロフト・ジャズ」に関する部分を許可を得て訳出したものです。カメラマンの菅原光博さんが当誌の連載で70年代のNYのロフト・シーンをカメラで点描、当時のアーチー・シェップ(@Studio Rivbea, 1974)、オーネット・コールマン(@Artists House, 1974)、AIR:ヘンリー・スレッギル他 (1978)、Tin Palace:デクスター・ゴードン、セシル・テイラー他 (1980) の様子を生々しく伝えてくれました。ところが、ロフト・ジャズについてはネットでもほとんど資料が見当たらず、エド・ヘイゼルのロフト・ジャズに関する簡潔なエッセイの訳出に至った次第です。菅原光博さんの3回にわたる連載と併せてお目通しください。(稲岡)


text by エド・ヘイゼル Ed Hazell (courtesy of NoBusiness Records)

ジャズの歴史上、最も偉大な創造的開花のひとつが、1970年代のニューヨークで起こった。ミュージシャン自身が運営する数多くの小さなスタジオやロフト・スペースで、主にアヴァンギャルド・ジャズと呼ばれる即興音楽が、ジャズの歴史上でも稀なほどの豊かさと多様性をもって生まれたのだ。

このロフト時代は1970年から1978年までとされているが、これはあくまでもおおよその期間である。オーネット・コールマンのアーティスト・ハウス (Artists House)、サム・リヴァースのスタジオ・リヴビー、トランペット奏者のジェイムス・デュボワとパーカッショニストのジュマ・サルタンが共同で運営するスタジオWEなどのロフトは、1968年には早くもコンサートを開催していたし、ロフトの中にはもっと長く運営を続けているところもある。ウォーレン・スミスのスタジオW.I.S.は1967年から2001年まで、スタジオWeは1980年代初頭まで、それぞれ何らかの形で存続していたのである。しかし、ほとんどのロフトは1979年か1980年までには公的なイベントの開催を中止していたことは間違いない。

ロフトという言葉自体も正確とはいえまい。エンヴァイロン (Environ) やスタジオWEのように ロフト運動に関連した場所のいくつかは 本来の意味の「ロフト・スペース」だった。 工業用建物の広いオープン・フロアを芸術の創造やパフォーマンスをしやすいように 住人によって改造されていた。 レディース・フォートやスタジオ・ヘンリーのように、街路レベルより低い場所にあるものもある。アリズ・アレイとレディース・フォートはビジネスとして運営されているクラブであった。スタジオ・リブビーは非営利団体で、路上のパフォーマンス・スペース、地下のスタジオ、3階のミュージシャン・ルームを使用していた。多くのスペースは、アーティストとその家族のための居住空間を兼ねていたのだ。

これらのスペースの中には、家賃が底をつき、短期間で解散したものもある。中には、長年にわたり、企業家としての手腕を発揮して運営されたものもある。それぞれのスペースの経済的な成功や芸術的な方向性は、それを運営した人々の個性や音楽的な興味を大きく反映していたのである。

ロフト・スペースの運営は、自立支援の哲学の発露であり、従来の価値観からの独立や拒絶の表明であり、敵対的あるいは無関心な音楽ビジネスによって音楽家に強いられた経済的必要性であった。ロフトは、個人的または仕事上の理由から、より広い音楽コミュニティを支援する方法として、コンサート・スペースとして、時にはこれらすべての目的のために同時に使用されることがあった。

打楽器奏者で作曲家のウォーレン・スミスは、1967年から1996年までチェルシーにあるスタジオWISを運営し、その後2001年までブロードウェイとラファイエットの間のフランクリン・ストリートでスタジオを運営していた。「私がスペースを持つ理由のひとつは、非常に基本的で利己的なものです。つまり、私にリハーサルと私の楽器を練習する場所を提供してくれるのです」とウォーレン・スミスは1986年のCodaのインタビューで述べている。「私の指導や、私が書くかもしれない曲のリハーサルにも使われています。一方、私自身のスペースなので、他のミュージシャンのリハーサルにはとてもリーズナブルな料金で提供できるんです」と。

1960年代のブラック・アーツ・ムーブメント(BAM) や公民権運動、ニューヨーク市の不動産開発経済など、さまざまな歴史的要因が、マンハッタンのローワーイーストサイド、ソーホー、バワリー地区などに豊富なパフォーマンス・スペースを育てた。これらのアーティストが所有するスペースを運営したり演奏したりするアフリカ系アメリカ人ミュージシャンを動機づけるアイディアの多くは、ジャズ・コミュニティ、より広いアフリカ系アメリカ人の芸術コミュニティ、そしてある程度は一般のアフリカ系アメリカ人に広く共有されていたのである。また、主流派の価値観を否定する1960年代のカウンターカルチャー運動とも共通する考え方があった。しかし、ロフト運動がたどった具体的な道筋は、ニューヨークに住み、活動していたミュージシャンたちの具体的な状況に深く根ざしていたのである。

■ ブラック・アーツ・ムーブメント (BAM) とロフト

多くのアフリカ系アメリカ人ミュージシャンにとって、アミリ・バラカ、ラリー・ニール、ロン・カレンガなどの作家が主張したブラック・アーツ・ムーブメント (BAM) の革命的なコンセプトは、特に重要な意味をもっていた。1964年、バラカをはじめとする劇作家やアーティストたちは、ハーレムに「ブラック・アーツ・レパートリー・シアター・スクール」を開校しました。この学校は短命に終わりましたが、そこで培われた考え方は、アフリカ系アメリカ人の芸術コミュニティ全体に広く影響を与えることが証明されたのだ。

ラリー・ニールは、「ブラック・アーツ・ムーブメント」というエッセイの中で次のように書いている;

ブラック・アーツ・ムーブメントは、西洋文化の美学を根本的に組み替えることを提案している。それは、独立した象徴主義、神話、批評、イコノロジー(図像学)を提案する...。

ブラック・アーツとブラック・パワーのコンセプトは、いずれもアフロ・アメリカンの自決と民族性への願望に広く関連している。近年、このふたつの運動は融合し始め、ブラック・パワーの概念に内在する政治的価値が、アフロ・アメリカンの劇作家、詩人、振付師、音楽家、小説家の美学に具体的に表現されつつある。ブラック・パワーの主要な信条は、黒人が自分たちの言葉で世界を定義する必要性であった。

ジャズ・ミュージシャンにとって、自分たちの芸術を政治的、経済的にコントロールすることと、その美学的原則の定義をコントロールすることができるという考えは、強力な魅力だった。ジャズの歴史は、アフリカ系アメリカ人ミュージシャンの芸術的勝利の物語であると同時に、大部分が白人に支配された音楽ビジネスによる彼らの経済的搾取の物語でもあった。1970年以前には、多くのアーティストがこの状況に反撃していた。チャールズ・ミンガスとマックス・ローチは1952年にデビュー・レコード (Debut Records) を設立した。サン・ラーとアルトン・アブラハムは1957年にエル・サターン・レコード (El Saturn Records) を設立した。アルトサックス奏者のジジ・グライスは、1950年代に設立したメロトーン・ミュージック社とトーテム・ミュージック社で、自分の音楽の出版権をコントロールしようとした。ビル・ディクソンが 1964年に行ったミュージシャンが運営するフェスティバル、オクトーバー・レボリューション (October Revolution) とそこから生まれたジャズ・コンポーザーズ・ギルド (Jazz Composer’s Guild) も、音楽の制作をアーティストの手に委ねようとする試みであった。このふたつの試みは、1970年代のロフト時代の演奏家たちに直接的な影響を与え、ラシッド・アリやミルフォード・グレイヴスなど、彼らの多くがその一員だったのだ。

ミュージシャンが管理するロフトには歴史的な先例があったが、ブラック・アーツ・ムーブメントの過激さとレトリックは、1970年代のジャズ・ミュージシャンに新たなインスピレーションを与えた。アフリカ系アメリカ人音楽学者のロン・ウェルボーンは「The Black Aesthetic Imperative」の中でこう書いている;

ブラック・カルチャーは経済的、政治的な考察から切り離すことはできない。また、ブラック・ミュージックはそれに関連する創造的、表現的な形態から切り離すことはできない。1970年代以降、黒人コミュニティによる政治、経済、教育の推進が成功するかどうかは、黒人アーティストが形成する美学と、我々の文化、特に我々の音楽を、外国人による盗用や搾取からどの程度コントロールできるかにかかっている….。私たちがどの程度自分たちの音楽を形成し、それを保護するかによって、アメリカにおける私たちの生存の範囲と程度が決定されるのだ。

文化の定義と生き残りをかけたより広い闘いの中に音楽を位置づけることは、明らかにその重要性を増幅させる。これは単に芸術の自由という狭い問題ではなく、文化的な活力や民族全体の存在さえも危ういものだった。たとえニューヨークの音楽家たちがウェルボーンやニールを読んでいなかったとしても、同様の考えは広く流布し、マンハッタンや全米のアフリカ系アメリカ人音楽家の決定や行動の多くに影響を与えていた。

■ ニューヨークの風土

1970年代初頭、白人音楽家を排除するブラック・ナショナリズムを標榜する団体に所属する音楽家の多くがニューヨークに移住してきた。シカゴのAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)からムーハル・リチャード・エイブラムス、アート・アンサンブル・オブ・シカゴのメンバー、アンソニー・ブラクストン、リロイ・ジェンキンス、ヘンリー・スレッギルといった音楽家が。セントルイスのブラック・アーティスト・グループ(BAG)からオリバー・レイク、ジュリアス・ヘンフィル、ハミエット・ブルイエットが、ロサンゼルスの Union of Gods Musicians and Artists Ascension(UGMAA)からはアーサー・ブライスもニューヨークに移った。これらのグループはいずれも方針として事実上黒人だけであり(ごく少数の例外はあった)、これらのミュージシャンはロフト運動で重要な役割を果たした。しかし、ニューヨークのジャズ・アヴァンギャルドの間では、そのような正式な組織が主流ではなかったのだ。ニューヨークのミュージシャンの間では、バンド内の人種の混在は、個人の選択の問題であることの方がはるかに多かった。確かに個人のミュージシャンやグループは黒人のミュージシャンしか雇っておらず、白人のミュージシャンはロフト・ミュージシャンの中では数的に少数派であったことは確かだった。ニューヨークは人種差別のないユートピアではないが、異人種間のバンドは一般的だった。この点で、ムントゥ (Muntu) はニューヨークの状況の産物であることは確かである。

ニューヨークのロフト運動は、中央の指導的な組織がないため、多様性に富んでいるのが特徴である。ロフトには、さまざまな政治的志向の人々が集まっていた。人種的な分離主義を主張する者もいれば、そうでない者もいた。また、政府からの助成金や大手レコード会社との契約など、主流文化との妥協は一切認めないという人も多くいた。また、ジョージ・ウィーン (George Wein) が運営するような主流のフェスティバルに出演したり、助成金を受け取ったりと、様々なレヴェルでエスタブリッシュメントとの融和を主張する者もいた。意見の相違や緊張は、時に公の場で沸騰し、ロフト間の同盟は離合集散が繰り返された。非常にダイナミックで、しばしば論争もあったが、あらゆる種類の音楽家が居場所を見つけることができる、驚くほど活気に満ちた環境であった。

ブラック・パワーとブラック・アート・ムーブメントが、ヨーロッパ中心の価値観を否定し、アフリカ系アメリカ人の芸術のための新しい文化的美学の枠組みを構築していたのと同時に、ロフトに影響を与えた主流文化への挑戦もあった。ヒッピーのカウンターカルチャーもまた、主流派の価値観を代替するために奮闘していた。アフリカや東洋の精神性の受容、共同生活、ベトナム戦争への反対、公民権運動の支持などは、ミュージシャンが異なる人種や多くの場合異なる階級間の橋渡しをするための一致点を提供したのである。また、女性運動が盛んになるにつれて、女性奏者も以前より多く存在感を示すようになった。ヴォーカルのジーン・リー、ファゴットのカレン・ボルカ、クラリネットのロザンヌ・レヴィーンなどは、この時代の多くのバンドでリーダーやメンバーとして活躍していた。

ロフトで演奏することの前提は、ジャズというアフリカ系アメリカ人の芸術的価値観を受け入れることだった。当時、アカデミックな場でのジャズ教育がまさに始まったことで、ジャズは習得できる技術であり、誰にでも伝えられる価値観であるという考えが受け入れられつつあった。これは、アフリカ系アメリカ人のコミュニティから生まれた、しかしそれに留まらない音楽文化的価値の普遍化への重要な一歩となったのである。

また、自給自足や自己決定に関する考え方は、音楽の世代やスタイルを超えたものであった。経済的搾取や文化的疎外は前衛に限ったことではなく、前衛音楽家は最も注目され、おそらく最も声高に自決を唱えた人たちであった。1950年代あるいはそれ以前に発展した美的価値観を持つ、より主流とみなされる音楽家たちも、ロフトに定期的に参加し、演奏していた。たとえば、1977年の「第3回エイプリル・ライブ・ロフト・ジャズ・フェスティバル」では、トランペット奏者のディジー・リースとトミー・タレンタイン、ボーカリストのシーラ・ジョーダン、ピアニストのギル・コギンスらがレディース・フォートのアンサンブルを率いたほか、アール・クロス、カラパルーシャ(モーリス・マッキンタイア)、デイヴィッド・マレイらアバンギャルドに属する人たちも参加した。”リヴィング・レジェンド” 的存在のユービー・ブレイクが、スタジオWEのためにチャリティ・コンサートを行ったこともある。クリエイティブ・ブラック・アーティスト (CBA) やストラータ・イースト・レーベル (Strata East Records) といった団体は、ハードバップ、ポストバップ、アバンギャルドのミュージシャンを幅広く抱え、その多くがロフトの常連だった。

様々な理由で不都合と思われていた主流をなす文化からの文化的分離という考えは、様々な人種や性別の音楽家を団結させた。自己決定と人種的プライドというコンセプトは、世代や音楽のスタイルを超えて、ニューヨークのロフトに、これらの理想を抱くアーティストたちがかつてないほど多く集まり、新しい、活気に満ちた音楽を大量に生み出したのだ。

■ なぜローワーイーストサイドなのか?

ミュージシャンが経営するロフトは、ブルックリンやブロンクス、マンハッタンのさまざまな地域にあったが、圧倒的にマンハッタンのローワーイーストサイドに集中していた。その理由はいくつかあるが、当時の経済情勢やニューヨーク特有の事情も関係している。1941年の時点で、ニューヨーク市は西側のホランド・トンネルと東側のウィリアムズバーグ・ブリッジとマンハッタン・ブリッジを結ぶ高速道路を建設することを計画していた。1960年代には、ローワーイーストサイドの工業用建物(その多くは海運業や貨物業と関係がある)が取り壊され、そのための道路建設が計画された。しかし、市民団体の強い反対で、25年以上も高速道路の開発は滞っていた。そして、1969年、市の予算委員会は高速道路案を否決した。

高速道路をめぐる長引く議論の影響を受けた周辺地域は、ほとんど何もない状態だった。商業地域に指定されていたが、家賃は非常に安く、大きな倉庫のスペースに惹かれたアーティストたちが実際に借りることができた。そして、ほとんどのアーティストがそのスペースに住んでいた。しかし、このようなアーティストたちの流入は違法行為であるにもかかわらず、警察は彼らを容認し、市はこの状況に目をつぶり、ロウアーマンハッタンにアーティスト・コロニーを暗黙のうちに作り上げてしまったのである。そして、ようやく都市計画委員会がこの状況を認め、この地区を住宅地として再指定し、そこに住むアーティストたちを合法化した。それ以前は、この地域の区画整理の状況によってアーティストが移住することはなかったが、合法的な居住区であることが、バワリー、ソーホー、ローワーイーストサイドに移住するアーティストに影響を与えたことは間違いないだろう。

■1972年ニューヨーク・ミュージシャンズ・フェスティバル

自治体の経済や政治がマンハッタンにアーティスト・ロフト文化を育む住宅事情を作り出していく中、1972年、ミュージシャン・ロフトの発展にさらに拍車をかける出来事が起こった。この年の1月、ニューポートジャズ・フェスティバルのプロデューサー、ジョージ・ウィーンが、同イベントをニューヨークに移すと発表したのである。1954年から開催されていたロードアイランド州のリゾート地で、オールマン・ブラザーズを聴くために入場しようとした手に負えないロック・ファンが警備フェンスを壊し、フェスティバルのステージや客席を破壊したため、開催が禁止されたのだ。

ニューヨークのミュージシャンの間では、ジョージ・ウィーンのラインアップが発表されるとフェスティバルの常連ミュージシャンばかりであったため、すぐに否定的な反応が返ってきた。「ニューポートがニューヨークに来たが、彼らはどこに行こうがいつもと同じミュージシャンを連れてくる」と、ノア・ハワードは1976年のニューヨーク・タイムズのインタビューで語っている。「何千人もの才能あるミュージシャンがいるニューヨークに来て、彼らがやっていることをただ無視するようなことはないだろう?」。多くのミュージシャンがこれに同意した。

スタジオWEのジェームス・デュボワとジュマ・サルタンは、ストリート大学で会議を開き、出席者は、アフリカ系アメリカ人のコミュニティーにあるプログラムを増やすこと、プログラムの決定における音楽家の発言力を高めることを求める10の要求リストを作成した。ウィーンはそれらをすべて拒否した。デュボワ、サルタン、ハワード、ラシッド・アリ、ミルフォード・グレイヴス、エディ・ヒースJr.によって組織されたミュージシャンたちは、最終的に自分たちでフェスティバルを運営することを決意するに至る。彼らの戦略は、ニューポート・フェスティバルを取り囲むように、街のあちこちでより多くのイベントを開催することだった。自分たちを無視できない存在にするのだ。そして、500人以上のミュージシャンが250以上の演奏をする、100以上のイベントを短期間で開催した。イベントは、ハーレム音楽センター、ストリート大学、ブロンクスのサード・ワールド文化センターなどのコミュニティセンター、東3丁目のジャズクラブ「スラッグス」、スタジオWE、スタジオ・リブビー、そしてアベニューAと7丁目のトンプキンス・スクエア公園からブルックリンのプロスペクト公園バンドシェル、ハーレムのマウントモリス公園など市内の公園で行われた。アーティストのリストには、トランペット奏者のテッド・ダニエル、サックス奏者のアーサー・ドイル、スルタンのアボリジニ音楽協会、サックス奏者のマーク・ホワイトケージといった若い前衛ジャズ・ミュージシャンに重きを置いていた。アーチー・シェップ、ミルフォード・グレイヴス、ポール・ブレイ、ラリー・ヤング、ジミー・ギャリソンといった60年代のフリージャズのベテランもフィーチャーされていた。さらには、クリフォード・ジョーダン、アンドリュー・ヒル、ケン・マッキンタイア、ギル・コギンス、フランク・フォスター、トミー・トゥレンティンも参加した。

このフェスティバルの成功により、ニューヨーク・ミュージシャンズ・オーガニゼーション(NYMO)が結成されることになった。しかし、これは短命に終わった。NYMOは1973年に、1972年のイベントと同様の路線で、2回目のニューポート対抗フェスティバル「ファイブ・ボロウズ・ジャズ・フェスティバル」を開催した。しかし、ウィーンはNYMOに、ニューポート・フェスティバルの期間中、アリス・タリー・ホールで一連のコンサートをプログラムする機会を提供したのだった。そこで、NYMOは当初の計画を続行し、ウィーンの申し出も受けることにした。 しかし、ラシッド・アリなどは、このフェスティバルへの協力に断固として反対し、この問題でグループを脱退、さらに、ニューポート・フェスティバルの出演が決まっていたサム・リヴァースは、自分のスタジオ・リヴビー・フェスティバルを他の2つのフェスティバルと同時進行で運営するなどNYMOは混乱し、翌年はカウンター・フェスティバルを開催することはなかった。

しかし、この2つのフェスティバルの重要な遺産は、ミュージシャンの間で、より大きな力と可能性を感じられるようになったことだ。スタジオ・リブビーやスタジオWEでの発表が成功したことで、他のミュージシャンも同じような試みに挑戦するようになった。自分たちのことは自分たちでやるんだ、という気持ちが強くなっていった。その後5年間で、ロフトはこの街で最も活気のあるジャズ活動の拠点となっていったのである。

■ ロフト・イヤーズ(ロフト時代)

ロフトはあまりにも多く、このエッセイですべてをカバーすることはできない。とにかくロフトを網羅した目録すら存在しない。よく知られているものでも、肝心なところはまだあまり知られていない。研究しなければならないことがたくさんある。以下に挙げる4つのロフトについての短いスケッチは、ジャズにおけるエキサイティングな時代をよりよく読者に感じてもらうことを主な目的としている。

■ スタジオ・リブビー Studio Rivbea

マルチインストゥルメンタリスト、コンポーザーのサム・リヴァースは、マイルス・デイヴィス・クインテットに参加するため、1963年にボストンからニューヨークへ移住した。短期間ではあったが、リヴァースはニューヨークに留まったのだ。すぐに彼は、自分が住み、練習し、作曲し、アンサンブルのリハーサルができるスタジオスペースを探し始めた。ハーレムに適当な場所を見つけたが、市は開発資金を要求しても拒否した。1968年、ようやくボンド・ストリート24番地に適当な場所を見つけ、スタジオ・リヴビーと名付けた(名前はリヴァースとリヴァースの妻ベアトリスに由来する)。

当初、彼はそこを住居兼仕事場として使っていた。大編成の音楽を数多く作曲していたリヴァースは、地下室をリハーサルの場とした。「私のスタジオに関しては、」リヴァースは1972年にWNYUの番組「Anthology of Black Classical Music」でビル・バロンによるインタビューに対し、「バンドのリハーサルをする場所があったので、それを設置したんだ。それで、仲間がやってきてリハーサルをしたり、話をしたり、リラックスすることができたんだ。誰かがやってきて、”さあ、もう帰る時間だ” と言われることのないような雰囲気の中でね。それが、他のことに発展していったんです」。数年のうちに、彼は週末にそこでコンサートを開くようになった。

リヴァースは、1972年のニューヨーク・ミュージシャンズ・フェスティバルの積極的に参加者でありサポーターでもあったアンドリュー・ヒル、ラシッド・アリ・クインテット、ミルフォード・グレイブス、シダー・ウォルトン、アンソニー・ブラクストン、クリフォード・ジョーダン、ラズウェル・ラッドなどによる10夜にわたる素晴らしいコンサートを開催したのだった。

フェスティバル・イベントの反響に後押しされ、リヴァースは週7日夜の音楽プログラムを開始し、非営利団体として法人化に踏み切った。ニューヨーク州芸術評議会(New York State Council on the Arts)からの助成金により、教育プログラムとともに運営を維持することができるようになった。ミュージシャンには一律の出演料を支払い、予算が許せば『ヴィレッジ・ヴォイス』などの新聞に広告を出してイベントを宣伝することもできた。

リヴァースは、この場所を「スタジオ」と呼ぶことを好んでいた。コンサートのチラシには、よくこのように書いてあった;

スタジオ・リブビー社(Studio Rivbea Inc.)は、文化活動、エネルギーセンター、非営利団体であり、より広く認知されるべき才能あるアーティストのプロモーションと露出に専念しています。

スタジオ・リブビーは、出演するアーティストの協力、熱心な観客の寄付、そしてニューヨーク州芸術評議会の支援によって成り立っています。

スタジオ・リブビーは、現代音楽、演劇、映画を上演するための劇場です。スタジオ・リブビーはアートギャラリーでもあります。スタジオ・リブビーは、これらのアーティストとその作品の紹介を通じて、アメリカの現代アートへの関心を高めることを期待しています。

リブビーは、アーティストが運営するロフトの中で、すぐに最も人気のあるロフトになったのである。1974年のニューヨークタイムズの記事で、レス・レッドベッターはスタジオの様子をこう表現している。

スタジオの長い地下室には、地元の専門家、国内からの大学生、遠くはスウェーデン、フランス、日本からの知識豊富な音楽ファンたちが詰めかけた。

ある者は非常に若く、ある者は明らかに以前のジャズシーンのベテランであり、ある者はほとんど、あるいはまったく英語を話せない外国人客であり、ある者は聴いたり参加したりするために来た他のミュージシャンであった。そして全員がジャズへの献身を示し、すぐに仲間意識が芽生え、気楽な雰囲気が、モダンジャズの方向性と境界線を実験する未だ知名度の低い演奏家たちに素晴らしい環境を提供したのです…。

演奏者と聴き手が2階でソーダやビールを飲みながら交流し、演奏されている音楽の複雑な部分を話し合うことができる、スタジオでのカジュアルなセッティングが多くの聴衆に評価された要因のひとつであるようだ。実際、多くのファンは、音楽を聴くのと同じくらい、ミュージシャンとの会話に時間を割いていた。

1976年になると、コンサートのために大勢の観客を地下に詰め込むことが、火災や安全上の問題となった。そこでリヴァースは、1階を演奏会場、2階を音楽家用のグリーンルーム、地下をリハーサル・スタジオに改装した。

1973年からは、リブビーで毎年サマー・ジャズ・フェスティバルが開催されるようになった。1976年、リヴァースはプロデューサーのアラン・ダグラスと交渉し、カサブランカ・レーベルのダグラス傘下でこのフェスティバルを録音することにした。その結果、5枚のLP『Wildflowers』が生まれた。「ニューヨーク・ロフト・ジャズ・セッション」は、当時のローワーイーストサイドで聴かれた音楽の最も広範な記録であるが、その範囲は確かに包括的ではない。例えば、リヴビーでニューヨーク・デビューを果たし、定期的に演奏していたムントゥ (Muntu) は、招待されたバンドの中には入っていない。

皮肉なことに、これらのアルバムが1977年にリリースされ、ロフトがこれまでで最も注目を集めるようになった頃、シーンは衰退を始め、リヴァースはヨーロッパでの演奏活動がますます多忙になっていった。1978年末、リヴァースはコンサート会場としてのスタジオ・リヴビーの運営をやめ、個人的な使用に徹するようになったのだった。

■アリズ・アレイ Ali’s Alley

ドラマー、ラシッド・アリは1973年、グリーン・ストリート77番地にクラブをオープンした。勤勉と自立を自負するアリは、他のミュージシャンの助けを借りながら、すべての改装工事を自分で行った。「私は自立して育ったのです」と、彼は1977年のラジオ番組「The Anthology of Black Classical Music」のインタビューでトロンボーン奏者のビル・ロウに語っている。「祖父と父はフィラデルフィアで塗装業を営んでいました。音楽家とビジネスを分けて考える人がいるが、もし音楽家が自分たちのビジネスのためにわずかでも努力をすれば、レコード会社を持ち、演奏する場所を持つことができるでしょう。でも、今はまだ、自分たちがやりたいことをやる場所がないんです」。

ニューポート・ジャズ・フェスティバルと戦略的提携を結び、スタジオ・リヴビーで音楽を提供し、巨大企業ABC/パラマウントの独立子会社インパルス・レコードで録音したリヴァースとは異なり、アリはアリズ・アレーでのプログラムにおいて完全な独立性を保ち、自身のレーベル、サバイバル・レコードを設立したのである。「レーベルとクラブの経営は大変だが、長い目で見ればいいことだ」と、アリはロウとのインタビューの中で主張している。「私は独立するためにスターになることを先延ばしにしたんです。現役のミュージシャンとしての地位を確立したい、収入が得られるようにしたい、将来のために今、基盤を作りたいのです」。

約1年後、アリは飲食店・酒類販売免許を取得し、さらに改装のためいったん閉店し、再びクラブをオープンした。1977年のニューヨーク・タイムズ誌の記事でスタンリー・クラウチが「これまでで最も注目すべきジャズ・ロフト」と評した。ラシッド・アリと彼のバンドのミュージシャンたちは、バー、バンドスタンド、コントロールルーム、キッチンを作り、カーペットを敷き、部屋を塗装し、照明を吊るした。チキン、魚、黒目豆、山芋、青菜、パン、プディングなどのソウルフードが紙皿に盛られて出された。音響は抜群によかったという。

アリの幅広いブッキングは、良い聴衆を集めることに成功した。ニューヨークには、最近シカゴから移ってきたAIRやムーハル・リチャード・エイブラムスなどがいて、ロスコー・ミッチェル、ヘンリー・スレッギル、フレッド・ホプキンス、スティーブ・マッコールとのクインテットは、観客が通りに列を作って入場していたほどである。ニューヨークのアバンギャルドもよく知られている。例えば、ムントゥは、トランペット奏者のロイ・キャンベルとのカルテットとして、このクラブでデビューしたのである。スティーブ・レイシー、ノア・ハワード、フランク・ライトのようなヨーロッパからの移住者は、アメリカに戻るとアレイで演奏した。アリはまた、フランク・フォスターのラウド・マイノリティ・ビッグバンド、クリフォード・ジョーダン、フィリー・ジョー・ジョーンズのような主流派を定期的にブッキングすることも忘れなかった。

「このクラブが証明するのは、ミュージシャンが立ち上がり、空気に文句を言うのをやめて、自分たちの状況を何とかできる、ということだけだ」とアリはクラウチに語った。「誰も金持ちにはなれないが、これはスタートなんだ。若い人たちが、私よりももっともっと前進してくれることを願うばかりです。きっとできるはずだ」。

このように楽観的なアリだったが、『タイムズ』紙にインタヴューが掲載された後、クラブはわずか2年間の活動を経て、1979年に閉鎖されたのだった。

■レディース・フォート  Ladies Fort

歌手のジョー・リー・ウィルソンのレディース・フォートは、アリと同様、特にクラブとしてロフトを建設し、ビジネスとして運営していた。1974年、彼は馬券で十分な賞金を獲得し、クラブを開く余裕ができたのだあった。以前から、ボンドストリートの路地にある貸店舗に目をつけていた。「家賃を聞いてみると、3,000平方フィートで月200ドル、地下室も同じ広さだった」と、ウィルソンはAll About Jazzのインタビューで語っている。「借りていた男が、この建物で何をするつもりかと聞いてきたんだ。私は、音楽の社交クラブを作ると言ったんだ。彼は「どんな音楽を?ジャズと答えたら、『ああ、ジャズは好きだよ』と。私は学校の教師なんです」。彼は5年契約でオプションもつけてくれた。1年分の家賃を渡したよ」。ウィルソンは、ギャンブル仲間のベトナム帰還兵モルと一緒に、ニューヨークの街角で、周辺の工場から出た使えそうな廃品を探して回った。「カーペットを見つけ、ステージを作り、スポーツ選手が使うような馬を作り、そこに人が寄りかかったり座ったりできるようにしました」とウィルソンは言う。「100人収容できる音楽家用の部屋も作りました。昼も夜も働いて、6ヵ月くらいかかったよ。モルは給料を受け取らなかった。彼は、「君は王国を持つんだ」と言い続けました。」

ウィルソンは、クラブのブッキングに非常にリラックスしたアプローチをとっていた。「私は、契約した人は誰でも働けるように、予約をしていました。6週間前に予約したんだ。あるバンドは酷かったけど、満員になった。いいバンドもいて、満員になった。この方針は、ロフトの中でも、より多様なプログラムを生み出す結果となりました。長い部屋の一端にあるプレス加工されたブリキの天井から吊り下げられたパイプの下にあるステージでは、モンティ・ウオーターズ・ビッグバンド、サム・ブラウン=アート・ジェンキンス・バンド、シンガーのダコタ・ステイトン、そしてサニー・マレイのアンタッチャブル・ファクター、ハミエット・ブルイエットといったアバンギャルドのアーティストが出演していた。ウィルソンと彼のバンド、ボンド・ストリートは毎週日曜日のレギュラーだった。サックス奏者のジョージ・ブレイスやドラマーで作家のスタンリー・クラウチも、その歴史の中で異なる時期にこのクラブをブッキングを担当していた。

1974年から78年にかけて、レディース・フォートはエンビロン、ジャズマニア、サンライズ・スタジオを含む春のロフト・フェスティバルにも参加した。これは、ロフトでの活動を紹介する効果的な方法であり、地元メディアの注目を集めるのに十分な規模のイベントの臨界点を作り出した。ニューヨーク・タイムズ紙がロフトに寄せた長編記事は、ほとんどがこのフェスティバルの記事であった。

レディース・フォートは1979年、賃貸契約終了に伴い閉鎖された。

■ スタジオ・ウィー Studio WE

1963年にStudio Weの創設者であるジェームス・デュボワがニューヨークに来たとき、彼はすでにミュージシャンが自分たちの利益のために組織化することについて強い考えを持っていることを認識した。トランペット奏者である彼はピッツバーグで育ち、1959年にジャズ・ミュージシャンの雇用創出とコミュニティへの参加を目的とした「ユニバーサル文化芸術協会」(he Society of Universal Culture and Arts) を設立した。ニューヨークに移住後4年経った1967年のこと、193エルドリッジ・ストリートにあったピアニストのバートン・グリーンの6階のロフトでのジャム・セッションに参加する機会があった。1968年、バートンがヨーロッパ旅行に出かけるとき、デュボワに、自分が戻るまでこのアパートの面倒を見てほしいと頼んだ。バートンは1ヵ月間の予定が、1年半も帰ってこなかった。デュボアは、WKCRのベン・ヤングとのラジオ・インタビューで、「ニューヨークでは、1年半は長い時間だ」と述べている。

実際、いろいろなことが起こり始めた。193 Eldridge St.での活動は、1970年にデュボワが「We」というコンサートを開いたのを皮切りに、十分にゆっくりと始まった。それから1年ほど、彼はベーシストのリチャード・ヤングスタイン、サックス奏者のマーク・ホワイトケージ、ボーカリストのジョー・リー・ウィルソンなどのミュージシャンが参加する週末のコンサート・シリーズを開催し続けた。「大物ミュージシャンや有名ミュージシャンはファイブスポットで演奏していたのに、彼らはファイブスポットで演奏することができなかった。でも、いいミュージシャンだから、そこでコンサートを始めようと思いついたんだ」。

1971年、小さなサマーフェスティバルが開かれた。そして1972年、スタジオWEはニューヨーク・ミュージシャン・フェスティバルを開催する中心的な存在となった。それ以来、活動は雪だるま式に広がっていった。ジュマ・サルタンは、この建物の2階にプロ用の録音スタジオを設置した。6階と2階には、非常に手頃な料金で借りられるリハーサル・スペースが用意された。1階は、よりフォーマルなコンサート・スペースに改装され、デュボワの兄は、そこで人気のレストランを経営していた。

ベーシストのスティーブ・ティントワイスは、このビルでのジャムセッションやコンサートにいち早く参加し、ニューヨーク市公園局が運営する野外会場の場所や音質に関する専門家のような存在だった。彼は、スタジオWEに所属するミュージシャンのために、夏の野外コンサートを企画するのに貢献した。アメリカ建国200年祭が近づいた1974年から1976年にかけて、Studio WEはニューヨークの5つの区と、州北部のアルバニーで100以上の野外コンサートを開催したのだった。

5つのフロアを音楽専用にし、1つのフロアにはビジュアル・アーティストを配置したスタジオ WEは、新しい音楽にとって重要な交差点だった。現役バンドはそこでリハーサルを行い、ミュージシャンたちはそこで出会い、ジャムセッションを行い、新しい友情を育み、その結果、新しいバンドが形成された。ドラマー、スティーブ・リードの『ノヴァ』(ムスタビック 1975年、ユニバーサルサウンド 2004年再発)、サックス奏者、梅津和時の『生活向上委員会』(SKI 1975年)は、ロフト常連のトランペット奏者アハムド・アブドゥラ、ベース奏者、ラシード・シナンとともにこの建物のスタジオで録音されたのだ。また、音楽指導やアフリカの文化や言語のクラスも開かれていた。その活動は、時には文字通りノンストップであった。

「Three Days of Peace Between the Ears」フェスティバルを開催したら、あまりに多くのミュージシャンが集まったので、6階から4階、そして2階へと拡大しました」と、デュボワは回想する。「どの階にも音楽があった。ある日、音楽が始まり、私はそれを止めることができませんでした。昼から始まって、一日中続いたんです。家に帰り、戻ってくると、まだすべての階で音楽が流れていた。音楽が止まらないんです。2階で音楽を止めて、4階に上がると、また2階から始まるんです。だから、ベースが弾けないようにするしかない。ベースが止まったら、音楽も止まってしまうんです」。

スタジオWEの活動は、1970年代末に一段落するものの、1983年まで続いた。

■ひとつの時代の終わり

成功しているロフトも、常に経済的にギリギリのところで経営していた。このようなロフトが崖っぷちに立たされることは、そうそうあることではない。1977年、ローワーイーストサイドの開発が進み、ついに不動産価格が上昇し始めた。ロフトの新規出店は伸び悩み、既存のロフトは家賃の上昇に伴い閉鎖された。その夏、ジャズ界に長年くすぶっていた緊張が、ニューヨークタイムズのロバート・パーマーが「ニューポート・ジャズフェスティバルでスタジオ・リブビーとレディース・フォートの間で戦争が起きそうになった」と言うように、両者のロフト・フェスティバルは観客を二分し、より定評あるリブビーが抗議のためにフェスティバルをキャンセルする逆恨みを招いたのだ。

1970年代を通じて奮闘してきた多くのミュージシャンの演奏機会は、スイートベイジルやファットチューズデーといったクラブや、ジョセフ・パップのパブリックシアターでのコンサートシリーズ、1979年に500 West 52nd Streetにオープンし1984年まで続いたヴァーナ・ギリスのサウンドスケープへと移行し始めたのである。ヨーロッパの主要な音楽祭も演奏の機会を増やしてくれた。一部のロフトは持ちこたえたが、ロフト・シーンの勢いは10年の終わりにはほとんど失われてしまった。

ロフトの音楽は、エリック・ドルフィーの言葉を借りれば「宙に消えてしまった」のだが、ミュージシャンたちの闘いは続いていたのである。彼らは、自分たちの利益のために組織化する新しい方法を見つけたり、セルフ・プロデュースを続けたり、ヨーロッパやアメリカで増えつつあるインディペンデント・レーベルのために録音を始めたりするのである。

菅原光博「ジャズを撮る!」ロフト・ジャズ・シリーズ
https://jazztokyo.org/column/sugawara/post-74143/
https://jazztokyo.org/column/sugawara/post-74631/
https://jazztokyo.org/column/sugawara/post-75227/

©Ed Hazell
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稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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